日報113:五つの指示と三行の紙
辺境に来てから第百十二日目の朝。
出発前のミオに、俺は羊皮紙を一枚渡した。
「なにこれ」
「数えてきてほしいものの一覧だ」
彼女は、それを広げて眉を寄せた。
一、建物の数と、そのうち人が使っている建物の数。
二、人の数。できれば、男女と年格好。
三、荷馬車の数と、車輪の幅。
四、煙が出ている時間帯。
五、見張りの有無と、その立ち位置。
「……シンイチって、こういうところが本当に変だよね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないよ」
ミオは呆れた顔をしたが、羊皮紙は丁寧に折って懐へ入れた。
「三と四が、なんで要るの」
「車輪の幅が分かれば、その荷馬車が街道用か山道用か分かる。……煙の時間は、そこで何をしているかの手がかりだ。飯を炊くだけなら朝と晩。それ以外の時間も出ているなら、火を使う仕事をしている」
「……なるほど」
「それと、もう一つ。数えられなかったものは、空欄のままでいい」
「なんで」
「分からないことを埋めると、後で全部が疑わしくなる」
「一番大事なのは」
俺は、彼女の目を見た。
「君が無事に帰ってくることだ。……見つかりそうになったら、その場で全部やめてくれ。数字は、また取りに行ける」
ミオは、少しだけ目を細めて笑った。
「うん。わかった」
彼女が出ていった後、俺は帳場へ回った。ヨナスに聞いておきたいことがあった。
「ヨナス殿。……あの偽物は、どうやって作られていると思いますか」
彼は、炭を置いて少し考えた。
「……あれは、蒸留した酒じゃありません」
「なぜ、そう思う」
「喉が焼けなかったからです」
彼は、自分の喉のあたりを指した。
「村の酒は、一口で喉の奥がかっと熱くなります。……あれには、それがなかった」
(……そうだ。蒸留の技は、この世界ではとっくに失われている。うちの蒸留器だって、廃倉庫で埃をかぶっていたものだ。)
(作れるなら、そもそも偽物なんか作らずに、自分の名前で売っている。)
「では、中身は」
「安い果実酒に、水を足して。……焦がした砂糖で色をつけただけだと思います」
「必要なものは」
「安酒。砂糖。水。……あとは、混ぜて詰める場所です」
俺は、その言葉を書き留めた。
(……酒を造る場所じゃない。酒を薄めて、瓶を洗って、詰め替える場所だ。)
「飲めば、分かりますね」
「飲んだことのある人なら、一口で」
ヨナスは、そこで顔を伏せた。
「……ですが、本物を飲んだことのある人間が、王都にどれだけいるでしょう」
俺は、その一言に胸を突かれた。
(……そうか。あれは、本物を知らない人に売られているのか。)
(十分の一の値段で。……飲んだ人は、それを『森の雫』の味だと覚える。そして二度と、本物を買わない。)
昼過ぎ。
俺は執務室に戻り、羊皮紙に一行だけ書いた。
――喉が焼けるかどうかで、見分けがつく。
しばらく、その一行を眺めていた。
(……これを広めればいい。それだけで、偽物は売れなくなる。)
(だが。)
俺は、炭を置いた。
(……広めた翌日から、向こうは度数を上げてくる。安酒に何か強いものを混ぜてでも、喉を焼く味に近づけてくるだろう。)
(見分け方を公にするというのは、相手に採点表を渡すのと同じだ。)
そこで、俺は考え方を変えた。
(……買う人に配るんじゃない。売る人に配ればいい。)
その前に、確かめておくことがあった。
俺は倉庫から『森の雫』を一本持ってきて、器に注いだ。
喉が焼けるかどうかは、飲まなければ分からない。だが、飲まずに分かる違いがあるなら、そちらのほうが役に立つ。
注いだ酒が、器の縁に細かい泡の輪を作った。
それは、しばらく消えずに残っていた。
「エリナ。悪いが、水と、井戸の水で薄めた果実酒を持ってきてもらえるか」
「……はい?」
「偽物の真似をする」
三つの器が並んだ。
本物。水。薄めた果実酒。順に注いで、縁を見る。
水は、泡が立たない。薄めた果実酒は、泡が立ってもすぐ消えた。
本物だけが、細かい泡を長く残していた。
(……アルコールの強さで、表面の張り方が変わるんだったな。前の世界で、酒屋の親父が同じことを言っていた気がする。)
(飲まなくても、注いだ瞬間に分かる。……これは使える。)
夕方、俺はセシリアとエリナを呼んだ。
執務室には、先にヴァレリウスが控えていた。日課の警備日誌を届けに来て、そのまま順番を待っている。
「待たせてすまない。先に、君の報告を聞こうか」
「いえ。今日は変わりありません。……こちらのお話のほうが、村の一大事でありますので」
彼は、そう言って壁際へ下がった。
「王都の酒場の主人と、白帆商会の店員向けに、一枚の紙を作りたい」
「触れ書き、でしょうか」
「そうだ。ただし、貼り出す物じゃない。……手渡しで、店の裏に置いてもらう物だ」
俺は、三行を書いた。
一、封蝋に帆の印があるか。
二、注いだ時、縁に細かい泡が残るか。
三、一口で、喉の奥が熱くなるか。
「なぜ、店の人にだけ」
エリナが問う。
「偽物を掴まされて損をするのは、実は店の主人だからだ」
俺は答えた。
「客が『あの店の酒はまずい』と言えば、次から誰も来ない。……つまり、あの人たちは、こちらが頼まなくても味方になる理由を持っている」
セシリアが、ゆっくりと頷いた。
「敵を減らすのではなく、味方を増やす、と」
「そういう言い方をされると立派に聞こえるが、要は手が足りないだけだ。……うちには、王都を見回る人手がない」
「それと、もう一つ頼みたい」
俺は、エリナに向き直った。
「夜会の時の記録を出してもらえるか。……あの日、会場にいた人の名簿だ」
「ございます。ですが、なぜ今」
「金を出している人間を、絞りたい」
俺は、指を三本立てた。
「条件は三つ。うちに恨みがあること。金に困っていること。そして――貴族であること」
「貴族、ですか」
「あの廃村は、王家の土地だ。誰の許しもなく人を十人以上住まわせて、荷馬車を出し入れするのは、平民には無理だ」
エリナが持ってきた名簿は、思ったより厚かった。
夜会に出ていた者、その従者、招かれながら来なかった者まで、几帳面に分けて書かれている。
「……よく、ここまで」
「あの夜は、慎一様が『後で必ず使う』とおっしゃいましたので」
俺は、自分の言葉を思い出せなかった。だが、彼女は覚えていた。
二人がかりで、名前を潰していく。
うちに好意的な者を外す。事業が順調な者を外す。領地が南にある者を外す。
三十余りあった名前が、七つになった。
そこから、金に困っている噂のある者を選ぶと、三つ。
(……ここから先は、憶測になる。名前を挙げてしまえば、その人に合う証拠だけを探し始める。)
俺は、炭を置こうとした。
その時だった。
壁際で黙って聞いていたヴァレリウスが、静かに前へ出た。
「……慎一様。一人、心当たりがございます」
俺は、彼の顔を見た。
その表情は、いつもの鉄面皮のままだった。だが、両手が固く握られていた。
「言いにくいことなら、無理には」
「いえ」
彼は、はっきりと首を振った。
「マルクス伯爵。……私が、十二年仕えた主でございます」
部屋が、静まり返った。
「夜会で領主様と面談の約束をしながら、それが果たされぬまま破産いたしました。逆恨みから、私に領主様の襲撃を命じた男です。……そして、あの一帯の廃村は、かつて伯爵家が採掘権を持っていた土地であります」
俺は、しばらく声が出なかった。
(……採掘権。土地を知っていて、建物を知っていて、人を集められて、金に困っている。)
(……全部、揃ってしまった。)
「ヴァレリウス。……先に言っておく」
俺は、静かに言った。
「まだ、確証はない。ミオが持ち帰る数字を見るまで、俺は誰の名前も紙に書かない」
「承知しております」
「それでも、よく言ってくれた。……言わずに済ませることも、できたはずだ」
彼は、しばらく黙っていた。
やがて、深く腰を折った。
「慎一様。一つ、お願いがございます」
「なんだろうか」
「――この件から、私を外していただきたい」
俺は、すぐには答えられなかった。
「理由を、伺っても」
「二つございます」
彼は、頭を下げたまま続けた。
「一つ。私が関われば、この件は『元家臣の私怨』と見られます。……せっかく慎一様が記録で戦おうとしておられるのに、私が横にいるだけで、その紙が濁ります」
その通りだった。俺が同じ立場でも、そう書く。
「もう一つは」
「……」
初めて、彼の声が途切れた。
「――分かりません」
彼は、そう言った。
「あの方の顔を見た時、自分が何をするか、私には分かりません。……分からないものを、慎一様の隣に置いておくわけには参りません」
俺は、その言葉を、しばらく噛み締めていた。
(……この人は、自分が信用できないと言っている。)
(十二年だ。恨みだけで済むはずがない。……救われた恩も、見捨てられた記憶も、たぶん両方ある。)
「ヴァレリウス」
「はっ」
「答えは、明日出す」
彼が、わずかに顔を上げた。
「今夜のうちに決めるべきことじゃない。……君も、俺も、今日は情報を浴びすぎた」
「……承知いたしました」
彼が去った後、俺は誰もいない執務室で、日報の最後の一行を書いた。
――第百十二日目。偽物の中身が判明。見分け方の紙、三行で作成。名簿、三名まで絞る。
――ヴァレリウスより、本件からの離脱願い。保留。
炭を置いて、俺は天井を見上げた。
(……人の使い方を間違えると、その人が壊れる。)
(……総務の仕事で、一番怖いのはそこだ。)




