日報119:十匹の魚と二枚重ねの外套
辺境に来てから第百十八日目の朝。
帳場へ回ると、ヨナスはもう机に向かっていた。
「ヨナス殿。朝から、すみません。……港のことで、教えてほしいことがあります」
「港、ですか」
彼は、少し驚いた顔をした。
「王都までは、荷馬車で十日。あれは俺が通ってきた道だから分かる。……港から王都までは、どれくらいですか」
「四日です。道が良いので、荷を積んでも五日はかかりません」
「港には、何が上がる」
「魚と、貝と、海藻です。あとは、船が運んでくる南の荷ですね」
「魚は、どこまで運べる」
「……港の町から、半日でしょう」
「半日」
「はい。夏場は、もっと短いです。……あとは、塩に漬けるか、干すか」
(……刈り入れと同じだ。)
(一度に上がって、置いておけない。だから、日保ちする方法を選ぶしかない。)
「王都では、生の魚は出回らないのですか」
「祭りの折に、氷を敷いて運ばせる貴族はおられます」
「上手くいくものですか」
「……十匹出して、二匹残ればよいほうと聞きました」
「値は」
「一匹で、下働きの者のひと月の手当ほどかと」
俺は、その数字を書き留めた。
(……八匹分の損を、二匹に乗せている値段だ。)
「ヨナス殿。……仮に、十匹のうち九匹が残るようになったら、値はどうなりますか」
「……下がるでしょうね」
「そうです。下がる」
「商いとしては、面白くない話ですが」
「いや。……下がって、はじめて市場になる」
ヨナスが、顔を上げた。
「一匹が月の手当なら、買うのは貴族だけです。……その値では、年に何度も荷が動かない」
「値が十分の一になれば、酒場が買う。町の家が買う。……そうなってはじめて、毎日荷が動く」
「……慎一様は、安く売りたいのですか」
「安く、たくさん、長く売りたい。……そうすれば、立派な市場になる」
彼は、少しの間、口を結んでいた。
「番頭は、そういう言い方をしませんでした」
「そうでしょうね」
「一度でいくら取れるか、それしか言いませんでした」
「もう一つ。レオン殿の船は、何を積んでいますか」
「香辛料と、銘木と、南の酒です」
「腐らない物ばかりですね」
「船倉は、時化れば水が入りますので。……腐る物は、はなから積みません」
(……船を持っていて、港も押さえていて、それでも積めるのは腐らない物だけか。)
「では、仮の話をします。……十日のあいだ中が冷えたままの荷台があったとして、レオン殿は買うと思いますか」
ヨナスは、しばらく黙っていた。
「……買われる前に、まず疑われるかと」
「そうでしょうね」
「あの方は、口ではなく物を見られます。……見せられないうちは、話にもなりません」
「同じ考えです」
俺は、書きかけの紙を裏返した。
「まだ、湯を入れた革袋を試そうとしているだけなんだ。……先に話を大きくすると、後で戻せなくなる」
「最後に一つ。王都で、氷は売っていますか」
「冬に切って、氷室に積んで、夏に売る商いがあります。……たいそう高いものですが」
「どれくらい」
「……祭りの前になると、同じ重さの塩より高くなる年もありました」
俺は、炭を止めた。
(……氷が、塩より高い。これは里にも大きな利益になる)
午前。
作業場へ回ると、ラグナが倉庫から運ばせた氷炎石の塊の前にしゃがんでいた。
傍らに炭火の入った小さな鉢。石の片側だけが、赤く照らされている。
「もう始めているのか」
「……温めるのに、時間がかかりますので」
ガルフとトランが、腕を組んで覗き込んでいた。
しばらくして、ラグナは鉢を退けた。石の片側だけが、じんわりと湿ったように色を変えている。
「……ここが、境目です」
彼女は、細い楔をその線に当てて、木槌の腹で、こつん、と押した。
音は、ほとんどしなかった。
石は、二つになった。
割れ口は、水を張ったように平らだった。
「……おいおい」
ガルフが、割れた面を指で撫でた。
「三十年、この石は簡単に割れねえもんだと思ってたぜ」
「強く叩くだけだと、割れません」
ラグナは、それだけ言った。
「ラグナ。今日は、何枚割れる」
「……八枚か、十枚かと。火を入れる時間が要りますので」
「なら、それでいい。急がなくていい」
「一つ頼みたい。……割り損じたやつは、捨てずに置いておいてほしい」
「割り損じを、ですか」
「そうだ。うまく割れた石は、明日には壁の内側で見えなくなる。……見えるところに残るのは、割り損じたほうだ」
俺は、そこで帳面を開いた。
「それと、書くことを先に決めておく」
「五つだ。石の厚み。火にあてた長さ。楔を入れた場所。割れたか、割れなかったか。割れた面が平らだったか」
「……そんなに、書くのですか」
「書いておかないと、明日のラグナが、今日のラグナに聞けなくなる」
ラグナは、少しだけ目を丸くして、それから頷いた。
「同じやり方で二度やって、二度とも同じにならなかったら、その数字は使わない。……一度うまくいっただけの手は、手とは言えないからな」
昼過ぎ。
トランの木箱は、まだ形になっていない。石が揃うのも、二日先だ。
(……三日待つのか。)
俺は、そこで足を止めた。
(……いや。三日待たなくても、分かることが一つある。)
俺は、倉庫から『陽炎の外套』を二枚出してもらった。
「湯を、同じだけ入れた革袋を三つ用意してくれ」
「三つ、でございますか」
エリナが、帳面を構えた。
「一つは、そのまま置く。一つは、外套で一重に包む。もう一つは、二重に包む」
「石でなくて、よろしいのですか」
「同じ石だ。布に引いてあっても、割ってあっても、熱を運ばないことに変わりはない。……布で効かないなら、石でも効かない」
(……知りたいのは、効くかどうかじゃない。どれだけ厚くすれば、どれだけ延びるかだ。)
「半刻ごとに、三つとも手を入れてくれ。熱い、ぬるい、冷たいの三段でいい。記録を取って欲しい」
夕刻。
帳面を受け取ると、並びは思っていた形と違っていた。
――そのままの袋は、二度目の見回りで冷たくなった。
――一重の袋は、日が傾くまで、ぬるいままだった。
――二重の袋は、一重より少し長かった。少しだけ。
「二重にしたのに、倍にはなりませんでした」
エリナが、申し訳なさそうに言った。
「いや。……これが分かったのが、今日の収穫だ」
(……厚くしても、そのぶん延びない。)
(つまり、熱は布を抜けて逃げているんじゃない。……別のところから逃げている。)
俺は、革袋の口を見た。布を巻いても、そこだけは剥き出しになっている。
「トラン」
「おう」
「箱の蓋の合わせを、念入りに頼む。……石を厚くするより、そっちの方が効果がありそうだ」
「隙間か」
トランは、鼻の頭を掻いた。
「そりゃ、戸と同じだ。合わせの悪い家は、いくら焚いても暖まらねえ」
「そうだ。同じことが、冷たさでも起きている」
「あと、溶けた水を抜く栓も要る。……ただし、抜き道は、そのまま冷たさの逃げ道になる」
「……厄介なことを言いやがる」
彼は、木の端を拾って、指の腹で角を撫でた。
「……任せとけ。合わせは、大工にとっちゃ朝飯前だ」
日が落ちる前に、ラグナを呼んだ。
「氷のことだ。……今、村には氷がない」
「里の裏の谷なら、夏でも溶けません」
「切れるか」
「……切れます。うちは、あそこに肉を置いていますので」
俺は、しばらく考えた。
(……山から氷を運ぶには、冷えたまま運べる箱が要る。だが、箱を試すには氷が要る。)
(……鶏と卵だな。)
「ラグナ。一つ、聞き方を変える」
「……はい」
「その谷の氷を、荷馬車で運び下ろしたことは」
「あります。……冬に、里まで。夏は、半分になって着きます」
「半分は着くのか」
「……はい」
(……半分でも着くなら、試験はできる。)
「なら、こうしよう。試しの荷を、そのまま最初の荷にする」
「……といいますと」
「里に、乾燥小屋を一棟渡す約束がある。……その代わりに、谷の氷を切らせてもらう」
「石を運ぶついでに、氷を積んで下りてくればいい。……行きも帰りも荷がある」
ラグナは、少し考えてから、深く頷いた。
「里は、断らないと思います」
「頼めるか。……君の字で、書いてほしい」
「……私が、書くのですか」
「里の人が読むんだ。俺の字より、君の字のほうがいい」
彼女は、しばらく黙ってから、耳の先を赤くして頷いた。
夜。
執務室に戻って、今日の数字を並べた。
――港から王都まで、四日。
――生の魚、十匹出して二匹。一匹が月の手当。
――氷は、祭りの前なら塩より高い。
俺は、その三行を、しばらく見ていた。
(……箱は、一度売ったら終わりだ。)
(だが、中に入れる氷は、荷を運ぶたびに要る。)
炭が、紙の上で止まった。
(……売るのは、箱じゃないな。)
(冷たさだ。)
(冷たさを売るなら、要る石は三棟分では済まない。蔵の分も、箱の分も、氷を貯める小屋の分もいる。……いくらあっても足りない。)
日報の最後に、こう書いた。
――第百十八日目。港・王都間、荷馬車で四日。生魚は港から半日。王都では十匹中二匹。氷は塩より高値。
――氷炎石、割断に成功。ラグナの手。割り損じは保存。記録は五項目。
――外套での先行試験。厚みより隙間。蓋の合わせを優先。トランへ指示。
――灰の里へ、乾燥小屋一棟と引き換えに谷の氷の切り出しを依頼。書状はラグナ。
――ミオ経由の古道の報告、まだ入らず。ラルフの戻りまで、あと六日。
炭を置いて、窓の外を見た。
(……値打ちがないと言われた山に、その石が、掘った量の半分だけ積んである。)
(伯爵に持っていく話が、やっと一つできた。)
(……あとは、その話が本当だと、俺自身が確かめるだけだ。)




