日報122:冷めない箱と銀貨五枚
辺境に来てから第百二十一日目の朝。
作業場へ入ると、二つの箱が並べて置かれていた。
右の箱は、内側が石で埋まっている。隅には細い布。
左の箱は、木のままだ。
「張り終わりました」
ラグナが、埃を払いながら立ち上がった。
「合わせは、どっちも同じにしてある」
トランが、蓋を順に開け閉めしてみせる。
「片方だけ良く作っちゃ、比べる意味がねえからな」
「助かる。……そこまで揃えてくれたか」
エリナが、湯を入れた革袋を二つ抱えて入ってきた。
「同じ量にしてございます」
「入れてくれ」
湯気の立つ革袋が、それぞれの箱に収まった。蓋を閉じると、どちらも音もなく沈んで止まる。
「あとは、待つだけだ」
「どれくらい待ちましょう」
「半刻でいい。……差が出るなら、それくらいで出る。出なかったら、その時にまた考えよう」
半刻して戻ると、作業場の人が増えていた。
ガルフが腕を組み、ミオが箱の上に座りかけてラグナに下ろされている。リリィまで、槍を立てたまま覗きに来ていた。
「開けるぞ」
まず、木のままの箱の蓋を上げた。
手を入れる。革袋は、入れた時よりはっきりとぬるい。
「……ぬるいな」
「そんなものかと」
エリナが、そのまま書き取った。
「次だ」
右の蓋が上がった瞬間、湯気がふわりと立った。
「あ」
ミオが、声を上げた。
手を入れる。熱い。朝に入れた時と、ほとんど変わらない。
「……まだ熱いです」
エリナの声が、少し高くなった。
「熱いな」
トランが、俺の後ろから腕を伸ばして革袋に触れ、それから自分の掌をしばらく見ていた。
「……大将。こいつ、いけるんじゃねえか」
「いけるかもしれない。……ただ、大きなことを言うのは、まだ早い」
俺は、蓋を戻した。
「夕方まで置いてみよう。……半刻でこれだけ違うなら、日が落ちる頃には、もっとはっきりする」
昼前は、旅の荷の最後の確かめに使った。
ガルフが縄を締め直し、ミオが自分の分の干し肉を数えている。荷馬車は使わない。三日の道を、身軽に歩いて詰める算段だ。
「シンイチ様」
セシリアが、書きつけを抱えて隣に立った。
「一つだけ、伺っておきたいことがございます」
「どうぞ」
「夕方の結果が、思わしくなかった場合。……明日は、どうなさいますか」
「発つ」
「悪い結果でも、でございますか」
「持っていく。……『これだけしか保たなかった』も、立派な話だ」
彼女が、意外そうな顔をした。
「向こうへ何を言うおつもりです」
「うまくいっていたら、『買わせてください』と言う。……駄目だったら、『一緒に調べさせてください』と言う。どっちにしても、話は始まる」
俺は、そこで顔を上げた。
「始まらないのは、何も持っていかなかった時だけだ」
セシリアは、しばらく黙ってから、書きつけに何か書き足した。
「……何を書いた」
「『領主は、悪い報せも荷に積む』と」
「やめてくれ。……そう書かれると、次から悪い報せが増える気がする」
彼女が、めずらしく声を出して笑った。
昼のうちに、もう一つ済ませておくことがあった。
帳場へ回って、ヨナスの向かいに腰を下ろす。
「ヨナス殿。石の値を、今日のうちに決めておきたい」
「値、でございますか」
「向こうで『買います』と言うなら、いくらでとまで言わないと、ただの世間話になる」
「……難しゅうございます。売り買いされたことのない物には、相場がありませんので」
「相場がないなら、手間から積みましょう。……荷車一台の石を、坑口から掘り出して、うちまで運ぶ。何人で、何日かかりますか」
ヨナスは、少し考えてから、指を折り始めた。
「捨て石ですから、掘る手間は要りません。積むだけでしたら、四人で三日ほどかと」
「道は」
「荷馬車で三日でございます。行きは空、帰りが積み荷ですから、実質は六日」
「人の日当と、馬の飼葉と、荷車の傷み。……足すと、いくらになりますか」
彼は、算盤板の玉を三度ほど動かした。
「……荷車一台で、銀貨三枚といったところでしょう」
「では、五枚で買う」
ヨナスの手が、止まった。
「……二枚も、上乗せなさるので」
「二枚が、あの人の取り分です。……手間の分しか払わないなら、あの人は働いても何も残らない。何も残らない仕事は、続かない」
「ですが、三枚でも受けるかと存じます。あちらは、今」
「受けるでしょうね。……だから、五枚にする」
俺は、そこで炭を置いた。
「困っている相手から安く買った話は、必ずどこかで語り継がれます。……そういう相手とは、二度目の取引ができない。うちは、十年買い続けたいんです」
ヨナスは、しばらく何も言わなかった。
「……番頭なら、三枚で買って、余った二枚を自分の手柄にしたでしょう」
「その番頭は、来年も同じ山から石を買えましたか」
「……いえ。買えた例が、思い当たりません」
「量も決めておきましょう。乾燥小屋一棟に、石は荷車で何台分でしたか」
「三台と伺っております」
「蔵と、箱と、里へ渡す一棟。……初めの一年で、二十台は要る」
「二十台で、銀貨百枚でございます」
「うちは、払えますか」
「……今の酒の商いなら、払えない額ではございません」
「なら、それで行きます」
(……銀貨十枚が、セシリアの裁量の上限だったな。)
(つまり荷車二台分だ。……あの数字の置き方は、そう外していなかったらしい。)
日が傾いてから、作業場へ戻った。
トランが灯を掲げ、皆が箱の周りに集まっている。
「では、左から」
木の箱の革袋は、外の空気と変わらなかった。
「冷え切っております」
「そうだな。……次だ」
右の蓋を開けた瞬間、また湯気が上がった。
手を当てる。まだ、熱い。朝ほどではないが、ぬるいと言うにはほど遠い。
誰も、しばらく声を出さなかった。
「……朝から、日が落ちるまでだぞ」
ガルフが、掌を蓋の上に置いたまま言った。
「こりゃ、明日の朝でもまだ温いんじゃねえか」
「かもしれない」
「十日でも冷めねえ、なんてこともあり得ますぜ」
「あり得る。……だが、言うのはやめておこう」
俺は、そこで皆を見回した。
「今日はっきりしたのは、この箱が熱の出入りを遅くする、ということだけだ。……だが、それだけあれば十分だ」
ラグナが、灯の外から静かに言った。
「里の炉と、同じです」
「そうだな。……熱が出ていかないなら、入ってもこない」
「エリナ。明日の朝、もう一度だけ開けてくれ。……俺が発つ前に、その一度だけ見たい」
「かしこまりました」
「それと、一つ言っておく。……これは湯の話であって、氷の話じゃない」
「湯と氷は、違いますか」
「湯は冷める。氷は溶ける。……似ているが、同じじゃない」
俺は、蓋の縁を指で撫でた。
「向こうで『一日保ちました』と言った次に、『氷ではどうなのか』と聞かれる。そこで答えられなかったら、その場で終わりだ。……氷が届いたら、今日と同じやり方でもう一度やる」
「承知いたしました」
作業場を出ると、外はもう暗かった。
門のそばに、ヴァレリウスが立っていた。
「見送りは、明日でいいんだが」
「明日は、人が多いかと思いますので」
彼は、そう言って一度だけ頭を下げた。
「一つだけ、お伝えしておきたいことがございます」
「どうぞ」
「旦那様は、算勘に暗いお方でございました」
俺は、少し意外に思って彼を見た。
(……主を悪く言わない人だ。その人が、自分から言いに来た。)
「数字が読めない、ということか」
「読めぬというより、お決めになれないのです。……三人が三通りのことを申し上げますと、三日お考えになって、結局どれもお選びになりません」
「決められない人か」
「はい。……ですから」
彼は、そこで言葉を探すように黙った。
「……お決めになれない方は、決めてくれる者を、たいそう信じます」
「……それで、あの人はオズワルドを信じたのか」
「恐らくは」
俺は、しばらく門柱を見ていた。
「向こうへ行けば、今度は俺がその席に座ることになるな。……決めてやる側の席だ」
「……はい」
「前に座った人間が、伯爵をここまで連れてきた」
「ヴァレリウス。……これは、俺への忠告か」
「差し出口でございました」
「いや。……助かった」
俺は、荷のほうへ目をやってから、もう一度彼を見た。
「気をつける。……決めるのは、あの人だ。俺は、選べる形にして並べるだけにする」
ヴァレリウスは、深く腰を折った。
「……ご無事で」
夜。
執務室で、明日持っていく紙を作った。
最初は三枚書いた。読み返して、二枚に削った。もう一度読み返して、一枚にした。
――一、北の山に、鉄と銅の他に出る石がある。売れずに坑口へ捨てられている。
――二、その石は、熱を運ばない。囲えば、中の温度が変わりにくい。
――三、木の箱に張って試した。朝の湯が、日が落ちてもまだ熱かった。石のない箱は、半刻でぬるくなった。
――四、氷では試していない。まだ分からない。
――五、荷車一台につき銀貨五枚で買う。初めの一年で二十台。
四番のところで、少し手が止まった。
(……書かなければ、話は良く聞こえる。)
(だが、書かない紙は、後で必ず高くつく。)
筆を置いたところで、扉が叩かれた。
トランが、丸めた羊皮紙を持って立っていた。
「大将。これも持ってけ」
広げると、箱の絵だった。
外から見た形と、内側を割って描いた図。石の並びと、隅の布の入り方まで描き込んである。
「……上手いな」
「字は苦手だが、物の形なら描ける」
「助かる。……俺は、書く言葉ばかり考えていた。向こうにいるのは屋敷の人たちだ。読ませるより、見せたほうが早いのにな」
「へっ。……ちゃんと持って帰ってこいよ」
「紙をか」
「あんたをだ」
俺は、少し笑って、その絵を紙の下に重ねた。
日報の最後に、こう書いた。
――第百二十一日目。内張り完了。二箱で比べた。石を張った箱は、朝の湯が日暮れてもまだ熱い。木のみの箱は、半刻でぬるくなり、日暮れには冷え切った。
――氷では未検証。紙にもそう書いた。氷が届いたら同じやり方でやり直すこと。
――石の値、荷車一台につき銀貨五枚。手間が三枚、残る二枚は先方の取り分。初年で二十台、銀貨百枚。
――伯爵は決められない人。決めてくれる者を信じる。ヴァレリウスの弁。こちらが決めてやらないこと。
炭を置いて、荷の脇に紙を挟んだ。
(……持っていく物が、これで三つになった。)
(石の板が一枚。紙が一枚。それと、トランの絵が一枚。)
(何も持たずに頭を下げに行くはずだった話が、ここまで来た。)
(……明日の朝、発つ。)




