日報129:三日目の返事と、見知らぬ封蝋
辺境に来てから第百二十七日目の朝。
目が覚めた時には、ガルフがもう荷をまとめ終えていた。
「気が早いな」
「どっちに転んでも、今日発つんだ。……へこんでから荷を作るのは、しんどいですからね」
奥の家へ行くと、伯爵が土間に立っていた。
昨日までと、立ち方が違っていた。
手に、紙を一枚持っている。折り目のついた、端の焼けた紙だ。竈のそばで書いたのだろう。
「おはようございます」
「……おはようございます」
彼は、その紙を胸のあたりで一度持ち直した。
「三日、考えました」
「はい」
「お売りします。……あの石を」
マルタさんが、竈の前で手を止めた。
ネルさんが、その後ろで息を呑んだ。
「ありがとうございます」
俺は、頭を下げた。
「それで、一つだけ、申し上げたいことがあります」
「どうぞ」
「銀貨五枚は、高すぎます」
俺は、顔を上げた。
「三枚で結構です。……手間の分だけ、いただければ」
伯爵の手が、紙を握っていた。震えてはいなかった。三日かけて、そう決めてきた顔だった。
「お断りします」
「……え」
「五枚です」
俺は、そこで一歩前に出た。
「あなたが、ご自分の取り分を減らすのは自由です。……ですが、それを私が受け取ると、私は困っている人から安く買った領主になります」
「そのようなことは」
「思われます。うちの帳場でも、王都でも」
俺は、板を開いた。
「それに、二枚を削ると、来年あなたが人を雇えません。……人を雇えない相手からは、再来年は買えなくなる」
伯爵は、口を開けたまま俺を見ていた。
「……こういう断られ方は、初めてです」
「今後十年の話をしていますので」
俺は、そこは譲らなかった。
「初めの一年で得をしても、仕方がないんです」
しばらくして、彼は自分の持っていた紙を、そっと卓の上に置いた。
「では、決まった事を書きます」
「今、ですか」
「今です。……口で決めたことは、翌朝には形が変わりますので」
マルタさんが、卓の上を布で拭いてくれた。
ネルさんが、奥からインク壺と羽根ペンを持ってくる。インクは底のほうで固まりかけていて、水を少し差して、ようやく色が出た。
「これは」
「屋敷から持ってきた物です。……使うのは、数か月ぶりですが」
俺は、紙を二枚並べた。
書き出そうとして、一つ手が止まった。
「テオドール様。……この谷は、何という名でしょうか」
伯爵が、顔を上げた。
「エルツ谷です」
「エルツ」
「古い言葉で、鉱石のことだと聞いております。……もっとも、もう誰もそうは呼びませんが」
「では、これからはちゃんと呼びましょう」
俺は、そう答えた。
「紙に書けば、それが名になります。……名のない土地から石を買うことは、できませんので」
ヘンドリックさんが、長椅子の上で何か言いかけて、やめた。
一行目を書いた。
――エルツ谷にて出る氷炎石について、下記のとおり取り決める。
二行目を書きながら、手が少しだけ遅くなった。
(……そういえば、うちの村には、紙に書ける名がない。)
人に聞かれれば「北の外れの村」と答えてきた。王都でもそう名乗った。
だが、あれは場所の説明であって、名前ではない。
(……帰ったら、正式に考えないといけないな。)
その分だけ、丁寧に書いた。
――一、荷車一台につき、銀貨五枚。積み込みと、北の外れの村までの運搬を含む。
――二、初めの一年で、二十台。荷馬車と馬は、買い手が用意する。
――三、積み込みの人手は、売り手が用意する。
――四、代金は、荷が村に着いた台ごとに払う。
――五、この取り決めは、坑口の脇に積まれた捨て石についてのもの。坑道を開けることは、含まない。
「テオドール様。……四番目を、よく見てください」
「着いた台ごとに、ですか」
「はい。前払いはしません」
「……それは、こちらに厳しいのでは」
「そうです。厳しい条件となります」
俺は、そこは誤魔化さなかった。
「ですが、前払いにすると、あなたは私に借りができます。……借りのある相手には、物が言えなくなってしまう」
伯爵が、紙を見たまま動かなくなった。
「一台目が着けば、その日に銀貨五枚が出ます。……それを見てから、二台目を出すかどうか、あなたが決めればいい」
彼は、しばらく黙っていた。
「……慎一殿は、私に、何度も決めさせますね」
「はい」
俺は、そこで少し笑った。
「自分で決めた人は、途中で降りる事がありませんので」
書き終えてから、俺はペンを置いた。
「では、読み上げます」
「読んでいただかなくとも、目は通せます」
「聞いていただきたいのは、テオドール様だけではありませんので」
俺は、土間のほうへ体を向けた。
マルタさんが、麦の器を脇へ置いた。ネルさんが、両手を前で組んだ。ヘンドリックさんは、長椅子の上で背を起こした。
一条ずつ、ゆっくり読んだ。
読むたびに、伯爵が小さく頷く。三条目のところで、マルタさんが息を吸う音がした。
「……違うと思われたところがあれば、そこで止めてください」
誰も、止めなかった。
「では、二枚が同じ文か、見ていただけますか」
俺は、紙をマルタさんのほうへ向けた。
「あたしが、かい」
「書いた本人が読み直しても、間違いは見つかりません。……別の目が要ります」
彼女は、灯を近づけて、二枚を交互に指でなぞった。行の頭を一つずつ突いて、二度、往復した。
「……同じだよ」
「ありがとうございます」
ペンを、伯爵のほうへ向けて置いた。
彼は、それをしばらく見ていた。それから、擦り切れた袖口を内側へ一度折り込んでから、手を伸ばした。
ペン先が紙に触れる前に、小さく息を吸う音がした。
テオドール、と書いた。一画ずつ、ゆっくりと。
マルクス、と続けるところで、また少し止まった。
(……王都の夜会とは違う人の様だ。)
夜会で、金貨九十枚と叫んだマルクス伯とは全然違う雰囲気だ。
あの時、俺は名簿に「金の匂いに敏感な男」と書いた。真っ先に声をかけ、投資という言葉を選び、目が光るのを確かめて、次へ回った。
(……逆だったな。)
(金に敏感だったんじゃない。決められないから、決めてくれるものに飛びついていただけだ。)
(賽の目でも、競りの熱でも、……名を借りればいい、という話でも。)
二枚目も、同じ速さで書いた。
書き終えた時、紙の端がわずかに湿っていた。
俺は、その下に自分の名を書いた。
「立会いを、お願いできますか」
マルタさんの字は、大きかった。ペンを紙に押しつけるように書くので、線が太くなる。
ヘンドリックさんは、右手が震えると言って、姓だけを書いた。それでも、一文字ずつは読めた。
ネルさんは、俯いたまま動かなかった。
「……字が」
「では、指をお借りします」
俺は、炭を粉にして、彼女の親指の腹につけた。
「ここに、押してください。……これで、あなたがこの場にいたことになります」
ネルさんは、しばらく自分の指を見てから、そっと紙に押した。
離してから、残った跡をじっと見ていた。
「あたしも押す」
ミオが横から手を出した。
「ミオは、うちの人間じゃないか」
「じゃあ、うちの側で押す」
結局、名と印が、紙の両側に並んだ。
最後に、俺は二枚を少しずらして重ねた。
「何を、なさるので」
「境目に、印を押します」
炭をつけた親指を、二枚にまたがる形で一度押した。
「片方だけ後から書き足されると、揉めますので。……重ねた時にこの跡が繋がれば、対の紙だと分かります」
伯爵は、その跡を長いこと見ていた。
「……そこまで、なさるのですか」
「ええ。お互いに決めたことを守るためには必要なことなんです」
一枚を彼に渡し、一枚を巻いて荷に入れた。
「取り決めの紙を持つのは、久しぶりです」
そう言って、彼はそれを両手で持ったまま、しばらく座っていた。
それで、石の話は終わりだった。
俺は、一度水を飲んでから、卓の向かいに座り直した。
「テオドール様。……ここから、別の話をします」
部屋の空気が、音を立てたように変わった。
マルタさんが竈のほうへ体を向けた。ヘンドリックさんが背筋を伸ばした。ネルさんは、動かなかった。
「一昨日、申し上げた話です」
「……はい」
「先に一つだけ。……石の取り決めは、もう書きました。あなたの署名も、私の署名も入っています」
俺は、荷のほうを指した。
「ここから先、あなたが何を答えても、あの紙は変わりません。答えたくなければ、答えなくて構いません。……その場合、私はこのまま帰ります」
「帰られる」
「はい。石は、それとは別に取引させて頂きます」
伯爵は、長い間、卓の木目を見ていた。
「……それでは、ご質問に答えるかどうかは私の判断次第と」
「そうです。私からは質問のみをして返答の強要はしません」
「あなたの判断で回答してもらいたいと思っています」
彼は、そこで顔を上げた。
「オズワルド、と申します」
俺は、その名を聞いても、顔には出さなかった。
「王都の酒屋の主人でした。……先代からの店で、うちにも長く出入りしておりました」
「その方が」
「私に、話を持ってきました。……北の村の新しい酒が、たいそうな値で売れていると。名だけ借りれば、うちの蔵の物も同じ値で動く、と」
「あなたは」
「断りませんでした」
彼は、そこは言い訳をしなかった。
「金がなかった、と申し上げたところで、言い訳にしかなりません。……使用人の手当が、三月分溜まっておりました」
俺は、それを黙って聞いた。
(……責める言葉は、いくらでも出てくる。)
(だが、それを言いに来たんじゃない。)
「後から屋敷に出入りするようになった六人は」
「あの男が連れてきた者たちです。……名は、本当に知りません」
「あの人たちは、今どこに」
伯爵は、首を横に振った。
「南へ出た、としか。……ただ、オズワルドは、王都へ戻ると申しておりました」
「王都に」
「はい。『あそこでないと、次はできない』と」
俺は、その言い方を頭の中に留めた。
(……次がある、と言っている。)
(うちの酒の名を騙る手は、もう使えない。査察で潰れて、王都に記録が残った。)
(……なら、次に名を借りるのは、どこの誰だ。)
「もう一つ、伺います。……あなたの使用人を十人、連れて出たのは」
「あの男の差配だと思います。……荷を出せ、紙は燃やせ、と言い出したのも」
彼は、そこで少し声を落とした。
「私は、止められませんでした。……あの時にはもう、私は、自分の屋敷の中で一番弱い人間でしたので」
竈で、薪が爆ぜた。
「テオドール様」
「はい」
「一つだけ、責めさせてください」
伯爵の肩が、強張った。
「あなたは、あの十人に何も言わずに行かせました。……行き先も聞かずに」
「……はい」
「それが、今、一番困っています」
俺は、板を開いた。
「石を積むのに、人が要ります。その十人に戻ってきてもらうしかない。……ですが、どこにいるか分からない」
伯爵が、俺の顔を見た。
「……それだけ、ですか」
「それだけです」
俺は、板の上に炭を置いた。
「酒のことは、私が裁く話ではありません。……ですが、今、人が足りないのは、私の問題です」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、伯爵が立ち上がった。
奥の部屋へ入って、小さな木箱を持って出てくる。
蓋を開けると、中に瓶が一本、藁に包まれて入っていた。
中身が、まだ入っている。
俺は、その底を見た。
――村の紋。
「これだけ、燃やしませんでした」
「……なぜです」
「これが、私のやったことですので」
彼は、箱ごと卓の上に置いた。
「持っていてください、とは申しません。……ですが、私が持っていても、何にもなりません」
俺は、その瓶を藁ごと持ち上げた。
思ったより重い。中身は、半分より上まで入っている。
栓には、蝋が垂らしてあった。
その封蝋に、印が押してある。
(……うちの印じゃない。)
うちの瓶に蝋は使わない。栓は木で、上から布を被せて縛るだけだ。
押してあったのは、二本の線が斜めに交差した、簡単な印だった。
どこかで見た気もするが、思い出せない。
「テオドール様。この蝋は、どなたが」
「……存じません。私のところへ来た時には、もうこの形でした」
「お預かりします」
俺は、瓶を箱に戻して、荷の一番上に入れた。
(……この印を押した人間は、瓶に蝋を垂らす習慣がある。)
(つまり、酒を扱い慣れている。……ヨナス殿なら、知っているかもしれない。)
底には、うちの村の紋がある。
栓には、知らない印が載っている。
一本の瓶の中で、二つの名前が重なっていた。
そして、そのどちらも、この酒を造ってはいない。




