日報117:七つの名前と雇えない理由
辺境に来てから第百十六日目の朝。
執務室の机に、二枚の紙を並べた。
一枚は、昨夜ミオが書いた人相の覚え書き。もう一枚は、ヴァレリウスが三日前に書いた伯爵家の使用人の名簿だ。
「では、始めるか」
ヴァレリウスは、名簿のほうへ手を伸ばし、そこで一度だけ息を吸った。
「……承知いたしました」
ミオが、覚え書きを上から読み上げていく。
「左手の指が、二本ない男の人。四十より、たぶん上」
「――クラウスでございます」
答えは、間を置かずに返ってきた。
「厩番でありました。若い頃に馬に噛まれて、二本持っていかれております」
「白髪を短く刈った、背の低いおばさん」
「マルタ。台所を仕切っておりました。……二十年、屋敷に勤めております」
「膝の悪い年寄りが一人。歩く時、右足を庇ってた」
「……ヘンドリック。庭を見ておりました。石段から落ちて、それきりでございます」
ミオが読むたびに、ヴァレリウスは名前を返した。
迷いは、ほとんどなかった。
「よく覚えてるね」
ミオが、素直に感心した声を出した。
「……忘れようとしたことは、ございます」
ヴァレリウスは、名簿から目を離さずに答えた。
「ですが、名を忘れますと、その者がいなかったことになりますので」
俺は、書き取る手を止めた。
「一度、切ろう」
「まだ、続けられます」
「君はな。……こっちが、追いつかない」
嘘ではなかった。実際、俺の炭は二人分遅れていた。
ヴァレリウスは何か言いかけて、それから黙って湯をもらいに行った。
(……あの人は、十二年分の名前を、順番に思い出しながら答えている。)
(一人ずつ、顔を出して、消えていくんだろう。)
照合を再開してからは、二度だけ、彼の口が止まった。
「あと、十四か十五くらいの、男の子と女の子」
そこで、彼の声が止まった。
「……名までは、お答えできかねます」
「なぜだろうか」
「下働きの子は、入れ替わりますので」
彼は、名簿の端を指でなぞった。
「ですが、冬に外套を配っていた子らの中に、いたはずでございます」
俺は、彼が三日前に書いた一行を思い出した。
――冬に、下働きの子らへ外套を配るのが恒例であった。
照合を終えると、十三人のうち七人に名前がついた。
残る六人には、何もつかなかった。
「この六人は」
「屋敷にいた者達では、ございません」
ヴァレリウスは、はっきりと答えた。
「顔の覚えがございません。……いずれも新たに加わった者かと」
(……七人は、屋敷が潰れても伯爵についていった人たち。)
(残る六人は、後から入った人だ。……恐らく誰かが連れてきたのだろう。)
「ヴァレリウス。破産の前後で、屋敷に出入りする顔ぶれが変わったと言っていたな」
「はい。古くからの商人が離れ、代わりに見慣れぬ者が幾人か。……名までは存じません」
「その人たちかもしれない」
俺は、六人分の空欄に、そのまま線を引いた。
(……埋まらない欄は、埋まらないまま置いておく。)
「慎一様」
ヴァレリウスが、自分から口を開いた。
「あの者たちは、盗みも騙りもできる人間ではございません。……クラウスは、馬の飼葉を余らせたことすら、詫びに来たほどです」
「そうか……」
紙をしばらく見てから、俺はふと言った。
「できない人たちが、そこにいる。……だったら、そうさせている何かがあるという事だ。」
「もしかしたら……あの人たちは、自分が何を作っているか知らないのかもしれない」
「ただ、シンイチ様。……知らなかったとは言え罪は、罪でございます」
セシリアの声は、責めるものではなかった。確かめる声だった
「罪は罪だ。消えはしない。……だが知らずにやっているのなら、それを知らせる事も出来る」
「では、その後はどうするおつもりで?」
「そうだな、知った上での判断は本人次第だが、例えばうちで働いてもらうとかどうだろう」
「……慎一様は、あの人たちを、雇うおつもりですか」
「この村で、でございますか。……十三人分の席が、ございますか」
エリナが、炭を持つ手を止めた。
「作る」
俺は、指を折った。
「ジークが言っていたが畑作業の人手は一月半には足りない。厩番も欲しい。台所を仕切れる人も欲しい。……いまのこの村では欲しい人材だ」
「既にスキルの有る人が居るなら、そのまま採用する、その方が費用対効果がいいからな」
俺は、少し笑った。
「捕まえて、運んで、裁いて、閉じ込める。全部こっちが払う金だ。……だけど雇えば、働いてもらえる」
「そういう言い方をされると、立派に聞こえませんね」
「立派じゃないからな。……俺は、いつも効率の良いほうを選ぶ。だろ?」
(……それに、あの人たちを裁いても、絵を描いた人には届かない。)
その時、ヴァレリウスが静かに前へ出た。
「慎一様。差し出口をお許しください」
「なんだろうか」
「あの者たちを採用する事は、難しい事かと」
部屋の空気が、止まった。
「条件が足りないか」
「条件の問題では、ございません」
彼は、まっすぐに俺を見た。
「あの者たちが残っておりますのは、行き場がないからではございません。……伯爵が、お捨てにならなかったからです」
「マルタは二十年、あの台所を預かっておりました。あれは『料理番』ではなく、『伯爵家の料理番』でございます。……村の詰め場でよい賃金を、と申し上げても、断りましょう」
俺は、しばらく何も言えなかった。
(……いい条件を出せば人は動く。前の会社でも、そうやって人を採ってきた。)
(だが、条件で動く人は、条件で辞める。……条件で動かない人を、条件で動かそうとしていた。見立てが甘い。)
「ヴァレリウス。……では、あの人たちは、何なら動く」
彼は、長く黙っていた。
「分かりかねます。……ですが、一つだけ。主を悪く言われて動く者は、一人もおりません」
「……覚えておく」
俺は、書きかけの紙に線を引いた。
(雇う、では駄目だ。……あの人たちに、主を替えろと言っていることになる。)
「みんな、ありがとう。」
「あの村については俺の方で考えておく。この会議はここまでにして一度持ち場に戻ってくれ」
そう言うと、皆持ち場に戻って行った。
それから午前の残りは、別の仕事に使った。
工房では、フィリアが台座に欠片を落とし込んでいた。窪みに、音もなく収まる。
「……嵌まった」
「早いな」
「昨日のうちに、削り終わってた」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。
「……あと、二つ」
「そうだな。南と、東だ」
入れ替わりに、セラフィナが紙束を抱えて飛び込んできた。
「シンイチ様! 南行きの計画が詰め終わりました! 最短で片道八日、採取と戻りを入れて二十日、人は六名です!」
「早いな。……助かる」
「日取りが決まっておりませんので、幅を持たせてありますが、いつでも出られます!」
俺は、その紙を二度読んだ。
「一つ、聞きたい。……南の森は、誰の土地だ」
「王家のものかと。……あのあたりは、どこもそうです」
「入るのに、許しは要るか」
「採取だけでしたら、勅許のある事業なら届け出で足ります。……以前、書面を整えましたので」
俺は、そこで炭を止めた。
(……あの廃村も、王家の土地だ。)
「セシリア。一つ教えてほしい」
「王家の土地を、うちが正式に使いたい場合、どういう手順になる」
「勅許事業であれば、願い出ることはできます」
セシリアは、少し考えてから続けた。
「ただし、その土地に旧来の権利を持つ家がある場合は、その家の同意が要ります」
「旧来の権利」
「採掘権や、水利権でございます。……使われていなくとも、権利は残ります」
(……マルクス伯爵家。掘り尽くして、値打ちなしと札を貼られた、あの採掘権。)
(あれは、まだ生きているのか。)
「それと、もう一つ」
セシリアが、静かに付け足した。
「その土地に人が住んでいる場合、願い出はその人たちを退かせる話になります。……お忘れなきよう」
俺は、しばらく紙を見ていた。
(……その願いなら、たぶん通る。王家の土地に、許しもなく十三人が住んでいるんだ。こっちの理屈は真っ直ぐだ。)
(通るが、それをやったら、あの人たちは今度こそ行き場をなくす。……そして、絵を描いた人は先に逃げる。)
俺は、炭を持ち直した。
(……逆はどうだ。)
(あそこを、うちが正式に借りる。人はそのまま置いて、仕事だけをまっとうなものに替える。)
(追い出す場所じゃなく、使う場所にする。……そうすれば、誰も路頭に迷わずに、あの煙だけが止まる。)
「セシリア。旧権利者の同意というのは、書面だけで足りるか」
「本人の署名が要ります。……代理では通りません」
「本人か」
「はい」
彼女は、そこで少しだけ目を細めた。
「……お会いになるおつもりですか」
「まだ分からない」
俺は、正直に答えた。
「ただ、会わずに済む道が、今のところ一つも見えていない」
夕刻。
俺は、ミオとヴァレリウスを呼んだ。
「昨日の申告の件だ。……向こうに気づかれていた場合、何をしてくると思う」
「逃げるか、隠すかでございましょう」
ヴァレリウスが答えた。
「あるいは、荷を急いで出します。手元の品を金に換えてから動くほうが、身軽になりますので」
「なら、道を見ていればいい」
俺は、地図の古道に指を置いた。
「ミオ。ガエル殿に、もう一度頼んでもらえるか。……古道を通る荷馬車の数と、向きだけでいい」
「兄貴なら、やってくれると思う」
「無理はさせないでくれ。数えるだけだ。……止めるな、と伝えてほしい」
「ヴァレリウス。君は村の守りを厚くしてくれ。……ただし、現場には出さない。前に言った通りだ」
「……承知しております」
彼は、深く腰を折ってから、一度だけ顔を上げた。
「慎一様。一つだけ、申し上げても」
「どうぞ」
「あの者たちが動かぬのは、旦那様のためでございます。……ですが、旦那様が動けば、あの者たちも動きます」
俺は、その言葉を書き留めた。
夜。
日報の最後に、こう書いた。
――第百十六日目。人相と名簿を照合。十三名中、伯爵家の元使用人と一致する者、七名。うち二名は下働きの子。残る六名、身元不明。
――当村での雇用を検討。見込み薄。彼らが動く条件は、金ではない。
――ミオ経由で銀狼族へ、古道の再監視を依頼。数と向きのみ。介入は求めず。
――南行きの支度、完了。触媒の台座、組み上がり。残る二つ。
――王家の土地の使用願いには、旧権利者の同意が要る。要確認。
最後の一行を、もう一度読み返した。
(……旧権利者。伯爵の名前だ。)
(潰す相手として見ていた人に、頭を下げに行く話になるかもしれない。)
(……ルナリア殿は、もう王都に戻っておられる頃だ。王家の土地の話は、あの人に聞くのが一番早い。届ける書簡がまた増えたな。)
それから、俺はもう一行だけ書き足した。
――止め方ではなく、始まりを調べること。
炭を置いて、窓の外を見た。北の空には、まだ何も見えない。
(……伯爵が何に怒っているのか、俺はまだ一度も聞いていない。一度詳しく話をしてみる必要がありそうだな。)




