日報120:帰らない荷馬車と一枚の板
辺境に来てから第百十九日目の朝。
見張り台の鐘が二度鳴った。敵ではない、という合図だ。
門の前に立っていたのは、クロウだった。埃だらけの外套のまま、片手を上げる。
「シンイチ殿。兄貴の言伝を持ってきた」
「わざわざすまない。……先に、水と飯だ。話はそれからでいい」
「いや、先に言わせてくれ。……妙なんだ」
俺は、彼を執務室へ通した。ミオが、あくびをしながら入ってくる。
「よう、姉御」
「あたし、姉御じゃないんだけど」
クロウは、机の上に指で古道の線を引いた。
「五日、数えた。通った荷馬車は、二台だ」
「二台」
「前は、日に一台は通っていた。……それが、五日で二台だ」
俺は、炭を持ち直した。
「向きは」
「そこが妙でな。……二台とも、廃村から出ていく向きだった」
「戻ってきたのは」
「一台もない」
部屋が、静かになった。
(……荷を出しているんじゃないな。)
(荷馬車ごと出ていっている。……戻す気がないんだ。)
「クロウ。荷は、積んでいたか」
「幌がかかっていて、中は見えなかった。……ただ、轍は深かったそうだ」
「積んでいたのか」
「兄貴はそう言っていた。空の荷馬車は、あんな轍を残さない」
(……積んで、出て、戻らない。)
(畳んでいる。)
俺は、しばらく地図を見ていた。
「クロウ殿。もう一つ頼めるか。……数えるのを、あと数日だけ続けてほしい」
「構わないが。……止めなくていいのか」
「止めなくていい。……止めると、次はこっちが探す番になる」
クロウは頷いて、それでようやく水の椀を受け取った。
彼を休ませてから、俺はセシリアとエリナ、ヴァレリウス、ガルフ、ミオを執務室に呼んだ。日が高くなる前だった。
俺は、クロウの話をそのまま伝えた。
「畳む支度だと思う。……早ければ、十日で誰もいなくなる」
「では、押さえに参りますか」
ヴァレリウスが、静かに言った。
「押さえてどうする。……十三人を捕まえても、絵を描いた人には届かない」
俺は、指を三本立てた。
「今、うちが欲しい物は三つだ。一つ、あの山の捨て石が氷炎石かどうか。二つ、マルクス伯爵が今どこにいるか。三つ、旧権利者の署名」
「一つ目は、ガルフが見れば分かる」
「へえ。……割れ口を見りゃ、一目でさ」
「二つ目は、あの十三人しか知らない」
ヴァレリウスが、目を伏せた。
「……恐らくは。屋敷の者が、主の居所を知らぬということは、ございません」
「三つ目は、本人の署名だ。代理では通らないと、前に確かめた」
俺は、炭を置いた。
「三つとも、あの場所に繋がっている。……行かないという選択が、もう無い」
「シンイチ様。……お一人で、とは仰いませんね」
セシリアが、先に釘を刺してきた。
「言わない。……だがガルフとミオを連れていく」
「私は」
「セシリアは村だ」
「なぜでございますか」
「俺が留守の間、判断を代わりにできる人が要る。……それができるのは君だけだ」
彼女は、口を開きかけて、閉じた。
「ヴァレリウスも村に残ってくれ。前に言った通りだ」
「……承知しております」
「顔を知られている、という話だけじゃない。……君が向こうに立った瞬間、あの十三人は『裏切り者が来た』と受け取る」
彼は、深く腰を折った。
「リリィも残す。守りの要を二つとも抜くわけにはいかない」
「あたしは連れてくんだ」
ミオが、少しだけ嬉しそうに言った。
「連れていく。……ただし、今度は隠れる仕事じゃない。堂々と歩いてもらう」
「なにそれ」
「表から行くからだ」
部屋の空気が、少し動いた。
「表、でございますか」
「そうだ。……夜に忍び込んで、石を見て帰るなら、たぶん明日にでもできる」
俺は、地図の廃村に指を置いた。
「だが、それをやったら、あの人たちにとって俺たちは『夜に来た誰か』になる。……その後で署名を頼める相手じゃなくなる」
「では、何と名乗って行かれるのです」
エリナが、炭を構えた。
「王家の土地を借りたい者だ」
俺は、少し笑った。
「嘘は一つもない。……借りたいのは本当だし、そのために旧権利者を探しているのも本当だ」
「相手が、偽物を作っていることは」
「こちらから言わない。……向こうが言うまで、こっちは知らない顔をする」
「なぜでございますか」
「言った瞬間、話が罪の話になる。……罪の話になったら、誰も居所なんて教えてくれない」
(……これは取り調べじゃない。挨拶だ。)
「それと、手土産を持っていく」
「森の雫を、でございますか」
「いや。あれは駄目だ」
俺は、首を振った。
「うちの酒を持っていったら、あの人たちの目の前に、自分たちが真似ている物を置くことになる。……それは、恥をかかせに行くのと同じだ」
部屋が、しんとした。
「持っていくのは、これだ」
俺は、朝のうちに作業場から持ってきた物を、机に置いた。
ラグナが割った氷炎石の板が一枚。断面が、朝の光を鈍く弾いた。
「……石を、でございますか」
「そうだ。……これが、あなた方の山に積んである石です、と言って置いてくる」
ガルフが、面白そうに髭を撫でた。
「値打ちなしと札を貼られた石を、値打ちがあると言いに行くわけですな」
「言うだけじゃ足りない。……いくらで買うかまで言えないと、ただの世間話だ」
「なるほどねぇ。……ときに慎一様、一つよろしいですかい」
「なんだろうか」
「見て、氷炎石だと分かったとしましょう。……その場で、持って帰るんで」
「持って帰らない。……欠片一つでもだ」
「なんでです。地面に転がってる石ですぜ」
「地面に転がっていても、あそこは王家の土地で、掘る権利は伯爵家にある。……こっちが一つ持ち帰った時点で、話が盗んだ盗まないになる」
「へえ。……面倒なもんですな」
「面倒だが、こっちが面倒を守っていると、向こうも面倒を守るようになる」
俺は、少し笑った。
「それに、持ち帰らないほうが得だ。……あの石は、あの場所にあるから値がつく」
「もう一つ、聞かせてほしい。……着いて、最初に誰へ声をかければいい」
ヴァレリウスが、顔を上げた。
「……マルタでございましょう」
「台所の人か」
「はい。二十年、屋敷の台所を預かっておりました。……訪ねてきた者に最初に応対するのは、いつもあの者でございました」
「門番ではなく」
「あの者たちに、門番はおりません。……ですが、誰かが来れば、必ず台所から人が出てまいります」
(……人が出てくる場所は、決まっているのか。)
「ヴァレリウス。マルタ殿は、水を一杯渡して帰らせる人か」
「……と、仰いますと」
「それとも、腰を下ろして待て、と言う人か」
彼は、少し考えてから、口の端をわずかに動かした。
「座らせます。……立たせたまま帰す客を、あの者は嫌いますので」
「なら、座らせてもらう」
俺は、それを書き留めた。
「座れたら、そこからは仕事の話だ」
話が一通り決まったところで、皆を持ち場に戻した。
残ったのはセシリアとエリナで、二人とも旅の日取りを書きかけの紙に写している。
昼を挟んでから、俺は二人を連れて作業場へ回った。
中へ入ると、トランの木箱が二つ、並んで置かれていた。蓋の合わせは、指を這わせても段が分からないほどだった。
「早いな」
「合わせに一日使った。……箱そのものは、半日だ」
トランは、蓋を閉めて、上から掌で押した。すっ、と沈んで、音もなく止まった。
「ここまでやると、開かねえんじゃねえかと思ったが」
彼は、蓋の縁に浅い切り込みを見せた。
「指がかかるように、ここだけ削った。……閉まる所と、開ける所は、別に考えねえとな」
(……いい仕事だ。)
「ラグナ。石は」
「明日の昼には、揃います」
俺は、その場で指を折った。
(……明日の昼に石が揃う。張るのに一日。……試験に、まる一日。)
「エリナ。数字が出るのは、いつになる」
「石を張り終えるのが明日の夕、湯を入れて計るのが明後日でございますから……明後日の夜かと」
「なら、発つのは三日後の朝だ」
「二日も待たれるのですか」
セシリアが、意外そうに言った。
「待つ。……数字を持たずに行ったら、俺が言えるのは『あの石には使い道があるかもしれません』までだ」
「それでは、世間話でございますね」
「そうだ。……何日冷えたかを一つ言えるだけで、話がまるで違う」
(……向こうは、二年も三年も待ってはくれない。だが、二日なら待てる。)
(十日で畳むなら、三日で着く。……間に合う。)
作業場を出ると、日が傾いていた。
執務室へ戻って、留守中の段取りを紙に落としていく。
――村の判断はセシリア。守りはヴァレリウスとリリィ。
――ラルフが戻るのは第百二十四日目ごろ。俺は村にいない。溜まっている七枚は、エリナが確認して、そのまま出すこと。
――ルナリア殿からの返事が先に着いた場合は、開けて構わない。中身によっては、こっちへ人を走らせてほしい。
「開けてよろしいのですか」
エリナが、驚いた顔をした。
「開けなければ、届いていないのと同じだ。……封を開けた者の名前だけ、書いておいてくれ」
それから、灰の里への書状を確かめた。
ラグナの字で、氷の谷のこと、乾燥小屋のこと、こちらから送る職人の数まで書いてある。
「これは、俺が戻ってからでいい」
「……急がないのですか」
「急ぐが、順番がある。……氷を頼むのは、氷を入れる箱ができてからだ」
エリナが下がると、部屋が静かになった。窓の外は、もう暗い。
俺は灯を近くへ寄せて、日報の最後にこう書いた。
――第百十九日目。古道、五日で荷馬車二台。いずれも出ていく向き。戻りなし。轍は深い。銀狼族の報。
――北の廃村、引き払いの支度と判断。猶予は十日と見る。
――第百二十二日目の朝、北へ発つ。同行はガルフ、ミオ。名乗りは「王家の土地を借りたい者」。
――偽造の件は、こちらから持ち出さない。
――手土産は氷炎石の板一枚。値をつけて持っていくこと。
最後の一行を書く時、少し手が止まった。
(……値をつける、か。)
(あの人が値打ちなしと言われた山に、うちが値をつけに行く。)
炭を置いて、北の窓を見た。
(……潰しに行くんじゃない。)
(買いに行くんだ。……ただし、こっちが欲しいのは石じゃない。)
(あの人が、もう一度まともに働ける場所だ。)




