日報125:竈の火と、奥の部屋
辺境に来てから第百二十四日目の朝。
丘を下りる前に、ヘンドリックが荷を担ぎ直して言った。
「わしが先に立とう」
「待ってください」
俺は、少し考えてから続けた。
「あなたが先に立つと、あなたが我々を連れてきたことになります。……後で、あなたが責められるかもしれない」
ヘンドリックは、俺の顔をしばらく見ていた。
「責める者は、もうおらんよ」
「まだ二人いる、と伺いましたが」
「……あの二人は、責めん」
そう言って、彼は先に歩き出した。
「それに、わしが黙って後ろにおったら、マルタは戸を開けん。……あんた方には、開けんぞ」
そこまで言われて、止める理由がなくなった。
谷へ下りる道は、思ったより歩きやすかった。荷馬車が何度も通った跡が、そのまま道になっている。
途中、ガルフが急に足を止めた。
彼が見ていたのは、谷の東側だった。斜面の中腹に、黒い口のようなものが開いている。坑口だ。
その脇に、灰色の山が二つ、盛り上がっていた。
「……慎一様」
ガルフの声が、少し掠れていた。
「あるか」
「あそこまで、行っていいですかい」
「駄目だ」
俺は、彼の肩を軽く叩いた。
「あれは、まだよそ様の山だ。……ここから見て、分かることだけ言ってくれ」
ガルフは、その場にしゃがんで、目を細めた。
「……色が違いまさぁ」
「どう違う」
「捨て石の山ってのは、たいてい茶色っぽく錆びる。鉄が混じってるからだ。……あの山は、上のほうだけ灰色に光ってる」
「それは」
「氷炎石は、錆びません。……雨に打たれても、色が変わらねえ」
俺は、その山をしばらく見ていた。
(……見に行きたい。走って行って、割ってみたい。)
(……だが、今日それをやったら、この後の話が全部だめになる。)
「今日は、見ない」
「へえ」
「先に、人に会う。……石は、逃げない」
村に入った。
家が十九棟。どれも壁の下のほうに苔が生えていて、屋根の稜線が波打っている。
人の気配はなかった。戸が開けっ放しの家がいくつかあって、中には藁と、木の破片が散らばっている。
その中で、一棟だけ様子の違う小屋があった。
扉の脇に、空の瓶が箱ごと積まれている。地面には、こぼれた砂糖が雨に溶けた跡が白く残っていた。
「シンイチ。ここ、入る?」
ミオが、扉の隙間を覗きながら聞いた。
「入らない」
「なんで。中に何かあるかもよ」
「あるだろうな。……だが、ここは人の家だ」
俺は、そのまま通り過ぎた。
(……入って何かを見つけたら、それは黙って入って見つけた物になる。)
(そんな物は、どこへ持っていっても使えない。)
谷の奥。
煙は、一番奥の、他より少しだけ大きな家から上がっていた。
ヘンドリックが、その戸を叩いた。
「わしじゃ」
中で、何かが落ちた音がした。
それから、戸が勢いよく開いた。
白髪を短く刈った、背の低い女の人だった。腕まくりをしていて、手が濡れている。
「ヘンドリック」
彼女は、俺たちには目もくれずに、まっすぐヘンドリックの前へ出た。
「なんで戻ってきたんだい」
「荷を、取りに」
「嘘をおつき」
その一言で、ヘンドリックの肩が下がった。
「……足が、駄目でな」
「そうだろうさ」
女の人は、彼の右膝を一度見て、それから彼の顔を見上げた。
「膝が悪いのに、あんたを歩かせたのかい。あの子らは」
それには誰も答えなかった。
「……お入り。湯を沸かしてある」
そこでようやく、彼女が俺たちのほうを向いた。
目が、はっきりと固くなった。ミオを見て、一度止まった。
俺は、五歩ほど手前で足を止めた。
「マルタさんでいらっしゃいますか」
「……そうだけど」
用意していた言葉が、そこで宙に浮いた。
水を一杯、と言うつもりだった。だが、今それを言うのは順番が違う。
「慎一と申します。ガルフと、ミオです」
俺は、それだけ言って、ヘンドリックのほうを見た。
「この方の膝を、先に見てあげてください。……道の途中から担いできましたが、腫れが引いていません」
マルタさんは、しばらく俺を見ていた。
「……あんた方が、担いできたのかい」
「うちの者が背負いました。私は荷を持っただけです」
「そうかい」
彼女は、それだけ言って、家の中へ顎をしゃくった。
「入りなさいな。……立たせたまま話す気は、ないよ」
中は、思ったより暖かかった。
土間の奥に竈があって、火が細く保たれている。鍋が一つかかっていて、湯気が上がっていた。棚には器が並び、そのどれもが、きちんと同じ向きに伏せてある。
ヘンドリックが長椅子に座らされ、マルタさんが濡れた布を彼の膝に当てた。
その間、俺たちは土間に立っていた。座れ、とは言われなかったが、追い出されもしなかった。
やがて、彼女が振り返った。
「……で。あんた方は、何をしに来たんだい」
「土地の話です」
俺は、正直に言った。
「北の外れの村から来ました。この谷の土地を、うちが正式に借りたいと考えています」
「借りる」
「はい。王家の土地ですので、王都に願い出る形になります」
マルタさんの手が、布を絞ったまま止まった。
「……つまり、わたしらに出ていけと」
「いいえ」
俺は、すぐに答えた。
「そうしないために、先に来ました」
彼女は、返事をしなかった。
「願い出れば、たぶん通ります。ここは王家の土地で、許しなく人が住んでいますから。……ですが、それをやると、あなた方は行き場をなくす」
「今さら、行き場も何も」
「あなたは、ここに残っておられます」
その言葉に、彼女の眉が動いた。
「竈の火を落とさずに、残っておられる。……行き場がないから残ったのではなく、残ることを選ばれたんだと思います」
しばらく、竈の薪が爆ぜる音だけがしていた。
「……よく回る口だね」
「そう言われます」
その時、ミオが鍋のほうを見て、あっさりと言った。
「いい匂い。それ、なに入ってるの」
「豆と、干した菜っ葉だよ」
「へえ。……うちのより、いい匂いする」
マルタさんが、初めて瞬きをした。
「……お食べ。あんた方も、まだなんだろう」
「いただきます」
ミオが即答した。
俺が止める間もなく、器が四つ並んだ。
豆の汁は、薄かった。だが、塩の当て方が丁寧で、驚くほどうまかった。
ガルフが、器を持ったまま唸った。
「……こりゃ、いい塩梅ですな」
「塩が少ないからね。……足りない時ほど、丁寧にやるしかないのさ」
俺は、その言葉を聞いて、器を置いた。
「マルタさん。一つだけ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだい」
「マルクス伯爵家の、当代の方はどちらにおられますか」
空気が、はっきりと変わった。
マルタさんが、布を置いて、こちらへ向き直った。目に、隠す気のない敵意があった。
「……何のために」
「借りるには、旧い権利を持っている家の同意が要ります。この谷の採掘権は、まだ伯爵家のものです。……ご本人の署名でないと、通りません」
「署名を、取りに来たのかい」
「はい」
俺は、そこで嘘をつかなかった。
「ですが、それだけではありません」
「ほう」
「もう一つ、買いたい物があります」
俺は、荷を解いた。
藁と板に挟まれた包みから、氷炎石の板を一枚出して、竈のそばの卓に置いた。
割れ口が、火明かりを鈍く返した。
「……石かい」
「はい。あの坑口の脇に、山になって積んであるものです。……値打ちなしと言われて、捨てられた石です」
マルタさんは、しばらくそれを見ていた。
「そんな石を、どうするんだい」
俺は、トランの描いた絵を広げて、その隣に置いた。
「これで囲った箱を作ります。朝に熱い湯を入れて蓋をすると、翌朝になっても、まだ温かい」
「……嘘をおつき」
「試しました。うちの村で、二つ並べて」
俺は、紙のほうを指した。
「石を張っていない箱は、半刻でぬるくなりました。張ったほうは、丸一日と一晩、温かいままでした」
彼女は、絵と板を交互に見ている。
「それが、何になるのさ」
「冷たいものも、同じだけ保ちます。……氷を入れれば、遠くまで運べる」
そこで、俺は言葉を切った。
「まだ、氷では試していません。それはこの紙にも書いてあります」
マルタさんは、絵から目を離して、俺を見た。
「……あんた、変な人だね」
「よく言われます」
「売り込みに来て、できてないことを先に言うのかい」
「言わずに始めると、後で困るのはこちらですから」
彼女は、何か言いかけて、やめた。
「値も、決めてきました」
俺は、そこで一つ息をついた。
「荷車一台につき、銀貨五枚。積んで、うちまで運んでいただいた分だけお支払いします。……初めの一年で、二十台ほど買いたい」
鍋の湯気が、天井のほうへ細く上がっていた。
「……二十台」
「はい」
「あの、要らない石を」
「うちにとっては、要ります」
マルタさんが、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
膝の上で、両手を組んで、そのまましばらく動かなかった。
それから、彼女は奥の部屋のほうへ顔を向けた。
土間の突き当たりに、閉じた扉がある。俺は、そこに部屋があることに、その時まで気づいていなかった。
「……マルタ」
ヘンドリックが、小さな声で言った。
「よいのか」
「よくないよ」
彼女は、そう答えてから立ち上がった。
「よくないけどね。……この人は、あの石を買うと言ったんだ」
そして、扉に向かって声をかけた。
「旦那様。……お客様でございます」
俺は、そこで初めて、この家の煙が誰のために焚かれていたのかを理解した。




