10声のない約束
コンコンコン
「空音ちゃ〜ん。診察の時間ですよ〜。」
ベッドの上で髪の毛を整えていると、佐野さんがノックをして医療重機を運びながら部屋に入ってきた。時刻は7時10分を指していた。今日はいつもより20分、早く起きることができた。
昨日の夜、先生とハグをして安心したせいか、ぐっすりと眠ることができた。しかしそれと同時に、鼓動の速さが加速して自然と早起きになってしまっていた。
「空音ちゃん昨日は眠れた?」
「はい。ぐっすりです。」
窓際に立つ佐野さんは、よかったね、と悲しい言葉を並べた。
「今日はすごい雨だね〜。」
「夜まで降り続くみたいですよ。」
一昨日のニューズ番組で今日は記録的大雨が降ると言われていた。気象予報士はよく当たる。賭けてみる価値は十分に合うと思う。
佐野さんは窓を開けようとした手を止めて、しばらく外を眺めた。私は棚の中からカメラを取り出してその後ろ姿を捉えてシャッターを切った。カシャっと静寂な病室に鳴り響く。
「何の音?」
佐野さんがくるりとこちらを見たので反射的にカメラを布団の中に隠した。私は首を横に振りながら何もしていないそぶりを見せた。
「あれ〜?今確かに音したと思ったけど……」
彼女は不思議がりながらもいつもの作業を開始した。点滴の詰め替え、除菌シートで器具を拭いたりなど、看護師としての使命を着々とこなしていた。
私は開いたカーテンから空を眺めていた。室内にも届く轟音のような雨音に、思わず耳を塞ぐ。時々雲から光が地面を目指して飛んでいく。光る瞬間に打つ!と分かる。
「寒くて雨とかほんと最悪だよね〜。」
「なんでダブルパンチで来るんでしょうか。」
「神の機嫌じゃない?そんなこと私たち知らないって
の。」
ベッドに座って来た佐野さんと雑談をしていると、部屋の扉が叩かれた。
コンコンコン
「おはようございま〜す。」
あくびをしながらいつもと変わらない先生がトコトコとスリッパの音を鳴らしながら病室に足を運んできた。
「体調は?」
「大丈夫です。」
恒常的の会話をしながら先生は近くのパイプ椅子を持って私の目の前に座った。首に巻いてある聴診器を解いて両耳につなげた。先生の聴診器がそっと胸に触れて肩が揺れる。
「.....うん。今日も大丈夫。」
少し掠れた声に違和感を覚える。最近咳の回数も増えてるし、それよりも体調が悪そう。いつもの根っ軽姿があまり見られなかった。
「佐野さん、朝食お願いします。」
「分かりました。」
佐野さんは私に朝食を持ってくると言い残して医療重機を運びながら病室を出た。部屋の中は私と先生だけになり、静かな沈黙が流れた。激しい雨音だけが私たちの体を貫通した。
先生の方をチラリと見ると、カルテを見ていた。私はそのカルテに顔を覗かせて中を見た。私のものだった。
「私のカルテですか?」
「そうだよ。今日までの心拍数とか、呼吸器官が正常に動いてるかとか、色々見てるんだ。」
「へぇ〜。」
なんて返せばいいか分からず、適当な返事をした。先生は胸ポケットから赤ペンを取り出してカルテに書き込みを始めた。その姿をしばらく見つめた。
「ゴホッゴホッ。」
また、だ。隙間時間さえあれば咳をしている。小林先生の言ってたことが何度も頭を回顧する”ガン”という言葉。
先生はしばらくカルテを見た後、そのカルテを待って立ち上がった。私のことを見下ろしながら頭を撫でてきた。
「体調何かあったら、遠慮せず呼んでね。」
そう言い残してパイプ椅子をもとの位置に戻した。
待って。
その一言ともに伸びる腕は、先生に届くことはなかった。先生はとっくに病室の扉に向かって出て行こうとしていた。スライド扉が開き、それは勢いに任せて閉まった。病室は刹那にして私一人となり静かになった。
「はぁ。」
小さなため息をついてそのままベッドから立ち上がり窓際に向かった。部屋の中には手すりがあるため車椅子を必要としない。ゆっくり、自分のペースで歩く練習をしているところだ。
窓際の縁に手をついて外を見上げた。
ザーーーーーー
「やば。」
朝から記録的大雨だ。こんなんじゃ中庭で絵描きなんてできない。私の生きがいである漫画を描くことが制限されたら、私は何をして生きればいいというの?
今日は鳥もいない。夫婦のような2匹は明るく羽ばたいてどこかに行ってしまっていた。
虚しく窓と同化していると、扉が叩かれた。
「空音ちゃ〜ん?朝食持ってきましたよー。」
おぼんの上に朝食を乗せた佐野さんがトコトコと軽快な足取りで部屋に入ってきた。私は急いで体の向きを変えてベッドに向かった。
「今日はね、寒いからスープにしたの。よかったら食べてね。」
「ありがとうございます。」
力を入れてお礼を言うのが精一杯だった。最後の力を振り絞ってベッドに上がり体育座りをした。
「食べ終わったらそのままで大丈夫だからね。」
佐野さんは私の心電図モニターを見ながら言った。その横顔を眺められるのもあと少しだと、体が勝手に感じた。
私は食事に目を向けた。
「いただきます。」
スプーンを持ち湯気がたちのぼるコーンスープを口に運んだ。身体中がじんわりと暖かくなり手足の痺れを軽減してくれた。
今日の献立は、クロックムッシュにコーンスープに、豊富な種類の入った野菜料理。
「はぁ〜。」
コーンスープなんて、どの家庭も同じ味がする。病院食でさえ、父親が作るものと同じ味がするような気がした。
佐野さんは無言のままその場を立ち去った。
一人になり食事の続きを始めた。誰もいない、一人で食べる食事にも慣れてきた。必然と食べるスピードは早くなり、お腹が緩くなる。この一連の流れが当たり前になっていた。同時に、食事を噛む感覚も衰えていた。
♢
「ごちそうさまでした。」
私は全ての品を食べ終え、おぼんを置いたままにして病室を出た。膝の上に小さな紙とペンを乗せて雨音が響く廊下を進んだ。
車椅子生活になってから、不便なことでいっぱいだった。上手く押せないし進めないし、何よりも時間が足りなかった。何をするにも車椅子を要するため全ての行動が遅くなる。申し訳ないが誰かの力を借りた方が楽ではあった。
順調に廊下を進み4階の人混みの少ない方の広場に来た。私が入院している階には東側と西側にそれぞれ広場がある。いつも通る広場は東側、ナースカウンターが目の前にあり人がたくさんいる。
対して西側は比較的人が少なく、穴場の広場となっている。気分が上がらない時はいつも西側に行っている。
ちょうどお昼時ということもあり、さらにいつもより人がいなかった。
車椅子を窓の見える位置まで移動させた。ここまで移動するのに15分ほどの時間を要してしまった。
挫折感に襲われながらも膝の上に置いて一緒に運んできた描き途中の漫画を開いた。ペンを持ち、いつも通り描き進めた。
今回の内容は、葉那と行った公園の話。当時のことは今でも脳裏に焼き付いている。
♢
私が小学校に上がって間もない頃、友達と遊んだ後になぜか靴を片方失くしてしまい、一人で公園内を探していた。
『ままー!まま‥‥』
泣きながら靴を探していると、一人の女の子が私の靴を持って立っていた。その少女こそが、葉那だった。
『はいこれ。あげる。』
『へ?』
『あと、これも。』
そして、ハンカチを渡してきた。私はそのハンカチを手に取り涙を拭った。
『なまえ、なんていうの?』
『....そらね。はくやそらね。』
『そらね。かわいい!』
これが、私と葉那の出会い。
宮古島という小さい島で出会った大好きな友達。
中学校も同じ学校に進学し、高校も同じ学校に進学した。
しかし、高校になって入退院を繰り返すようになった。私も父親もすぐに治ると思って、しばらくの間は葉那には言わないでおこうと口裏合わせをしていた。しかし、心配性の父親が見舞いに来てくれた葉那に病気のことを伝えた。私からだと言いづらいからって、気を利かせて。そんなの、頼んでもないのに言うなんて。当時の私は父親に対して強く当たってしまった。
けれど、いざ葉那を前にして私は何も言えなくなった。
『もうすぐ私は、死んじゃうかもしれない。だから...』
葉那はというと、私に近づいてギュッと抱きしめた。
『ごめん。気づけなくて、ごめん。空音がいいって言うなら、私、友達だいたい。ずっと。』
夏風が頬を撫でる8月の夏休みに、私は涙を流した。
そして一言、丁寧に言った。
『友達には、なれない。』
『え?』
『友達じゃなくて、親友でしょ!』
『‥‥何それ!』
葉那は大声で笑いながら私の肩を叩いた。
♢
「ふふっ。」
私は口元を緩めてクスッと笑った。葉那は根からいい子で沢山笑ってくれる。私が落ち込んでいる時も、泣いている時も、ご飯を食べてる時も、どんな時も笑顔を絶やさないでいてくれた。そんな彼女が、私は大好きだ。
彼女のことになると漫画を描く手が止まらない。次から次へとストーリーが思いつく。葉那のターンだけで一冊作れるんじゃないかってくらい量がある。
ある程度書き終えた頃、ここら辺でラストの1話にしようと決めた。
ラストの1話どんな内容にしようかな。
「うーん。」
そうだ!
葉那の結婚式の様子を描写しよう。
早速胴体から描き始めてその上からウェディングドレスを描写した。
綺麗な白色のウェディングドレスにたくさんのアクセサリーがついてる。両手に大きな花束を持たせて花嫁姿が完成した。
肝心な相手の顔は、どうしようかな。
まぁ、それは葉那が将来決めればいいか。
「よし!」
私はペンを置いて、紙を目線と同じ高さに上げた。我ながらいい感じに仕上がったと思う。影を意識して立体感を出した。背景の木を遠近法で描くことでより人間味が増していた。
完成した絵を何度も見返して優越感に浸る。
漫画家たるものは自分の絵を愛せなきゃなれない。
私にも時間があれば。長い間ずっと生きて、社会現象を引き起こすような漫画家になって。たくさんの人から応援されるような漫画家になりたい。
神様はどこまでも私にいじわるだ。
「バッ!」
「うわっ!」
後ろから誰かが脅かしてきた。私は驚き急いで後ろを振り向いた。
「やっほー空音ちゃん!」
私は急いで落とした漫画を拾いポケットにしまった。
「今何か隠したでしょー!
「な、何も隠してないです!」
「見せたらまずいものなの?」
「まずい!」
「えー!分かった。」
小林先生は案外しぶとくめんどくさかった。粘れば何も言わなくなるかなとも思ったが、そうでもなかった。でもこれは絶対に誰にも見せたくない。
「今日はここにいるんだ。」
私は少し拒絶反応を出したがそのまま話を続けた。
「雨なので。」
「そっか〜。いいよ、ここ。」
小林先生は上を見上げて大きく息を吸っていた。私も真似して息を吸う。
「ここは俺がこの病院に配属になった年にできたんだ。だから同い年。」
「てことは....」
「ちょちょちょ!年齢特定はだめー!」
小林先生は慌てた様子で足をばたつかせた。私はその姿を見て大きく口を開け笑い転げた。
「あっはっは!別にいいですよねー?」
「ダメですぅ〜。」
私たちは”先生”という共通点を通して知り合ったが、どこか気の合うところがある気がする。笑いのツボがあったり、会話のテンポが良かったり。先生や葉那とは違う良さが彼にはあった。
「小林先生は‥‥あれ?」
彼に話しかけようとした瞬間、胸元に違和感を覚えた。そっと左手を当ててみる。少し鼓動が早かった。いつものことだと思い気にせず彼の方を見た。
しかし数秒後、人生最大の痛みが全身に走った。
「かっ.....!」
「空音ちゃん?空音ちゃん?!」
なんだこれ。いたいいたいいたい!どうしたらいいの?!痛い!
「くっ....あぁ...!」
胸を押さえつけ痛みを無くそうとした。しかしそんなことも無意味なほどに、私の体は車椅子から転げ落ちた。
「.....白夜さん?聞こえますか?」
私が蹲っていると、視線の先に佐野さんがいた。いつの間に。その安心のせいか、私は目を閉じて、完全に意識を失った。
♢
『空音ー!』
遠くから聞こえる名前を呼ぶ声。安心する声。
あれ?
私、目覚ました?
目を覚ますと、見知らぬ天井がまず視線に入った。病院とは違うふかふかのベッドに寝ていた。
私はゆっくりと起き上がり、再び辺りを見回した。なんだここ?知らないところだ。
『よく寝れた?』
『え?』
なんと、部屋の外から私服姿の先生が入ってきた。彼は私の方に近づいてきた。目の前で立ち止まり、優しく頭を撫でる。
『ご飯できたよ?今日は空音の好きな餃子。』
『餃子?いや何言ってるの?ここは、どこ....?』
先生に問いかけても何も言わない。ただいつものように優しくこちらを見つめていた。
『何急に。仕事で疲れちゃった?』
『仕事?』
『うん。空音は立派な漫画家じゃん!明日も握手会があるってはりきってたよ?』
漫画家?私が?
普通に接してくる先生も、この環境も、怖くて仕方がなかった。私と先生が映った写真立てがあったり、確実に病院ではない所にいた。
『ほら冷めちゃうよ。』
先生は私の腕を親切に自分の体に引き寄せた。顔全体が先生の胸にのめり込む。先生は微動だにせず、手を私の体に回してきた。時々頭に手を当てて髪の毛を撫でる。
『空音、なんか様子変だよ?』
『え、あ、そんなこと、ないよ。』
突然のことすぎて思わず声が詰まる。肌寒い部屋なのに汗が滲み出るほど暑くなる。
『ご飯食べよ。』
耳元で嘆かれた瞬間、膝から崩れ落ちるんじゃないかと思った。だってここにいること自体理解できないし、私は倒れたはずなのに。
先生は私から体を離して目を合わせてニコッと微笑んだ。
部屋から出て行こうとする後ろ姿を追いかけるようにして私も部屋から出た。
『うわ〜!いい香り。』
『よかった。元気になって。ほらほら!早く食べてみて!』
私は先生にされるがままに食卓についた。
『いただきます。』
『いた、だきます。』
私は先生の行動に合わせて箸を持ち、餃子を皿に運んだ。
『どう?美味しい?』
『うん!美味しい!』
『よかったぁ〜。』
熱々の皮の中に広がる肉汁が白飯とよく合う。加えて緑野菜を食べれば完璧だった。
『う〜ん!我ながら美味いな。』
なぜこんな状況なのか分からない。私は胸が痛くて意識を失ったはず。
でも、なぜかな。
意味のわからないこの状況が、とても愛おしく、儚く感じる。人生で初めて、その一瞬が続いてほしいと思った。
『ごちそうさま。美味しかった。』
私は先生の分のお皿を取り、台所で洗った。2枚めのお皿を洗い終わったとき、ソファに座っていた先生がトコトコと近づき後ろに回った。そして私の両サイドに手を置き、顔を覗かせてきた。綺麗な二重目が私を見つめた。
『何ですか?』
『ん?ただくっついていたいだけ。』
『‥‥。』
私は黙り込んだまま残りのお茶碗を洗った。しばらく静寂のまま、何も起こらない。この瞬間を大切にしたいと心から思う。まるで、普通の世界で先生と出会ったときみたいに。
『洗い終わったらソファで一杯。』
先生はそう言って酒缶を2缶持ってソファに座った。私は急いで手を洗い手を拭きソファに向かった。
『久しぶりだね。二人で飲むの。』
今までずっと住んでいたかのようにスラスラと言葉が出てくる自分に驚いている。
先生は何も言わないまま、私の肩に顔を置いた。
『はいこれ。』
『え?』
私の手には小さなリングが置かれた。銀色に光る指輪と先生の視線が交差する。
これって‥‥?
『俺と、結婚するか。』
私は顔が赤く腫れ上がるのを感じるとともに、嬉しさで涙が溢れた。
『私も、結婚したいです‥‥!』
『よかった。』
先生は私の顔横に優しく触れて唇にキスをした。
♢
ピッ、ピッ、ピッ
「うぅ。」
「そらね?空音!空音!」
「あれ?」
「先生!先生!だれかー!」
再び目を覚ますと、記憶に残る白純の天井が広がっていた。
誰かが扉から出ていってすぐのこと、父親、佐野さん、葉那の3人が勢いよく部屋の中に入ってきた
「空音ちゃん?よかった〜。」
葉那は泣きながら私に抱きついてきた。
「空音.....大丈夫?」
「あ、あぁ。」
起きたばかりで、上手く喋れなかった。
「あんた、二ヶ月も起きなくて、どんだけ寝てんだよ!」
「ご、めん。」
そう言うと、葉那はクスッと笑った。何度も私の名前を呼んで生存を確認した。
「空音ちゃん、どこか痛むところはない?」
佐野さんの質問に頭を縦に振った。
♢
私が目を覚まして一週間が経った。まだ出来ないことばかりだけど、周りの援助もあって何とかなっている。
「よいしょ。」
私は車椅子を押しながら、先生と見た花火の大広場に来た。
ここに来るたびに夏の夜空に打ち上げられる花火を思い出す。先生と初めて過ごした夜。短く、哀しげな夜だった。
目を覚ましてから、一度も先生と会っていない。佐野さんにどこにいるのか聞く気力もなく、結局分かっていない。一週間前に見た先生は私の幻想だったの?あの瞬間は一体何だったんだろうか。
先生、あなたは今、どこにいるの?
それに、今回は体の重さが全く違う。漫画を描く気力なんて残っていなかった。体は描きたくて仕方ない。でも、描けない。もどかしさが全身を覆いまた苦しくなる。
「もうすぐ、か。」
ポツリと独り言を呟いた。何にもやる気になれない。大好きな朝食も半分以上残してしまった。
死ぬという世界が、直ぐそこまで迫っていた。あくびも多くなり、ネットで調べれば調べるほど不安に陥る。
.....死にたくない。生きたい。
私は、一人で静かに頬を濡らした。
「はい。」
「へ?」
私が泣いていると、小林先生が箱ティッシュを差し出してきた。急に驚いたが、躊躇なくティッシュを貰い、涙を拭った。
「目が覚めて、よかったよ。」
「ありがとうございます。」
「うん。」
小林先生も、私の覇気のない受け答えを察したのか、黙り込んでしまった。
「‥‥あの、先生って、どこにいる。」
頭で考えるより体が動いていた。
小林先生は少し目を開いて、前を向いた。
「アイツは今、東京にいる。」
「東京?なんで。」
彼は組んでいた足を解いて姿勢良く私を見た。思わず身構える。
「前に言った、喉頭がん。あれ、俺が手術する予定だったんだけど、涼が俺に責任を負わせたくないって言って東京の病院に行ってしまった。確か、明後日くらいに帰ってくるかな。アイツ、俺に断りもなく東京に行ってしまったんだよ。」
「先生はもう、声が出ないんですか?」
「いや、だとしたら連絡してくると思うんだ。」
「そうなんですね。ありがとうございます。」
「何か分かったら教えに来るね。」
私はぺこりとお辞儀をした。
小林先生は箱ティッシュを片手に歩いてどこかに行ってしまった。
ふとナースカウンターに目をやる。佐野さんはパソコンに向かって作業をしていた。他の看護師さんも各自作業をしていた。しかしそこには先生の姿は見当たらない。
先生は、東京に行ったのか。
東京。
どんなところなんだろう。
宮古島で生まれて、この島から決して出ることなくここでしか生きていけない私とは違って、きっと色んな景色を見てくるんだろうな。
前に葉那と見た雑誌では、芸能人がたくさん住んでいるという情報。都市に出れば有名人がそこらじゅうにいる。テレビで見るような人に、私も出会ってみたいな〜。
先生から見た宮古島の景色と、私から見た宮古島の景色は全く違く見えるのかな。
先生は、私なんかに構ってないで、もっと色んな景色を見た方がいい。先生がこちらに戻ってくる頃まで生きていたら、それを伝えよう。
目を細めて壁掛け時計を見つめると、11時半を過ぎていた。もうすぐお昼ご飯の時間だ。急いで病室に戻らないと。
車椅子に力を込めて来た道を戻った。
「もしもし?」
俺は東京にいる涼に連絡をした。
「どうした?」
「お前、空音ちゃんに会わずに手術するのか?」
「声を失って、彼女と話せなくなる方が辛い。だったら、もう会わずにこっちにいる。」
「誰が伝えるんだよ。」
「お前から言ってくれよ。」
「小せぇ男だな。最後くらいそばにいてやれよ。空音ちゃん、お前のこと大好きで待ってるぞ。」
「‥‥考えとく。」




