日報123:朝の湯と三日前の轍
辺境に来てから第百二十二日目の朝。
まだ暗いうちに作業場へ行くと、エリナとトランが先に来ていた。
「開けますか」
「頼む」
石を張った箱の蓋が上がる。
昨日の朝に入れた革袋に手を当てた。
――温かい。
熱いとは言えない。だが、丸一日と一晩置いて、まだ手のひらに残る程度には温かかった。
「……まだ、ございますね」
エリナが、灯を近づけて自分でも触れた。
「トラン。木のほうは」
「昨日の夕方で冷え切ってらぁ。……比べるのも気の毒だ」
俺は、荷から紙を出して、三番の下に一行だけ書き足した。
――一昼夜置いて、まだ温かい。
「これだけは、持っていきたかった」
「間に合ってよかったな、大将」
「間に合った。……エリナ、氷が届いたら、同じやり方で頼む」
「承知いたしました」
空が白む頃、門の前に人が出てきた。
セシリアが書きつけの束を抱え、リリィが槍を立てて並び、ラグナが少し離れて立っている。ヴァレリウスは、見送りの列には入らず、見張り台の下から一度だけ頭を下げた。
「行ってくる。……六日から七日で戻る」
「お気をつけて」
それだけだ。長く喋ると、かえって不安にさせる。
「リリィ。順番表、楽しみにしている」
「はい! 直しておきます!」
「ラグナ。……石を割るのは、無理をしないでくれ」
「……はい。行ってらっしゃいませ」
セシリアは、最後に書きつけの束から一枚だけ抜いて、俺に差し出した。
「留守中の取り決めの、写しでございます」
「それは、君が持つものだろう」
「二枚作りました。……一枚は、シンイチ様がお持ちください」
「なぜだ」
彼女は、目を伏せずに答えた。
「お戻りになるまで、私が勝手に書き換えないという証でございます。……それと」
「それと」
「お持ちいただければ、戻ってきて突き合わせる用ができます」
俺は、その紙を受け取って、荷の一番上に入れた。
「……よく考えたな」
「紙のことしか、思いつきませんので」
村を出て、北へ向かった。
ガルフが先頭で、ミオがその少し前を歩き、俺が真ん中だ。荷は三人で分けている。氷炎石の板だけは、ガルフが自分の背に負った。
昼近くになって、道が林の中へ入った。
「慎一様。一つ、聞いてもいいですかい」
「なんだろうか」
「あの伯爵さんに、なんで五枚も出すんで」
俺は、少し驚いて彼を見た。
「昨日の話、聞いていたのか」
「ヨナスの旦那が、感心して喋ってましたぜ。……三枚で買えるものを五枚で買う領主は初めてだ、と」
ガルフは、笑うでもなく前を向いたまま歩いている。
「手間の分しか払わないと、続かないからだ」
「そりゃ聞きました。……けど、それだけですかい」
俺は、しばらく歩いてから答えた。
「それだけだ。……ただ、続かない仕事がどうなるかは、何度か見ている」
「へえ」
「石を掘る人が、来年もそこにいてくれないと、うちが困る。……情けの話じゃない」
ガルフが、鼻から息を抜いた。
「……俺も、一度は要らねえと言われた側でさ」
俺は、口を挟まずに続きを待った。
「山を追い出されて、掘るなと言われて。……それでも掘るしかねえから、夜に人の山へ入った」
「盗掘か」
「そうです。……食えなきゃ、やる」
彼は、そこで首の後ろを掻いた。
「捕まって、腕を折られて、次の山へ行って、また同じことをやって。……そのうち、自分でも自分を要らねえ人間だと思うようになる」
俺は、何と言えばいいのか分からずに、黙って歩いた。
「慎一様に拾われた時、正直、また使い潰されるんだと思ってましたぜ。……そういう拾われ方しか、知らなかったんで」
俺は、足元の石を一つ避けてから言った。
「今は」
「今は、鉱山の帳簿を書いてまさぁ」
ガルフは、そこでようやく笑った。
「三十年掘ってきて、帳簿を書かされたのは初めてだ」
「書きにくいか」
「へへ。……悪くねえです。俺の掘った量が、紙に残るってのは」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「だからね、慎一様」
ガルフが、背中の荷を少し担ぎ直した。
「五枚のほうが効きますぜ。……三枚だと、あの伯爵さんは『やっぱり自分は値打ちなしだ』と思うだけだ」
俺は、それを聞いて、少しの間、返す言葉を探した。
「……そういう言い方ができるのは、あんただけだな」
「へへっ」
昼を過ぎて、道が開けたところで休んだ。
ミオが木の上から降りてきて、俺の隣に座る。
「シンイチ」
「どうした」
「……あたし、向こうでしゃべらないほうがいい?」
彼女は、干し肉を齧りながら、目を合わせずに言った。
「なぜだ」
「だって、獣人がべらべら喋ったら、警戒されるかなって」
「逆だ。しゃべってくれ」
「逆?」
「黙って立っている獣人のほうが、よっぽど怖がられる」
ミオが、目を丸くした。
「……そういうもん?」
「そういうものだ。……人は、分からないものを怖がる。喋る相手のことは、そのうち怖がらなくなる」
「ふうん」
彼女は、干し肉をもう一口齧った。
「じゃあ、何しゃべればいいの」
「道のこと。天気のこと。腹が減ったとか、そういうのでいい」
「それでいいんだ」
「それがいい」
ガルフが、水袋を回しながら口を挟んだ。
「嬢ちゃん。飯のうまい不味いを言うのが一番でさ。……台所を預かってる人ってのは、それだけで気を許す」
「マルタさんって人?」
「そうだ」
俺は、水を受け取りながら頷いた。
「……ガルフ、それは覚えておく」
休みを終えて歩き出してから、ガルフがもう一つ聞いてきた。
「慎一様。……もし、向こうにオズワルドがいたら、どうしますかい」
俺は、正直に答えた。
「決めていない」
「決めてない、ですかい」
「決めていない。……会ったことも、顔を見たこともない人だ。先に決めておいて、思っていたのと違ったら、こっちが引っ込みがつかなくなる」
「引っ込みがつかねえと、どうなります」
「引っ込みがつかない人間は、そこから先、間違いを認められなくなる。……それが一番まずい」
「じゃあ、その場で決めると」
「その場で見て、決める。……ただ、一つだけ先に決めてある」
「なんです」
「怒鳴らない。……向こうが何を言っても」
ミオが、前を歩きながら振り返った。
「シンイチが怒鳴るとこ、見たことないけど」
「あるさ。……前の職場で、一度だけな」
そう言うと、ミオはそれ以上聞かずに前へ向き直った。
日が傾いてから、古道との合流点に出た。
ミオが先に走って行って、道の真ん中でしゃがみ込んでいる。追いつくと、彼女は土に残った溝を指でなぞっていた。
「轍。……深い」
「新しいか」
彼女は、少し考えてから首を振った。
「……三日は経ってる。雨のあとが、上に乗ってるから」
「三日か」
ガルフが、しゃがんで自分でも溝を見た。
「積んでますな。この深さは、空じゃねえ」
「向きは」
「北から、南へ。……ここを抜けて、街道のほうへ出てます」
「南へ、か」
「はい」
「戻ってきた跡は」
ミオが、道の端まで歩いて、それからしゃがんだままで首を横に振った。
「ない。……行った分だけ」
俺は、その溝をしばらく見ていた。
(……クロウが数えた二台と、たぶん同じだ。)
(三日前。……こっちが箱を作っている間にも、向こうは荷を出している。)
「急ぐか」
ガルフが、俺の顔を見た。
「急がない。……夜道で転んで、板を割ったら元も子もない」
それでも、その日は暗くなるぎりぎりまで歩いた。
日が完全に落ちる前に、ミオが道を外れて林へ入り、しばらくして戻ってきた。
「あっち。窪みになってて、火が外から見えない」
「水は」
「少し下りたところに、湧いてる」
「決まりだ。……頼む」
夜。
その窪みに火を熾して、三人で干し肉と堅焼きのパンを分けた。
ガルフが、火に枝をくべながら、ぽつりと言った。
「慎一様。明日の晩には、廃村が見える所まで行けまさぁ」
「早いな」
「この足ならね。……ただ、着くのは明後日の昼でしょう」
「それでいい。……夜に着かないようにしてくれ」
「へえ。……なんでです」
「暗くなってから、知らない人間が三人で訪ねてきたら、俺だって戸を開けない」
ガルフが、声を出さずに笑った。
「そりゃそうだ」
ミオが先に横になり、ガルフが火の番に残った。
俺は、膝の上に板を置いて、その日の分を書いた。
――第百二十二日目。朝、箱を開ける。一昼夜置いて、まだ温かい。紙に一行足した。
――村を発つ。同行、ガルフとミオ。荷は三人で分けた。
――古道の轍、三日前のもの。深い。北から南へ抜けている。積み荷あり。
――マルタ殿には、飯の話から入るとよい。ガルフの助言。
最後に、もう一行だけ書き足した。
――五枚の理由。「三枚だと、あの伯爵さんは、やっぱり自分は値打ちなしだと思うだけだ」
炭を置いて、火の向こうのガルフを見た。彼は、何を考えるでもなく枝を折って火にくべている。
(……この人は、要らないと言われたところから戻ってきた人だ。)
(同じことができる相手が、あと二日先にいる。)
北の空には、まだ何も見えなかった。




