日報112:一通の手紙と古道の荷馬車
辺境に来てから第百五日目の朝。
ハンスとゲオルグが、旅装で執務室に立っていた。
「これを、レオンに。……番頭でも書記でもなく、本人に直接だ」
「へい。……中身、伺っても?」
「構わない。写しは残してある」
書いたのは、四つだけだ。
一つ。偽物のことは、こちらも把握した。責めるつもりはない。
二つ。一人で抱えていたのなら、その判断も理解する。ただ、次からは早く言ってほしい。
三つ。お願いがある。あなたの商会が売った本数と、私の村が納めた本数を、突き合わせさせてほしい。
四つ。この照合は、あなたを疑って行うものではない。差が出た場所を探すために行う。
「……最後の一行が、優しいんだか厳しいんだか」
ゲオルグが苦笑した。
「厳しい。だが、これしか手がない。……うちが千本納めて向こうが千本売っているなら、外から入り込む余地はない。差が出るなら、その分だけ何かが起きている」
「もし、差が出たら」
「レオンと二人で頭を抱えることになる。……だが、それでいい。頭を抱えるのは、二人のほうが早く終わる」
二人が街道へ消えるのを見送る。
(……この手紙が、あいつを怒らせないといいんだが。いや、あいつなら怒らない。むしろ、こっちが遅かったと言われる気がする。)
昨夜、この四行に二刻かかった。一番迷ったのは三つ目だ。
(取引先に「帳簿を見せてくれ」と言うのは、どう書いても角が立つ。だが、柔らかくして意味をぼかすのが一番まずい。……相手が誤解したまま動いて、後で揉める。)
結局、言葉を飾るのはやめた。代わりに四つ目を足した。何のために数えるのかを、先に書いておくために。
辺境に来てから第百八日目。
村の東側に建った小屋は、壁の内側に氷炎石がびっしりと並んでいる。中の空気は生ぬるく、じっとりはしていない。
「朝から晩まで、指で触った感じが変わらねえ」
トランが、自慢げに腕を組んだ。
「乾き上がりは」
「ラグナの話じゃ二十日。……だが俺は、十五日目から一枚ずつ割ってみる。失敗を先に見つけるってのは、大将の教えだろ」
小屋の隅では、フィリアが帳面をつけていた。時刻。薪の本数。桶の水の量。手を当てた感触。
「誰の指示だ」
「……自分で。一回目が上手くいっても、二回目が同じにできないと、意味がない」
(……手順書は、この子とエリナに組ませよう。)
その足で、俺はフィリアと一緒に工房へ回った。
作業台の黒い布の上に、小指の先ほどの欠片が三つ並んでいる。
「進み具合は」
「……一つ目を、削った。硬い。でも割れない。ミスリルなのに、粘る」
「陣に組み込む形には」
「できる。……ただ」
言い淀んだところへ、セラフィナが図面を抱えて飛び込んできた。
「シンイチ様! 台座の設計が仕上がりました! ミスリルを中央に据えて、小箱と共鳴させる形です!」
「では、動くのか」
「――動きません」
彼女は、あっさりと首を振った。
「触媒が三つ揃って、初めて陣が閉じます。夢見うさぎの涙腺が『時間の流れを均す』役、常闇苔が『外へ漏らさない』役。……一つ欠けると、注いだ魔力がそのまま逃げてしまいます」
(……分かってはいたが、改めて言われるとこたえる。あの山で取ってきた一つ目は、まだ台座の上で眠っているだけだ。残り二つ。南と、東。)
「今できることだけ、先に全部やっておいてほしい」
「はい! 床の陣は今のうちに刻めます。……残り二つが届いた翌日には、魔力を込められるようにします」
「助かる。……その『翌日には』が、後で効く」
工房を出ると、日が傾いていた。
俺はその足で、トランの作業場へ回った。試作の樽が焼き上がったと、朝のうちに聞いていた。
弱い火で長く炙ってから一気に焦がしたという、その一本。
トランが鏡板を外して中を見せる。内側は艶のある黒に近い茶色で、指でなぞると細かい亀裂が鱗のように走っていた。
「……前に焼いたやつと、色が違うな」
「違う。だが、大将。中を嗅いでみな」
樽の口に顔を寄せる。
焦げた木の匂いの奥から、焼き菓子に似た甘い香りが立ってきた。
(……バニラだ。前の世界の樽熟成の酒に、確かこの香りがあった。)
「これは、いい」
「だろ!」
トランが子供のように笑い、それから急に真顔になった。
「けどよ、大将。……この樽、結局どう使うんだ。小箱に入れるのは木片だろ」
「小箱はな」
俺は頷いた。
「あれは小瓶一本に、木片を数枚だけて熟成できるが。一本ずつしか作れない」
「じゃあ」
「セラフィナの魔法陣は、地下の熟成庫そのものを、巨大な小箱に変える」
俺は、足元を指した。
「部屋ごと熟成させるんだ。……そこに、この樽を並べる」
トランの目が、見開かれた。
「……樽が、木片の代わりになるってことか」
「そうだ。しかも中身ごとだ。小箱が一本ずつなら、魔法陣は樽ごと、何十本分をいっぺんに動かす」
「そりゃ……桁が違うぞ、大将!」
「だから樽が要るし数も必要なんだ。……魔法陣がどれだけ立派でも、中に並べる樽がなければ、ただの広い地下室だ。あんたの仕事は、あの陣の前提なんだ」
トランは、しばらく自分の手を見つめてから、樽を平手でどんと叩いた。
「……先に言えよ、大将」
「悪い。……俺も、こうして見るまで、頭の中で絵が繋がっていなかった」
「それと、別の話だが。……この一本だけは、魔法を使わずに寝かせたい」
「なんでだ。もったいねえ」
「魔法で十年物にした酒と、本当に十年かけた酒が、同じ味になるのか。……誰も知らないだろう」
「……確かめてえってか」
「ああ。開けるのは何年も先になるが」
(……それに、これは偽物対策でもある。魔法で作れるものは、いつか誰かが真似する。……本当に年月をかけた酒だけは、真似のしようがない。)
辺境に来てから第百十日目。
トムの隊商が、王都へ向けて出発した。
荷馬車三台。うち二台にミスリル鉱石、残る一台に酒と書類の束。
「トム。受領印だ。忘れるな」
「はいっ! ……もらえるまで帰りません!」
「無理はするな。もらえなければ『もらえなかった理由』を書いて帰ればいい。……白紙で帰るのとは、全く違う」
隊商が丘の向こうへ消えると、村は少し静かになった。
(……ヴォルム主計官たちは、そろそろ王都に着く頃か。)
その夜、俺は誰もいない執務室で線表を引き直した。
トムが王都に着くのが十日後。返事を持って戻るのが、そこから十日。――第百三十日目。四半期の締めがいつなのかは、その日まで分からない。
(……締切を知らないまま二十日走ることになる。前の会社なら絶対に受けない案件だ。……いや、受けさせられて毎回胃を痛めていたか。)
俺は、最悪の数字を書いた。締めが第百三十日目より前なら、出せるのは今ある在庫と、俺とリズの魔力で作れる分だけ。三倍には遠く届かない。
(……届かないなら、届かないと先に言う。謝るのはタダだ。黙って納期を落とすのは、高くつく。)
翌日、帳場を覗くと、ヨナスが右と左に別の帳面を広げて炭を走らせていた。
「出荷の記録に、番号を振る欄を作りました。まだ番号は入りませんが、欄だけ先に」
「――なぜ、先に」
「仕組みが決まってから欄を足すと、それより前の分が抜けます。……先に空けておけば、後から埋められますので」
(……この人は、盗みを働きに来た男じゃない。仕事のできる伝票係だ。賭場が、それを全部持っていっただけだ。)
「いい仕事です」
彼は、返事の代わりに少しだけ耳を赤くした。
辺境に来てから第百十一日目の夕刻。
ミオが帰ってきた。
彼女は、玄関で外套の埃を払いもせずに、懐から羊皮紙を出した。
「はい。兄貴の署名」
広げると、こちらで用意した文面の下に、力任せに彫り込んだような文字と、牙の形をした印が押してあった。
「……助かった。これで、一つ片付く」
「兄貴、書きながらずっと笑ってた。『あいつは弓一張りに紙を一枚つけるのか』って」
「笑われても構わない。……その紙が、いずれ君たちを守る」
俺は譲渡記録を綴じ込んだ。査察で『未了』と書かれた項目が、一つ埋まる。
「シンイチ。……もう一つ、話がある」
ミオの声の調子が、変わった。
「古道でね。荷馬車を見た」
「街道じゃなく、古道を?」
「うん。あそこ、うちの一族が見張ってるでしょ。……三日前に一台、通ったって」
俺は、炭を置いた。
古道は商隊が使う道ではない。狭く、遠回りで、そして――人目につかない。
「積荷は」
「兄貴の部下が幌の隙間から見たって。……音でも分かったって」
ミオは、少し言いにくそうに続けた。
「――瓶。空の瓶が、山ほど」
俺は、しばらく動けなかった。
「向かった先は」
「北」
(……街道を避けて、古道を使って、北へ運んでいる。)
(王都で作って王都で売っているなら、わざわざ遠回りする理由がない。……作っている場所は、王都じゃないんだ。)
地図を広げ、古道を北へ辿る。銀狼族の集落を過ぎ、その先へ。
「ガルフを呼んでもらえるか」
駆けつけたガルフは、地図を一目見て、太い指で三箇所を叩いた。
「この辺なら、廃村が三つある」
「廃村」
「鉱石を掘ってた頃の集落だ。掘り尽くして、みんな出てった。今は誰も住んじゃいねえ」
「水は」
「あるぜ。井戸も沢もある。鉱山の集落は、水がなきゃ作らねえからな」
(……人がいない。見られない。水がある。街道を通らずに行き来できる。)
(酒の偽物を作るのに、これ以上の場所はない。)
「大将。まさか、そこで」
「まだ分からない。……だが、空き瓶を積んだ荷馬車が、人のいない方角へ向かっている」
(……敵が誰かはまだ分からない。だが、場所のほうが先に分かった。妙な話だ。人を追うより、物の動きを追うほうが、いつも早い。)
「ミオ。もう一度、走ってもらえるか」
「もちろん。……今度は、追いかけるんでしょ」
「いや」
俺は首を振った。
「見に行くだけだ。……近づかず、数えてきてほしい」




