11春のような冬の日に
目を覚ましてさらに二週間が経とうとしていた。もうすぐ十二月になる。時間はあっという間に過ぎて、日本中クリスマスムードに包まれていた。テレビも年末に向かって準備が進んでいた。
コンコンコン
「空音ちゃーん、診察の時間だよ〜。」
早朝雨とは思えないほどの笑顔で佐野さんが部屋に入ってきた。後ろから髪型をきっちり決めた医師が入ってきた。ガチガチに頭を固めており、艶が太陽と反射して眩しくなるほど。
今日まで先生がいない代わりに、代行の先生が診察をしてくれた。
「……異常なし。」
この一言以外、彼の口から言葉を聞いたことがない。無言で部屋に入り、無言で部屋を出ていく。佐野さんも彼の態度に慣れていないようだった。
何だかものすごくハイスペックな人。先生とは真逆のタイプって感じで逆に面白く感じる。
代行の先生は何も言わないまま佐野さんを置いて病室を出た。
「朝食持ってくるね。」
「ありがとうございます。」
佐野さんは急いで立ち上がり医療重機を持ってその場から立ち去った。
「よいしょ。」
鉛のように重くなった体を起こして窓際に立った。老婆かってくらい、遅い歩く速度だった。自分でも惨めになる。
窓を支える柱の縁に手を置いて外を眺めた。
「天気いいな〜。」
自分の声が病室に響く。反響して自分の鼓膜にも届く。まるで病室がやまびこみたいになっていた。
今日は眩しいくらいに晴れた日。空を見上げては目を逸らし、外を見上げるということを繰り返していた。しかしその中に僅かに冬を感じさせるような気流が額を仰ぐ。
ここで、ふと思ったことが一つ。東京の天気はどうだろう。
思うがままにいつの間にか手はリモコンを取りテレビをつけていた。
浮腫のない顔が特徴的なアナウンサーを視界に捉えた。
『今日は、全国的に晴れとなるでしょう———』
天気予報士は嘘をつかない。父親に言われた言葉だ。それもそうだと思う。彼らが事実誤認をしてしまえば日本人の認識が崩壊する。大袈裟に言えばそうなるだろう。ていうか、東京も同じように晴れなのか。心のどこかで安堵した。特に深い意味はない。
天気さえわかればいい。私はそういう心持ちのままテレビを消した。再び空を見上げてみた。
同じ空の下にいるはずなのに、こんなにも寂しくなるのはなぜだろう。羨ましいくらいに広がる広大な朝空は今日までたくさんの人を笑顔にしてきた。私のことも、先生のことも。
先生の姿を脳裏に思い浮かべるたびに、会いたいという感情が強くなる。今すぐ顔を見て安心したい。抱きしめたい。心の穴を先生で埋めたい。こんなにも会いたい人に出会うのは初めて。腕を引き寄せてみて思い切り抱擁をしたい。欲が溢れるほど制御できなくなる。
「うわっ。」
体がふらつき倒れ込むようにベッドに手をつく。危うく頭を打つところだった。余命を宣告されたのに、頭を打って死ぬなんてことは格好悪いな。
こんな感じで、最近は体の調子が冴えない。数分経っているだけで眩暈がする。十分な睡眠をとっているのに眠気がおさまらない。体が重くて一日ベッドの上で過ごす日もある。体を動かせない日も増えてきている。
「もうそろそろかぁ。」
なんて、弱気になる瞬間が増えていた。
コンコンコン
「朝食持ってきましたよー。」
「あ、ありがとうございます。」
朝食を運びにきてくれた佐野さん。満面の笑みには、少し苦しさが混じっていた。眉を寄せて、目の下にはクマを溜め、口先は乾燥していた。
「食器はそのままでいいからね。」
私はぺこりとお辞儀をした。頭を縦に振るのも難しくなってきた。佐野さんは何も言わずにそのまま消え去った。
私は視線を病室の出入り口から食事にうつした。もう片足をベッドの上に移して食事をできる体制を作る。この体制になるまでも10分かかっている。
今日の朝ごはんは、大根ご飯に小松菜とえのきの煮浸し。味噌汁が加わりさらに食卓を彩っていた。
「いただきます。」
独りで食事をするのも両手で数えられるほどかな、って、また弱気になる。
大根は幼い時から嫌いな野菜の一つ。大嫌いだけど、今は食べなくちゃ、という思い込みのせいで無理矢理食べようとする。
「うえっ。」
やっぱり美味しくなかった。吐き出してまた別の吐き気がした。食べては吐くを繰り返して部屋が異臭で包まれていた。
♢
食事を終えてベッドから降りた。洗面台で歯を磨きながら引き出しにしまってあるペンと紙を手に持った。口の中身を吐き出してうがいをして外出用のスリッパに履き替える。白い厚底のゴム製のサンダルを履いて車椅子に移る。
食器を持っていく気力は残っておらず、机上に残したまま病室を出た。
ガチャン
スライド式の扉が勢いよく閉まる音と共に廊下を進む。徒歩で移動することはもう不可能に近かった。心臓病なんて足に全く関係ないと思っていたのに、なんで私だけこんな酷い目に遭わなきゃいけないの?
苦悩だらけの短命な人生を生きるくらいならAIに生まれ変わる。こんなクソみたいな人生、幾度も生きたくもない。
タイミングよくやってきたエレベーターに乗り込み一階ボタンを押す。誰もいない室内で空虚感を全身で浴びながら一階を降りた。
受付はいつものように混雑していた。冬休みシーズンになり感染症の患者が増えている。特に小児科の前には大量の人で溢れていた。
その横を静かに通り裏口から外に出る。車椅子患者にそぐわない小さな段差を乗り越えていつもの定位置についた。
「よいしょ。」
この木陰ももはや私を受け入れる準備をしていた。それに応えるように息を大きく吸った。
「ゴホッゴホッ!」
少し動いただけで息切れが起きてしまう。頭も痛い。金槌で殴られているようだ。
しかし私の手はそんなことも知らずに動き続ける。私はペンを走らせた。
今回の内容は、みんなの未来について。
今まで出会った人たちの未来を願って。
先生はここの病院の院長になっているはず。天才的な治療術と口話術で立派なお医者さんになる。小林先生はそんな先生のもとでこき使われてそう。正反対の二人だけど、きっとうまくやれる。
葉那は有名大学に進学して首席で卒業。きっとバリバリに働くキャリアウーマンになるんだろうな。きっちりシーツを着こなしていくつもの商談を成功させてどんどん昇進していく。話も面白いからテレビ業界の人間にもなってそうだな〜。でもやっぱり一番は、漫画編集者になってほしい。
前に本人にも言ったことあるけど、私は葉那のことを心の底から信頼している。信頼している相手こそ仕事仲間にしたい。
.....って、私なんてこと考えてるんだろう。こんなこと、夢のまた夢なのに。
叶うはずもないことを想像するのは楽しい。未来は無限大に広がる。その中に含まれている人は世の中にたくさんいる。たまたま私はそこに含まれなかっただけで、99%の人は大丈夫。自信を持って未来を信じて。
あとは、父親。元気に看護師を続けてほしいな。看護師なんて最高の仕事でしょ?
人を救うことは感謝をされるということ。感謝される人間は必ず明るい未来がある。そのためには継続が大切。頑張ってね、お父さん。
「やっぱり、もう少しだけ生きたいなぁ。」
描く手が自然と止まった。力が入らず、絵が徐々に薄れていく。
加速する頭痛。力加減が分からなくなる両手。もう何もかもが変化していた。
父親が言っていた、”周りの人間を大切にしなさい”という言葉。その通りにできなくてごめんね。親より先に死ぬなんて、最低な親不孝者だ。何もお返しできていない。お父さんが安心できるような体じゃなくてごめんね。
あぁ、止まらない涙。止まって、お願いだから止まって。
生きたい、生きたいよ。
なんだろう。今日だけこんなに生きたいと思うのは。
私は何度も袖で頬を拭った。
「.....空音?」
突然、後ろから名前を呼ばれた。私は自分の名前を呼ぶ声とともに、勢いよく後ろを振り返った。
「せん、せい.....?」
そこには、先生がいた。
「うわっ!久しぶりだな。」
視界が一気に白くなった。重たい体も重くない。自然とふわっと体が持ち上がった。腰に手があるのを感じる。力が入らない私の体をいとも簡単に持ち上げてしまった。
「ほんと、会いたかったです。」
「うん。俺も。」
「うわっ!」
先生は私を抱きかかえながら体を大きく回した。
「先生!目回るって!」
五感が狂う中先生の首に手を回してグッと力を込めた。先生も私を何度も抱き直した。
「ごめんな。しばらく空けてて。」
「ほんとですよ。独りで死ぬかと思いました。」
「大丈夫。空音は死なないし俺がずっといるから。」
私たちは目と目を合わせた。同タイミングで目が合い頬が緩む。互いの額を合わせてまたハグをした。
「座ろっか。」
「はい。」
先生は私の肩と腕を持って車椅子に座らせた。
「東京にいるって聞きました。」
「うん。」
「どうでした?」
「学生以来に行ったんだけど、やっぱり都会って感じがしたな〜。」
「東京のどこに行ったんですか?」
「一応治療のために行ったんだけど、これ内緒ね。銀座行ってきた。」
「ぎんざ?!」
先生は顔を近づけて私の口元にシーと指差してきた。肩がわずかに触れた。
「言わないでおきますね。」
そう言うと片方の口角を上げてニコッと微笑んだ。その瞬間、胸がキュッと締め付けられた。
「ぎんざ、楽しかったですか?」
「うん。」
「前に雑誌で見たんですけど、街灯の数が多いって。あと透明なガラスに洋服とかバッグとかが置いてあって展示されてるって!それ、ほんとだったんですか?あと、芸能人いましたか?ちょっと、何笑ってるんですか!」
先生は目線だけをこちらに向けて小さく笑った。
私はアヒル口をしてほっぺを膨らませた。すると、先生はおでこにデコピンをしてきた。
「いった!」
「ただいま。」
「.....おかえり、なさい。」
頭がふわっとなった。やっぱり先生の手は安心する。自分がもうすぐ死ぬと分かっていても、もうそれでもいい。せめて、生きている間だけでも好きな人といれれば、私は死んでも構わない。
ふと先生に視線をやると、寂しげに空を見上げていた。私も同じように上を向いた。別に何もない。雲も星もない。
「空音の”空”って、どんな意味があるの?」
先生は空を見上げたまま呟いた。
返す言葉が、ない。そんなこと、父親に一度も聞いたことがなかったから。
「......空、か。分かりません。」
「そっか。う〜ん、俺の予想だと、空のように広い心を持つようにとか?」
「何ですかそれ。絶対いま考えましたよね。」
「いや?」
私と先生は、顔を見合って笑い合った。
♢
「わざわざありがとうございます。」
「いえいえ。」
中庭から病院内に戻り、先生に車椅子を押してもらいながら、明日退院予定の古都波ちゃんに会いに行った。
「この辺にいると思うんですけど。」
「あ、あれは?」
先生が指差した方向に目を向けると、小さな子供たちと遊んでいる古都波ちゃんを見つけた。
「古都波ちゃーん!」
彼女は一度の声掛けで気づいてくれた。子供達との話をやめ、こちらに向かって走ってきた。もう怪我なんてこれっぽっちも治っていた。
「空音ー!中々会えないから心配してたよー!」
「ちょっと、色々あって。明日退院なんでしょ?おめでとう!」
「そうなんだよー!やっと大学に戻れるっていう嬉しさもあるんだけどさ、空音と会えなくなるっていうのが寂しいんだよなー。」
私は少し微笑んで、彼女の目を見て言った。
「私が退院するのは、きっと随分と先のことだから、暇なときに来てよ!いつでもいるからさ。」
古都波は笑いながら私に抱きついた。
「絶対元気でいてよ?じゃなきゃぶっ飛ばすから。」
「分かってるって。」
表向きには明るく話しているけど、きっと彼女と会うのもこれで最後。
私は古都波とハイタッチをした。お互い力を込めすぎて痛いと笑い合う。
「古都波おねえちゃーん!」
「はーい!いま行くよ!じゃ、またね!」
私は彼女に手を振って別れを告げた。
「またねー!」
古都波は笑顔で子供達の元に戻って行った。もう松葉杖をつかなくてもいいんだ。
初めて会った時、包帯をぐるぐるに巻いてウジウジしていた子が、こんなにも元気になったなんて。なんか感動。
「いいお友達だね。」
後ろから先生が優しく声をかけてきた。
「はい。」
子供達に囲まれて笑顔にしている彼女を見て、きっとうまくいく。そう確信した。
「他に用はある?」
「ないです。もう病室に戻ります。」
「りょーかい。」
先生はゆっくりと車椅子を押した。安心感のある彼を背中で感じながら、空室になった山おじちゃんの部屋の前を通った。
ポケットから山おじちゃんの健康お守りを取り強く握りしめた。もうすぐ、あなたと同じ場所に行くかもしれないって、心の中で呟いた。
「空音は、絶対死なない。」
「え?」
「君は、俺が必ず退院させる。」
「.....はい。」
明るくて、未来がある人を見ると死ぬことなんて怖くない。いずれみんな死ぬ。たまたま私の死ぬタイミングが早くなっただけ。
怖くない。怖くない。
死ぬその時まで、先生がいるから。
♢
「ありがとうございました。すみません。お茶も何も出せなくて。」
「大丈夫だよ。」
先生は優しい顔をした。毎朝の診察の時と同じように目の前に座り、頬杖をついて私を見つめた。
「先生。」
「ん?」
「私、なんか大丈夫な気がしてきました。」
「大丈夫?」
「古都波ちゃんの退院日が決まった時、恨みました。なんで私はこんなに元気なのに退院できないんだ、って。」
布団の中で自分の袖を掴みながら話を続けた。
「でも、元気になった人見ると、自分も勝手に元気になった気になるんです。だから、死ぬこと、怖くないです。」
先生は、一瞬だけ目を見開いた後、静かに目を細めて丁寧に笑った。しかしすぐに真顔になり、また私を見つめた。
「あ、あの.....え?」
私の体は瞬く間に先生の白衣に吸い込まれた。
「先生急にどうしたんですか。なんか変ですよ。」
「......」
「あの、苦しいです。先生。」
先生は力を徐々に強めた。息ができなくなるほど苦しいのに、全然嫌じゃない。
「お前がいなくなるくらいなら、俺も死ぬ。」
「え、なに言って.....」
先生の顔が一気に近づき、唇がかすかに触れようとした。
プルルルル
キスをする一歩手前で先生のポケットから音が鳴った。
「はい?分かりました。ごめん、呼ばれたから行くわ。」
先生の体がスッと離れた。
「いってきます。」
ガチャン
扉が閉まり、一人残された。
「え、うそ。」
いま、先生、キキキキキキス?!しようとしたよね?いきなり先生の顔が近づいて、信じられないくらい近くに先生の匂いがあって。もう頭がグワングワンなって。
「はぁ〜!」
私はベッドに倒れ込んだ。
窓から差し込む夕日にうたれながら、先生の顔を思い浮かべた。
♢
「ごちそうさまでした。」
夕食を終えて、歯を磨こうと立ち上がった。布団から出た瞬間、一気に足先が冷えた。今日の夜は一段と冷えるらしい。
「うっ.....!」
しかし、立ち上がった瞬間やってきたのは冷えではなく吐き気だった。今までにないような吐き気。今にも全てが出そうになった。
意識が飛ぶ前にナースコールを鳴らし、助けを呼んだ。
『白夜さんどうされました?』
「なんか、はぁ、吐き気が‥‥。」
私はナースコールを手放し、その場に倒れた。必死に胸元を押さえ、吐き気を止めようとした。苦しい、苦しくて苦しくてたまらない。
ガチャン!
「白夜さん?どうされました?」
「気持ち悪い、むり———」
佐野さんに抱き抱えられたのが最後の記憶。目を閉じて、暗闇の世界へと舞い込んだ。
『あっはっはっは!目回る!先生!』
「バレバレだっつうの。」
俺は二人の幸せな姿を見て心底ホッとした。いつかの時は危なかったけど。
戦友の恋愛は邪魔できないな。
それにしても、いつまでハグしてんだよあの二人は。
————————————
コッコッコッコッ!
ガチャン!
「そらね?!」
部屋に着いた時、空音は酸素マスクをして眠っていた。手術をしている間に、佐野から連絡があった。
白夜空音が重篤だと。
俺が部屋に着いた時には、もうすでにぐっすり眠っていた。
「ありがとうございます。あとは僕が診ますので。」
「お願いします。」
佐野は部屋を後にした。
「マジかよ......」
俺は近くのパイプ椅子に座った。今にも喋り出しそうな空音は、スヤスヤと眠っている。
酸素マスクをつけ始めるのは、まだ早すぎる。これは医者としての判断だ。まだ心音も安定していたのに、なんでだよ。
「......そらね?空音?!」
すると、空音がゆっくりと目を開いた。
「せん、せい。」




