日報126:値打ちなしと言われて
扉が開くまでに、少し間があった。
出てきたのは、痩せた男だった。
歳は五十の手前くらいだろうか。上着は仕立てのいいものだが、袖口が擦り切れていて、それを内側に折り込んで隠してある。髭は当たってあった。髪も梳いてある。
人と会う支度だけは、していた人の顔だった。
「……客人と、伺いました」
声は低く、こちらを見ていなかった。俺の胸のあたりで視線が止まっている。
俺は、一歩下がって頭を下げた。
「突然に申し訳ありません。北の外れの村で領主をしております、慎一と申します」
「領主」
その言葉に、彼の肩が小さく動いた。
「……ああ。あの、酒の」
「はい」
俺は、そこで嘘をつかなかった。
男は、それきり黙った。何か言うべきだと分かっていて、言葉が見つからない、という黙り方だった。
マルタさんが、間に入った。
「旦那様。この方は、山の石を買いたいと仰るのです」
「石」
「捨ててある石を、買うと」
伯爵は、ようやく顔を上げて、卓の上に置かれた板を見た。
「……これは?」
「うちの村で出た石です。……あの坑口の脇に積んであるのも、同じ物だと思っています」
彼は、板に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触っても」
「どうぞ。……そのために持ってきました」
その言い方に、彼の指がわずかに震えた。
板を持ち上げて、割れ口を光に当てて、しばらく黙って眺めていた。
「……あの山には、何もないと言われました」
「どなたに」
「債権者の、目利きに。……鉄も銅も掘り尽くしている、値打ちなし、と」
「鉄と銅が、と言われたのだと思います」
伯爵が、顔を上げた。今度は、はっきり俺を見ていた。
「ガルフ」
俺が呼ぶと、彼は帽子を取ってから前へ出た。
「三十年、山で食ってきた者でさ。……山ってのは、目当ての物の他にも石が出ます。売れねえ石は、坑道の外へ放る。掘った量の半分は、そうやって積まれます」
「半分」
「へえ。あそこの山も、上のほうだけ灰色に光ってた。……あれは、錆びない石だ」
伯爵は、板を持ったまま、何度も瞬きをした。
「……錆びない」
「氷炎石といいます」
俺は、そこで絵を広げた。
トランの描いた図が、卓の上に開く。箱の外側と、内側を割った図。石の並びと、隅に噛ませた布まで描いてある。
「この石で囲った箱を作ります。朝に熱い湯を入れて蓋をすると、翌朝になっても、まだ温かい」
伯爵の目が、絵の上を行ったり来たりした。
「……温かい」
「はい。冷たいものも、同じだけ保ちます」
「それが、何になるのですか」
その聞き方は、皮肉ではなかった。本当に分からない、という顔をしていた。
「今、生の魚は港から半日しか運べません。王都では、十匹出して二匹残ればいいほうだそうです」
「……そう聞きます」
「その二匹に、八匹分の損が乗っています。だから一匹が、下働きの人のひと月の手当ほどになる」
俺は、絵の端を指で押さえた。
「九匹残るようになれば、値は十分の一に下がります。値が下がれば、貴族だけでなく酒場が買う。町の家が買う。……その時に初めて、毎日荷が動くようになります」
伯爵は、絵を見たまま動かなかった。
「その箱を作るのに、石が要ります。乾燥小屋にも、氷を貯める蔵にも要ります。……三棟や四棟では済みません」
「……いくら、要るのですか」
「初めの一年で、荷車二十台」
彼が、初めて息を呑む音がした。
「値も決めてきました。荷車一台につき、銀貨五枚」
部屋の空気が止まった。
ヘンドリックが長椅子の上で身を起こし、マルタさんが竈のほうで手を止めた。土間の隅に立っていた若い娘が、口を押さえた。
「……五枚」
「はい」
「あの、石にですか」
「はい」
伯爵の手から、板が滑りかけた。彼は慌ててそれを抱え直して、卓の上に戻した。
「……なぜ、そんなに」
俺は、そこで正直に答えた。
「積んで運ぶのに、四人で三日。道が往復で六日。人の日当と、馬の飼葉と、荷車の傷み。……それだけで銀貨三枚かかると、うちの者が算えました」
「では、残りの二枚は」
「あなたの取り分です」
伯爵が、口を開いたまま止まった。
「手間の分しか払わないと、あなたは働いても何も残らない。……何も残らない仕事は、続きません。うちは、十年買い続けたいので」
その時、彼の顔が、はっきりと歪んだ。
俺は、それを見ていた。喜びの顔ではなかった。もっと悪いものを飲み込もうとしている顔だった。
「……慎一殿」
彼は、卓に両手をついた。
「あなたは、私が何をしたか、ご存じなのですか」
部屋の全員が、こちらを見た。
(……向こうから言った。)
俺は、逃げずに答えた。
「聞いています。すべてではありませんが」
「では、なぜ」
伯爵の声が、かすれた。
「なぜ、値をつけるのですか。……私は、あなたの酒の名を汚した人間です」
「そうですね」
俺は、否定しなかった。
「それでも、石の話をしに来ました」
「……分からない」
「分かりにくい話だと思います」
俺は、一度息を整えてから続けた。
「一つ、先に申し上げておきます。……今日、その話はしません」
伯爵が、顔を上げた。
「しない」
「はい。……順番を逆にしないためです」
彼は、意味が取れないという顔をしていた。
「今この場で、あなたのなさったことの話を始めたとします。……そうすると、あなたはもう、石を売る以外に選べなくなる」
部屋が、しんとした。
「断れば、こちらに何をされるか分からない。そう思いながら結ぶ約束は、取引ではありません。……脅しです」
「……脅し」
「私は、あなたと十年商売をしたい。脅して結んだ約束は、十年もちません」
伯爵は、卓についた手を見ていた。指が、震えているのが分かった。
「先に、石の話を終わらせます。値も、量も、払い方も、こちらの言い分は全部お伝えしました。……その後で、別の日に、もう一度伺います」
「別の日に、何を」
「あなたがなさったことの話を、します」
俺は、そこで初めて、少しだけ声を落とした。
「その時は、あなたが断れる立場でいてください。……断られたら、私は帰ります」
誰も、何も言わなかった。
竈の薪が一度爆ぜて、火の粉が上へ飛んだ。
「……慎一殿は」
伯爵の声が、震えていた。
「……なぜ、そこまで面倒なことを」
「面倒なほうが、後で楽だからです」
俺は、そう答えて、絵と板を卓の真ん中へ押した。
「それと、もう一つ。……今日、お返事はいりません」
「え」
「三日、置いてください」
伯爵の目が、はっきりと泳いだ。
「……三日」
「はい。その間に、うちのガルフに山を見せていただきたい。あの捨て石が本当に氷炎石なのか、割ってみないと分かりません」
「もし、違ったら」
「違ったら、この話は無しです。……私は板を持って帰ります」
俺は、彼の目を見た。
「本物だったら、三日後にもう一度、同じ話をしに伺います。その時に、お返事をください」
伯爵は、しばらく黙っていた。
「……私に、選ばせるのですか」
「あなたの山です」
俺は、そう言ってから、少し言葉を足した。
「私は、選べる形にして並べるだけです。……決めるのは、あなただ」
その瞬間、彼の顔が崩れた。
声を上げたわけではない。ただ、卓についた手の甲に、雫が一つ落ちて、そのまま動かなくなった。
マルタさんが、竈のほうへ背を向けた。肩が震えていた。
ヘンドリックは、天井を見上げていた。
俺は、待った。
急かす理由が、何一つなかった。
やがて、伯爵が顔を上げた。目は赤かったが、視線は逸れなかった。
「……山を、見ていきなさい」
「よろしいのですか」
「私の山です。私が、見せると言っている」
彼は、そこで初めて、自分の言葉で何かを決めた顔をした。
「明日の朝、案内をつけます。……この谷で、坑道に入ったことがあるのは、もうヘンドリックだけですが」
「わしでよければ、行く」
長椅子から、そんな声が返ってきた。
「膝は」
「山道は、下りが辛いだけじゃ。上りは、まだいける」
その夜は、空いていた家の一つを貸してもらった。
埃を払って、藁を敷いて、三人で並んで横になった。
ガルフは、横になってからも天井を見ていた。
「慎一様。……明日、割りますよ」
「頼む」
「もし違ってたら、俺は谷から出られませんな」
「そんなことはない」
「いや、出られませんて。……あんな顔をさせといて、違いましたじゃあ」
俺は、暗い天井を見ながら答えた。
「違っていたら、違ったと言いに行く。……それが一番早い」
ミオが、寝返りを打った。
「シンイチ」
「なんだ」
「あのおじさん、悪い人?」
俺は、少し考えてから答えた。
「悪いことをした人だ。……悪い人かどうかは、まだ分からない」
「ふうん」
彼女は、それだけ言って、すぐに寝息を立て始めた。
俺は、板を膝に載せて、その日の分を書いた。
――第百二十四日目。廃村着。マルクス伯、当地に在り。使用人はマルタ殿と、下働きの娘一名。
――坑口の脇に捨て石の山二つ。上部が灰色に光る。ガルフの見立て、氷炎石の見込み。
――石の話のみを提示。荷車一台につき銀貨五枚、初年二十台。返事は三日後。
――偽造の件、先方から言及あり。こちらは受け止めたが、今日は話さないと伝えた。
――理由を伝えた。順番を逆にすると、相手が断れなくなる。それは取引ではない。
――明朝、坑口へ。案内はヘンドリック殿。伯爵の許しによる。
最後に、もう一行だけ足した。
――あの人は、今日、自分で一つ決めた。
炭を置いて、灯を消した。
壁の隙間から、まだ細い煙の匂いがしていた。竈の火は、今夜も落とされていないらしい。




