日報121:四隅の隙間と留守の決めごと
辺境に来てから第百二十日目の朝。
作業場には、もう人が集まっていた。
ラグナが割った石が、板になって壁際に並んでいる。薄いもので指の幅、厚いもので掌の厚さ。どれも割れ口が平らで、朝の光を鈍く返していた。
「ざっと数えて、四十枚ってとこでさ」
ガルフが、指で叩いて数を確かめている。
「昼までに、あと十枚は割れます」
ラグナは、そう言って炭火の鉢に息を吹きかけた。
トランは、もう一つの箱の内側に、板を一枚あてがっていた。
「大将。……こいつは、面倒だぞ」
「どうした」
「石は平らだが、箱の内側には角がある」
彼は、板を隅へ寄せてみせた。
二枚の板が直角に突き当たるところに、細い三角の隙間が残る。指は入らないが、光は通った。
(……昨日、温度が逃げるのは隙間からだと分かったばかりだ。)
(それを、四つの隅と、上下で八つ。……それに蓋の周りが四つ。)
「削って合わせるのは」
「石は削れねえ。木のほうを削っても、突き当たりは必ず残る」
俺は、しばらく隙間を見ていた。
(……石は切れない。だから、石だけで箱は塞げない。)
(塞ぐには、形を変えられる物が要る。)
「ラグナ。里の炉は、隅をどうしている」
彼女が、顔を上げた。
「……布です」
「布」
「炉の隅は、必ず布を噛ませます。石だけでは、必ず火が抜けますので」
ガルフが、ぽかんとした顔をした。
「なんだ、それを先に言えよ」
「……訊かれませんでしたので」
俺は、思わず笑ってしまった。
(……そうだ。訊かれなかったから言わなかった、で通ってしまう。)
(それは、この子の落ち度じゃない。訊かなかったこっちの落ち度だ。)
「ラグナ。今日から、こういうことは訊かれる前に言ってくれ。……里では当たり前でも、うちには誰も知らない話が、まだいくらでもあるはずだ」
彼女は、少し驚いた顔をしてから、こくりと頷いた。
「布は、どれくらい要る」
「隅だけなら、外套一枚から、たくさん取れます」
「一枚まるごと張るより、ずっと安いということだな」
俺は、その場で書き留めた。
――石は面。布は隅。使い分ける。
(……全部を高い物で作らなくていい。一番効くところにだけ、高い物を置けばいい。)
(前の会社でも、同じことをやっていた。全部を良い部品にすると、値段だけが上がって誰も買わない。)
「じゃあ、外套を一枚ばらしますかい」
ガルフが、あっさりと言った。
「いや。外套は駄目だ」
「え」
「灰の里へ石と氷を取りに行く連中が、あれを着ることになる。……山で人が死なないための道具だ。試しの箱の隅を埋めるために潰す物じゃない」
ガルフは、頭を掻いた。
「そりゃまあ、そうですが。……じゃあ、布はどこから持ってきます」
俺は、工房のほうを見た。
「……心当たりが、一つある」
工房では、フィリアが炉の前で、細い金具を火にあてていた。
「……なに」
「外套を織った時の余りは、残っているか」
「……ある」
彼女は、棚の下から木箱を引き出した。
中には、裁ち落としと、織り損じた布が、きちんと畳んで入っていた。
「……全部、取ってある」
「助かる。けど、なぜ取ってあった」
「……糸を引くのに、日が要る。捨てたら、また日が要る」
(……この子は、物の値打ちを手間で数えている。)
(正しい考え方だ。)
「これを、箱の隅に使いたい。……もらえるか」
「……使って」
彼女は、それから一言だけ足した。
「……足りなくなったら、言って。織る。……でも、遅い」
「どれくらいだ」
「……一枚に、ひと月」
(……ひと月か。)
(一つ二つ作るだけなら、この木箱の余りで足りる。……だが、数を作るとなったら、簡単ではない。)
俺は、その一行も書き留めた。
――布は、工房が詰まりどころ。数を作るなら、糸の作り方から考え直すこと。
木箱を抱えて作業場へ戻ると、トランが待ちかまえていた。
「布が来たか」
「これを噛ませてくれ。……隅の詰め方は、任せていいか」
「おうよ。……布を挟んで押し込むだけなら、簡単な仕事だ」
石を張り始めたのを見届けて、俺は館へ戻った。
執務室で、セシリアが待っていた。
机の上に、白紙の羊皮紙が一枚だけ置いてある。
「留守中の取り決めを、いただきたく」
「そのつもりで来た」
俺は、腰を下ろして炭を取った。
「三つに分ける。……君が決めていいこと。決めなくていいこと。決めてはいけないこと」
「三つ、でございますか」
「一つ目。決めていいこと。……金は銀貨十枚まで。人の配置は、村の中で動かす分なら好きにしていい。壊れた物の直しも、君の判断でいい」
「十枚を超えましたら」
「超える話は、たいてい急がない。……積んでおいてくれ」
「二つ目。決めなくていいこと。……俺が戻ってから決めればいい話だ。急かされても、決めなくていい。『領主が不在です』と言って構わない」
「それでは、頼りない村だと思われませんか」
「思われる。……だが、その場しのぎで決めた話を後で引っくり返すほうが、よほど信用を失う」
セシリアは、その一行を丁寧に書き取った。
「三つ目。決めてはいけないこと。……三つある」
俺は、指を立てた。
「一つ。村の外へ人を出すこと。……たとえ俺を助けに来る話でもだ」
「……なぜでございますか」
「俺が困っているという報せが来たとしても、それが本当かどうか、君には確かめようがない。……人を釣り出すのに、一番使いやすい手だ」
彼女の指が、少し止まった。
「二つ。契約に判を押すこと。……どんな有利な話でも、俺が戻るまで待たせてくれ」
「三つ目は」
俺は、少しだけ間を置いた。
「……俺が戻らなかった場合の話だ」
部屋が、静かになった。
「シンイチ様。そのようなことは」
「起きないと思っている。……ただ、起きた時に一番困るのは、決まりがないことだ」
俺は、炭を置いた。
「その時、君は何も決めなくていい。……というより、決めるな」
「決めるな、でございますか」
「王都のルナリア殿に文を出して、指示を待て。……村の者は、誰も外へ出さないこと。畑と乾燥小屋だけは回し続けること。それだけでいい」
セシリアは、しばらく紙を見ていた。
「……ずいぶん、あっさりとお書きになるのですね」
「あっさり書けるうちに書いておくものだ。……こういうものは、要る時には書けない」
彼女は、それ以上何も言わずに、三つ目の欄を埋めた。
「もう一つある。……俺の名前で書いていいのは、日付と、受け取りの記録までだ」
「約束は、書くなと」
「そうだ。『受け取りました』は書いていい。『いたします』は書くな。……その二つは、後で全然違う重さになる」
昼を過ぎてから、訓練場へ回った。
リリィが、槍の柄を布で拭いているところだった。俺の顔を見るなり、勢いよく立ち上がる。
「シンイチ様! 私も――」
「リリィ。頼みたい仕事がある」
彼女は、開きかけた口を、そのまま止めた。
「……お留守番の、ですか」
「見張り台の順番表を、作り直してほしい」
「順番表、ですか」
「今使っているのは、俺が作ったものだ。……三月も回せば、直したいところがいくつも出ているはずだ。夜の刻の割り方とか、雨の日の交代とか」
彼女は、拭きかけの布を握ったまま、少し考えた。
「……あります。冬と同じ刻で回しているので、夏はもう明るいのに、まだ二人立っています」
「ほらな。……俺には見えていない」
「作り直して、よろしいのですか」
「作り直してくれ。……俺が戻ったら、一番に見せてほしい」
リリィは、しばらく口をもごもごさせてから、槍を立てて背筋を伸ばした。
「お任せください!」
(……不満を消そうとしなくていい。)
(やることを渡せば、たいていの不満は、そっちに使われる。)
訓練場を出たところで、ミオが木の上から降ってきた。
「ねえシンイチ。あたし、耳と尻尾はしまえないよ」
「しまわなくていい」
「向こう、貴族の屋敷にいた人たちなんでしょ」
彼女は、めずらしく歯切れが悪かった。
「そうだ」
「……嫌な顔される、かも」
「されるかもしれない」
俺は、正直に答えた。
「されるかもしれないが、隠して行くほうが後で高くつく。……後から分かった時に、あの人たちが思うのは『騙された』だけだ」
「ふうん」
「それに、君がいないと道が分からない。……堂々と歩いてくれ」
ミオは、耳を一度だけ伏せて、それから元に戻した。
「……分かった」
夕方、作業場へ戻ると、箱の内側は半分ほど石で埋まっていた。
隅には、細く切った布が噛ませてある。指で押すと、みっちりと詰まっていた。
「明日の朝には、張り終わります」
ラグナが、手を止めずに言った。
「上出来だ。……無理はしないでくれ」
ガルフは、その脇で旅の荷を広げていた。
三日分の食料と水、火口、それに藁で厳重に巻かれた包みが一つ。
「例の板ですかい」
「そうだ。……割れて着いたら、話にならない」
「藁の上から板で挟んでおきましょう。……鉱石を運ぶ時の縛り方でさ」
俺は、その手つきをしばらく見ていた。
(……この人は、鉱山で三十年食ってきた人だ。)
(俺が口を出すところじゃないな。)
日が落ちてから、執務室に戻った。
残った仕事は、一つだけだった。
(……向こうで、最初に何と言うか。)
俺は、白紙を一枚引き寄せて、しばらく炭を持ったまま止まっていた。
(……名乗って、用件を言って、それから頼む。……いや、違うな。)
(用件を先に言ったら、追い返す理由を向こうに渡すことになる。)
書いては消し、書いては消して、最後に残ったのは一行だけだった。
――「マルタさんでいらっしゃいますか。……水を一杯、いただけませんか」
(……交渉の第一声が、水をくれ、か。)
(前の会社の誰が聞いても、笑うだろうな。)
俺は、その一行に丸をつけた。
(だが、座らせてもらえたら、そこから先は俺の仕事だ。)
日報の最後に、こう書いた。
――第百二十日目。氷炎石の板、四十枚超。箱の内張り、半分完了。
――四隅の突き当たりに隙間が残る。灰の里の作法にならい、布を噛ませて解決。石は面、布は隅。
――布は工房に残っていた裁ち落としを使用。外套は潰さない。灰の里行きに要るため。
――布は工房が詰まりどころ。織り上げに一枚ひと月。数を作るなら糸の作り方から要検討。
――ラグナが知っていることを、こちらが訊いていなかった。訊かれる前に言ってくれと頼む。同じ穴が他にもあるはず。
――留守中の取り決め、三分割で作成。決めていいこと/決めなくていいこと/決めてはいけないこと。書面はセシリアが保管。
――見張り台の順番表の作り直しをリリィへ。夏の刻が冬のままだった。
炭を置いて、灯を吹き消す前に、もう一行だけ足した。
――明後日の朝、発つ。
(……あと二日。)
(数字が出たら、持っていく物が、石と紙になる。)
(値打ちなしと言われた石を、値打ちがあると言いに行く。……その根拠が、湯を入れた革袋一つ。心もとないことこの上ない。)
(……それでも、何も持たずに行くよりは、ずっとましだ。)




