9彼の秘密
あのあと、人の声がしたため、すぐにその場を離れた。先生は急いで私を車椅子に座らせて後ろにまわりエレベーターに向かって進んだ。私たちは何事もなかったかのようにその場を去った。
しかし、先生がサッと自分から離れていく感覚は辛かった。体が一気に寒くなり空虚になった。
『ごめんね。』
エレベーターの中で二人きりになった時、私の髪の毛をいじりながら言った。
『謝らないでください。』
『医師として最低なことをしたよ。』
『医師としてですか?』
室内に沈黙が流れた。先生は私を撫でる手を止め、小さなため息をついた。
『”医師として”はずるいよな.....』
先生はそう呟いたあと、いつもの咳をした。もう毎日のように咳をしている。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫ゴホッゴホッ!」
先生は止められない咳を止めようと必死だった。私は後ろから苦しそうな声を聞いていた。
開閉扉が開く音がした。下を俯いたまま扉が閉まるのを待っていると、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
「空音?」
「古都波ちゃん?!」
外から松葉杖をついた古都波ちゃんが乗ってきた。彼女は足を怪我してここの病院に入院してきた。初めて会った時から意気投合しており、互いの部屋を行き来している関係だ。
「空音じゃーん!すごい偶然!」
「そ、そうだね。」
彼女は小走りしながらエレベーター内に入り私の体を包み込んだ。
「どうしたの?検査かなんか?」
「そんな感じ。」
相槌を打ちアラを探されない程度にその場を収めた。古都波ちゃんは何の疑いもなく私に話しかけてきた。
「ねー今からそっち行ってもいい?」
「いいよー。」
最近、古都波ちゃんは車椅子から松葉杖になった。怪我が回復している証拠だ。
ピンポーン
雑談をしている間に4階についた。先生は先に古都波ちゃんを降ろさせてその後私の車椅子を押してくれた。
「松葉杖は慣れた?」
一歩先を歩く古都波ちゃんに話しかけた。彼女は首だけをこちらに向けて笑顔で声を出した。
「大学テニス部の主将だよ?こんなの一瞬で慣れたよ!今まで何回も怪我してるしね。」
「それはよかったね。」
彼女は元気よく返事をした。その声は廊下に響き渡った。古都波ちゃんの声は嫌というほど耳に残る。恐れる敵などいない、私が王道を行くという声がどうしても受けいられなかった。
「ここでいい?」
「あ、ありがとうございます。」
「ううん。何かあったら呼んでね。」
一番奥の病室の前まで来て先生はいつものセリフを言い残してナースカウンターに戻った。私はペコリとお辞儀をした。行ってきた道を戻る後ろ姿に目が丸くなる。
「はいはいとりあえず部屋の中入りましょう!」
古都波ちゃんはウキウキしながらスライド扉の扉を開けて中に入った。彼女を追うように私も一緒に部屋に入った。
ガチャ
「ふー!疲れたー!部屋マジで変わんないねー。」
私はの部屋には大きな本棚が一つあり、そこに隙間なく漫画が収納されてある。壁にはお気に入りの漫画の一コマが印刷されて貼られている。
「お茶飲む?」
「欲しい〜!」
「ちょっと待ってて。」
私は冷蔵庫の前で止まり中から烏龍茶を取り出した。冷蔵庫の上に置いてあるポットの中に水道水を入れてお湯を沸かした。それを耐熱コップに入れて烏龍茶を加えた。
「はいどーぞ。」
「あざーっす!」
古都波ちゃんはソファに腰掛けていた。そして一口お湯を運んだあと、私を見つめてきた。
「なに?」
「あのさー!二人って、両思いなの?!」
「......は?」
「いやいやとぼけんなって!さっき、ハグしてたじゃん!あさくらと!」
......終わった。
私は全ての終わりを悟った。
思わず口を開いて彼女を見つめる。
やはり、見られていたか。人の気配はなかったとはいえ、絶対に人はいるなと思ってた。なのにあんなことして。どうする?どう言い訳する?
「で、どうなの?!」
「どうって。私のことキモイと思ったり誰かにチクッたりしないの?」
「え?何言ってんの?そんなめんどいことするわけないじゃーん!」
「え?なんで?」
「だって、ドッキドキじゃん!私が特等席で二人を見てやるんだからね!」
古都波ちゃんはニコッと笑って私の脇をくすぐってきた。
「やめて!やめてー!やめろってば!」
「あっはっはっは!ほんっとに弱すぎ〜!」
「このやろ!」
「やめろやめろやめろマジでやめろ!」
私と古都波ちゃんは短い付き合いではあるが、深い関係であった。陽気な彼女は居心地も良く、話しやすかった。
コンコンコン
「そらねー‥‥っと来客か。また来るね。」
ガチャン
運悪く、張本人が来てしまった。
「しかも名前呼び?!どんだけだよ!」
「しぃー!声がでかい!」
私は古都覇ちゃんを宥めるようにした。しばらくして彼女は落ち着きを取り戻した。
「詳しく聞かせてよ!偽りなしで!」
「えー。うん、分かった。まず、頭ポンポンされた時から気になってて、それで‥‥」
「うっひょー!それもうチューじゃん!」
「それで私金槌で殴られたみたいな感覚になっちゃってさー。余命の前に死ぬんじゃないかってね。」
「いやいや。まぁ、それは好きになるわね。朝倉って顔も身長も最高だし。それに医者だし。空音は見る目があるねー。」
古都波ちゃんはいつまでも私をからかった。
コンコンコン
「空音ちゃーん。夕食の時間ですよー。」
「もうこんな時間か。また来るねー!」
「う、うん!またね!」
古都波ちゃんは部屋を出て行った。と同時に夕食が目の前に運ばれてきた。
「お友達?」
「怪我で入院してる古都波ちゃんです。」
「へー。仲良いんだね。」
「ま、まぁ。ありがとうございます。」
「はーい。」
ガチャ
「いただきます。」
今日は二身揚げ。白米との相性が良くてとっても美味しい。
カランコロン
「はぁ。」
ご飯を食べれるようになったとはいえ、まだ車椅子生活なため全身に力は入らない。
「よいしょ。いった。」
箸を取ろうとした衝撃でベッドから転げ落ちてしまった。目先にある箸を見てなんて情けないんだと思った。
コンコンコン
「白夜さ‥‥空音?!」
「せん、せい。」
先生は私の肩を持って体を起こした。
「大丈夫か?」
「はい、すみ、ません。ゔぅ、ゔぅ、」
「これに吐いて。」
「おえっ‥‥!はぁ、はぁ、はぁ。」
私は気持ち悪さに耐えきれず、先生の前で嘔吐してしまった。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」
「空音は悪くないよ。体調大丈夫?ゼリー持ってこよっか?」
「いや、もう、食べれません。」
「分かった。それじゃ、戻るね。また何かあったら呼んで。」
先生は立ち上がって部屋の扉を開けようとした。
「‥‥先生!」
先生は顔だけこちらに向けた。
「ん?」
「あ、あの、しばらく、いてくれませんか?」
先生は少しだけ目を見開いた。
「あ、あぁ。」
そう言って開けかけた扉を閉めた。
「どしたの?どこか具合悪い?」
「いや、そういうわけじゃなくて、ただ一緒にいたいだけなので。」
先生は腕組みをしてニヤニヤしながら私を見た。
「‥‥何ですか?」
「いや、何でも?それよりも、呼び止めたなら何か話してよ。」
先生はパイプ椅子を私に近づけた。
「えぇ、はなし?じゃあ何でさっき、キス、しようとしたんですか?」
「‥‥あ、あぁあれか。うん、そのままの意味だよ。」
私は思わず驚いた。あの行動がそのままの意味?信じられないんだけど。それって、もう‥‥
「好き?ってことですか?」
「うん。好き。」
かぁぁぁぉ!!私は顔を伏せてしまった。そんな顔で好きなんて言ったら、私は、死んじゃうよ。
「何で俯いちゃうの?」
そう言いながら先生は私の顔を持ち上げるように起こした。
「あっはっはっは!顔真っ赤じゃないか!」
「当たり前ですよ。」
先生は笑う顔を止めて、私を見つめた。
そして、手を頭の後ろに回して互いの顔を近づけた。
「もう、好きって言ったならこれもいいよな?」
「‥‥。」
プルルルルル
「あ、電話だ。もしもし?今行きます。ごめん、呼ばれたから行ってくるね。」
「あ、行ってらっしゃい。」
「うん。いってきます。」
「え。」
先生は私の頬にキスをしてから部屋を出た。純白の白衣をちらつかせながら。
私は部屋の鏡で顔を確認した。
そこには、明太子のような顔があった。
♢
コンコンコン
「失礼しまーす。」
扉に目をやると、白衣を着て首に聴診器を巻いた先生がやってきた。いつも通り、目の下にクマを溜めて髪はボサボサであった。目元が隠れそうなほど。
「よいしょっと。それじゃ検診するね。」
私はペコリとお辞儀をした。
「何かいつもと体調違うとこある?」
「特にないでぁぁぁ〜す。」
話しながら大きな欠伸をしてしまった。先生はクスッと笑った後、口角を上げたまま聴診器を伸ばした。
「心音聞くね。」
先生の手が私の胸にそっと近づく。いつもと変わらないこの光景に、目が凝ってしまう。
「…..大丈夫だね。」
「ありがとうございます。」
「また何かあったら呼んで。それじゃ朝食お願い。」
先生は立ち上がって佐野さんに相槌をうった。
「空音ちゃん、朝食持ってくるね。」
「ありがとうございます。」
私は立ち上がって頭を下げた。
佐野さんと先生が一緒に病室を出た。
「本日の患者さんって———」
ガチャン
部屋から誰もいなくなり、虚しくも鳥の鳴き声だけが病室で響いた。脳裏に残るような美しい鳥が、窓の目の前にある枝木にとまった。二匹、まるで夫婦のようだった。二匹は顔と顔を近づけて互いに鳴きあっていた。
「はぁ〜ねむ。」
今日は何度も欠伸が出る。しっかりというよりいつもに増して寝ている時間は確保しているのに。
私はソファに座って思い切り首を倒して目を瞑った。午後の漫画を描く時間に備えて、少しでも体力を残すために視界を閉じた。
「空音ちゃ〜ん?朝ごはん持ってきたよー。」
「あ、は〜い。」
しかし寝ようと思ってもすぐに佐野さんが朝食を持ってきてしまった。
お腹はそこまで空いておらず、どちらかというと寝たい欲が強かった。
「今日の朝ごはんは鳥の胸肉丼で、タンパク質豊富だからたくさん食べてね。」
「ありがとうございまぁぁぁす。」
私は再び佐野さんの前で大きな欠伸をしてしまった。その後普通にご飯を食べようと箸を持つと、佐野さんが隣に座って話しかけてきた。
「空音ちゃん、今日はいつもより眠い?」
「え?」
佐野さんは真剣な眼差しで私を見透かした。そんな彼女に圧倒されて、何も言えなかった。
「健康の確認をしなくちゃいけなくてね。昨日は何時に寝た?」
「昨日は、確か、10時くらいかな。」
「10時、てことは9時間は寝てるね。教えてくれてありがとう。朝ごはん食べ終わったらそのままで大丈夫だからね。」
佐野さんはところどころ暗い顔をしながら最後には笑って立ち上がった。その瞬間、ものすごい不安に襲われた。
「何か、病気でもあるんでしょうか。」
歩き出した佐野さんに声をかけた。すると、彼女はクルッとこちらを向いてまた近づいてきた。
「大丈夫。診察しても問題なかったからただの寝不足なだけだから安心して。」
私は肩を優しく撫でられた。安心した、と、思いたかった。しかしどうしても不安の心が消えることはなかった。
「それじゃ召し上がれ。」
そう言って早歩きで病室を出た。
頑張って朝食に注意を向けて箸を持った。ゆで卵サラダの皿を持ち上げて口に運んだ。
「はぁ。」
食べる気なんてそうそう起きなかった。眠っている方がマジだと思い込んだまま、ぼーっとした。
♢
「ごちそうさまでした。」
各皿に少しずつ食べ物を残してしまった。
時刻は8時半を指していた。
私はサンダルを履いてソファを立ち上がった。食べ残しのあるおぼんを持って部屋を出た。
ガチャン
上手く歩けず、何度も転びそうになった。いつもならグッと力を込めて歩けるのに。
運の悪いことに、私の病室はナースカウンターから最も遠いところにある。その分、歩く距離もそれなりにあった。
ナースカウンターまで歩くのに10分かかってしまった。
「すみません。」
私は近くにいる看護師に声をかけた。すると、一人の看護師が近づいてきてくれた。
「空音ちゃん食器いつもありがとうね。」
「すみません残してしまって。」
「大丈夫だよ。」
私は今まで食事を残したことがほとんどなかった。そのため、看護師さんも少し驚いていた。
「空音ちゃん?」
奥から聞き覚えのある声が聞こえた。それは、マスクをつけた佐野さんだった。
「ここまで持ってこなくてもよかったのに、ごめんね。」
「大丈夫です。それじゃ。」
私は佐野さんにお辞儀をして部屋に戻ろうとした。その間にも手すりを掴んでゆっくりと歩いた。いつ転んでもおかしくないほどに足が小刻みに揺れていた。
「空音ちゃん!」
すると、佐野さんが近づいてきて言った。
「空音ちゃん、車椅子持ってくるからここで待ってて。」
そう言って走ってどこかに行ってしまった。佐野さんの声が大きく、周りの視線が辛い。
私はその場に立ち止まり、少し荒れた呼吸を落ち着かせた。
「———これ、今日はこれ使って。無理に歩いて怪我なんてしたら大変。」
しばらくして佐野さんが車椅子を持ってきてくれた。「先生には私から伝えておくから。遠慮なく使って。」
佐野さんは無理矢理私を車椅子に座らせた。私の体は拒否することなく自然と座ってしまった。
「病室まで押してく?」
「大丈夫です。」
私は佐野さんの顔を見ずにお礼を言った後病室に戻る廊下を辿った。なんだか佐野さんの顔を見る気にはなれなかった。彼女の穏やかなタレ目を見ると、心がギュッと鷲掴みされるようになる。そのため、最近は自ら顔を見て話さないでいた。
ガチャン
病室の扉を開けて中に入る。窓は全開のため一度に大量の風が体を突き刺した。少し寒いと感じるのは、体の感覚神経が狂ってきているのだろうか。
私は車椅子に座ったまま枕元にある棚から紙とペンを取り出した。前回の続きから描き進める予定だ。
漫画を描くだなんてくだらない趣味は、辞められない沼であると私は思う。
車椅子に乗ったまま外に出た。
車椅子は使い慣れていたので、順調に進みながらエレベーターに向かった。
4階のトレンドマークである中広場の大きな窓の前には、数人の老人がいた。この階は私以外、全員がシニア患者であった。
その光景を目にしながらそのままエレベーターの前まで来た。やっぱり歩くよりも早かった。
車椅子を押しながらエレベーターのボタンに手を伸ばした。上を見て乗る予定のエレベーターが今どの階にいるか確認した。
3階。もうそろそろ来るな。
ピンポーン
『ドアが開きます。ご注意ください。』
予想通りエレベーターが来た。私は俯いたまま手首に力を入れて車椅子を進めた。
「よいしょ。」
小さな段差を乗り越えて扉が閉まるのを待った。ひたすら前を向いて中庭に行くことだけを考えた。
「あれ?空音ちゃん?」
すると、後ろから声をかけられた。私は声を出して驚いた。
「わっ!小林先生?びっくりした〜。」
まさかの偶然により、エレベーターの中に小林が乗っていたのだ。意図的ではなかったため、私は素の反応で驚いた。
「久しぶりだね〜。どうしたの?」
小林の顔を見ると、少し眉を寄せて眉間に皺を作っていた。その表情を見て、私は全てを悟った。
「今から、中庭に行こうと思って。」
「へぇ〜。この間も中庭にいたよね?」
「い、ましたね。」
私は微かに笑った。息が切れるような浅い笑いに、彼も困ったように笑った。
「車椅子、押そっか?」
そして、一言呟いた。私は返す言葉に困り、固まってしまった。
「あ、えっと.....じゃあ、お願いします。」
小林は無駄にオーバーリアクションをした。さらに反応に困り、私は無愛想な笑顔を無理やり浮かべた。
「よしっ!じゃあお医者さんが押してあげましょう。」
「ありがとうございます。」
訳もわからず小林に車椅子を押してもらうことになった。彼とは特に喋ることもなく、結果お互い無言になるのかと思っていた。
「空音ちゃんはいつも笑顔だからこっちまで嬉しくなるよ〜!」
「そうですか?」
「うん。どんなに小さな事でもパァッと明るくしてさ。ほんと、あいつが羨ましいよ。」
「あいつ?」
「あ、いやいやなんでもないよ。」
ピンポーン
私たちは目的の階に着いた。小林は力強く車椅子を押した。
「よいしょっと。中庭でいいんだよね?」
「はい。ほんと、ありがとうございます。」
「いいってことよ!」
小林はゆっくりと車椅子を押しながら目的地まで向かった。先生とはまた違う、進み方だった。安定していて、座り心地が最高だった。
小林は順調に進み中庭に続く裏口にたどり着いた。
ガチャ
小林は私の頭の上を通るように扉を開けた。一瞬だけ視界が暗くなったが、すぐに明るさを取り戻した。
「ここで正解?」
小林は耳元でつぶやいた。見慣れた景色が、一度に広がった。私は安心して小林の顔を見た。
「正解です。」
「よかった。」
再び車椅子を押し出した。
ピピー!!
空の頭上を多くの鳥が仲間を引き連れて飛んだ。普段と変わらないこの光景が、なんだか初めて見たような景色に見えた。
「ふぅ〜!暑いねー。」
小林はポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。
中庭には数人の患者と看護師がいた。みんなが会話をしてその世界に入り込んでいた。
「あそこの、ベンチの近くでお願いします。」
「あれ?」
「はい。あそこに座ると、気持ちが落ち着くんです。」
「分かった。」
小林は小さな段差を容易く乗り越えて大きな木の見えるベンチの近くまで向かった。
大きな木は私の目を潤してくれる。辛くったって、逃げたらなる時だって、いつでも私のことを優しく見守ってくれた。
「よいしょっと。ふぅ〜!疲れた!」
小林は私がいつも座っているベンチに腰掛けた。私はその隣に、車椅子に座ったままでいた。
自らの意思で立ち上がろうとしたけど、足に力が全く入らず、何もできなかった。
「気持ちがいいな〜。たまには外に出てみるのも悪くないね。」
小林は足を組んで空を見上げていた。その横顔は、親友である先生にも少しだけ似ていた。
「あの。」
「なに?」
「いや、なんでもないです。」
「気になるじゃん!」
小林は女の子のようにギャーギャーとわめいた。私はそんな彼を宥めるようにした。周りの視線が少し痛い。
「ごめんごめん、ついつい取り乱しちゃった。」
「取り乱しちゃったって。」
私は深いため息をわざとついた。小林はこちらを向いてムスッと顔をしかめた。
せっかく持ってきた漫画とペンも、小林がいるから描けないな。私は少し後悔した。
「.....ところで空音ちゃん、聞きたいことがあるんだねど。」
「なんでしょうか?」
突然、質問を投げかけられた。私はなんの驚きも見せずに彼の顔を見た。そこにはいつもと違う真剣な眼差しが向けられていた。ふざけてばかりいる小林とは違う彼がいた。
「いつまで涼とあーいう関係でいるわけ?」
「え?」
涼って、朝倉涼先生、のことだよね?
「どういうこと、でしょうか。」
小林は、眉間に皺を寄せて私の目を見た。
風が揺らぎ、静かに拍動がなった。自分の心音だけが耳に届いた。
「涼と空音ちゃんが、親しい関係にあるのは知っている。だけど、君たちはそう長く一緒には居られない。」
「なんで、そんなこというの。」
「.....空音ちゃん、あのね、実を言うとね。
「涼は、癌を患っているんだ。」
「が、ん?」
リピートした、小林の言葉を。癌というフレーズが、流石に自分の耳を疑った。
「喉頭ガン、っていう喉にできる癌の一種なんだ。涼が研修医時代の時に発見されてね。」
「ちょっと待ってどういうことですか?」
私は小林の話を遮って聞き返した。まず、なぜ彼がこんな話をするのか、理解できなかった。
「空音ちゃんと涼の関係性を見て———」
「そんなんじゃ理由になりません。それに、なんで私にそんなことを話すんですか?」
私は少し強気に話してみた。今はただ、理由だけを知りたかった。
小林は少し瞳孔を開いていた。黒目の面積が広がり、私の態度に驚いているように見えた。
「こんなこと言いたいいたくないなぁ———涼から言われたんだ。”空音と距離をおくように仕向けて欲しい”って。」
「なに、それ。」
全身の筋肉が凍った。時が止まったように私の拍動も動きを止めた。
「空音ちゃん、ほんとに勘違いだけはしないで欲しい。涼は本当に」
「もう、いいです。失礼します。」
私は小林が何かを言いかける前にその場から離れようとした。
なんだろうこの激しい感情の起伏は。
ついさっきまでは楽しく話していたつもりだったのに、今となっては小林に対してイラつきを覚えていた。
私は車椅子の安全装置を解除して自分で押した。決して後ろは振り返らず、ただ前を向いた。
今の状況に、理解ができないからだ。
先生が、私と距離を置きたい?そのために小林を使ったの?
館内に続く入り口の手前まで来た時、微かに頬に涙が伝った。
目の前の景色が滲んだせいでうまく段差を乗り越えられなかった。
「よいしょっ、もうなんで。」
少しの段差も乗り越えられずに一人で力を入れ続けた。
「もう病室戻る?」
すると、後ろから小林の声がした。そして車椅子を軽々と押して段差を乗り越えてくれた。
「.....ありがとうございます。」
「うん。」
私はそのまま扉を通って中に入った。引き続き中庭の方には顔を向けなかった。
「お!空音ちゃん!グミ食べる?」
道中にあるコンビニのおばさん店員に話しかけられた。
私は大丈夫ですと断りエレベーターに向かった。おばさん店員は寂しそうな声で
「あらそう。」
と呟いた。
病室までの道のりは遠く、考え事も考えられないほどの重圧に押された。
ピンポーン
タイミングよく上行きのエレベーターがきた。私は乗り込んで4階ボタンを押した。
扉が閉まり数人の看護師や医者が話していた。私はひたすら前を向いて扉が開くのを待った。
『明日の開胸手術の件なんですが、こちらの予定でよろしくお願いします。』
『分かりました。それでは担当の方に渡しておきます。そうしましたら———』
ピンポーン
『扉が開きます、ご注意ください』
「すみません降ります。」
そう言って車椅子を押した。一人の医者が扉を押さえててくれた。私は小さくお辞儀をしながら降りた。
扉が閉まり同時に4階の中央広場から声が聞こえてきた。その声に慣れてきて私は何度も安堵した。
「あ!空音ちゃん!」
「古都波ちゃん。」
中央広場を通り過ぎようとした時、怪我で入院中の米澤古都波ちゃんが話しかけてきた。
「なんか、元気ないね。大丈夫?」
「うん。最近、体調がすぐれなくて。」
「そっか。空音ちゃんなら明日にはケロッとよくなってるよ!」
「そう、かな。」
古都波の言葉がズカズカと胸に刺さる。よく見れば、彼女は松葉杖をついていなかった。私の元に来る時も、足を引きずらないで小走りで私の元に来ていた。
「脚はよくなったの?」
「うん!今はリハビリ中なんだ〜!早く退院して、テニスやりたいんだ!」
「早く治るといいね。」
「ありがとう〜!」
古都波ちゃんは私にハグをしてお礼を言ってきた。その背中を撫でようとしたけど、手を差し伸べるのを躊躇した。
「古都波〜!この瓶開けてくれなーい?」
「分かった!じゃ、またね!」
誰かが彼女の名前を呼んだ。古都波ちゃんの向かう方向を見てみると、顔にたくさんシワを使った老婆の元に向かっていた。
「おばあちゃん力弱くな〜い?」
「歳をとると何かと大変なんだよ。」
先生が言ってた彼女のおばあちゃんか。二人は仲良く話していた。
その姿を見るのが辛くなり、私は目を背けて病室に戻る道を辿った。
♢
コンコンコン
「空音ちゃん?夕食持ってきたよ〜。」
病室で漫画を描いていると、佐野さんが夕食を持ってきた。
「あ!漫画描いてる!見ていい?」
佐野さんは夕食ののったおぼんをソファの方の机に置いた。
私はソファに座ることが難しくなってきて、最近はベッドで自作漫画を描いている。
「なんか初めてだな〜!ちゃんと空音ちゃんの漫画読むの。」
「そうですね。」
ベッドに座った佐野さんはジロジロと私の漫画を見た。そして一言。
「面白い.....これ、売れるよ。」
「え?」
「私さ、漫画とか人生で一回も読んだことないのね。けど、これは世に出したらベストセラーになるよ!」佐野さんは真っ直ぐな目で私を見た。
そういえば、自分の漫画を見せたのも、知られたのも、彼女が初めてだった。隠していたつもりが、いつの間にかバレてて。
そして今、初めてしっかりと見せたがこの反応。私は照れ臭くなった。
「そんなに、すごいですか?」
「ほんとにほんとにガチで。」
佐野さんの笑みのない顔に、さらに赤面癖が加速した。
「この漫画ってさ、本当にあった話?」
佐野さんは漫画を読みながら尋ねてきた。
“先生との出来事を描いてる”
だなんて、口が裂けても言えなかった。
「全て、思いつきです。」
私は嘘のことを彼女に伝えた。
「そうなんだ。実際にある話みたいで現実味があって読み応えがしっかりある。って、素人が言ってもなにって話だけどね。」
佐野さんは笑いながら私を見た。その笑顔を見て、心がキュッと締め付けられた気がした。
「これさ、何か賞とかに応募してみれば?漫画とかよくわからないけど、調べてみるよ。」
「え、いやそんな大した物じゃないですから。」
「そんなに謙遜するなって〜。それじゃ、食器はそのままでいいからね。」
佐野さんはニヤけながら立ち上がって病室を出た。
「はぁ、はずかしっ....。」
私は箸を待って食事を口運んだ。
「ごちそうさまでした。」
一人でご飯を食べ始めて、もう何年になるだろう。中学生の頃から入院して、今まで何度も入退院を繰り返して。
私は立ち上がって車椅子に乗った。そして机の上に置いてあるおぼんを持ち上げて膝に置いた。車椅子を自力で押すのも、力が入らなくて大変だなぁ。
ガチャン
時間帯はあっという間に8時を回っていた。外は暗くなっており、冬が近づいて肌身が寒く感じられた。夜の廊下なんて人一人もおらず、寂しさが便乗して余計に寒く感じられた。
私は時間をかけてナースカウンターまで行った。
「あのーすみませーん。」
いつもの如く、ナーフカウンターには誰もいなかった。朝方から夕方にかけては誰か一人はいるが、この時間帯には会議があるとか言っていっつも誰もない。これもまぁ慣れたものだ。
私はいつものようにカウンターに食器を置いた。そして、再び病室に向かって進み出した。
「白夜さん?」
誰かが私を呼ぶ声がした。
「え。」
そこには、寝癖がついた先生がいた。
「先生。」
「なにやってんのこんなところで。」
そう言ってこちらに歩いて近づいてきた。
「あ、食器を返しに来たところです。先生こそなんでここに?」
「佐野さんたちが会議だって言うから、見回りに来たんだ。」
「そうですか。」
私は先生を見上げた。毎朝毎朝目を見て話しているはずなのに、なんだか今は複雑な気持ちになる。
「体調は。」
「平気です。」
「そっか。よしっ、病室まで押して行こうか。」
そう言って先生は私の後ろに回って車椅子を押し出した。小林とは違って、私は一度では否定的にはならなかった。安心して背中を預けることができた。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。ゴホッ、ゴホッ。ごめんごめん。」
先生は咳き込んだ。
『喉頭ガン、っていう喉にできる癌の一種なんだ。』
私は、小林の言っていることを思い出した。彼が本当のことを言ったかなんて、本人に聞かなきゃ分からない。
しかし思い返してみれば、先生は話の終わりに必ずと言っていいほど咳をしていた。
点と点が繋がるってのは、こういうことだったのか。なんだか、初めて感じた感情だな。
「なんか寒くない?」
「もうすぐ、冬なので。」
「ははっ、当たり前のことか。」
暗い廊下を二人で歩くのは、いつぶりのことだろうか。
私は今となっては、歩ける状態じゃない。医者が患者の車椅子を押す、この光景はどこの病院でも見れる景色だ。
でも、中身を見てみれば、そうでもない。
私は先生のことが好き。
「先生は冬と夏、どっちが好きですか?」
「俺はね〜、夏!」
「えぇ〜!なんで!絶対冬の方がいいでしょ。汗かかないし。」
「冬は仕事に行くのがめんどうだからっ!」
「なにその理由ー。」
なんかもう、考えるのはやめよ。
ガラガラガラ
「止まりまーす。こちらで、間違いないでしょうか。」
「はいっ!ここまで、ありがとうございます。」
私は先生にお礼を言った。先生はニコッと笑い、私のひたいにデコピンをした。
「いって!ちょっと、何するんですか!」
私も立ち上がって、先生の額にデコピンをした。互いに何度もデコピンをしあった。
私は先生に釣られて笑った。先生も同時に笑った。特に面白いことがあったわけでもないのに、特に面白い話をしたわけでもないのに、二人でいるだけで笑顔で満ちてしまう。
「はいはいお終い!もう夜遅いんだから、寝なさい。」
しばらくして先生は、私のことをベッドまで誘導した。
「それじゃ、おやすみ。」
そう言いながら私の頭を優しく撫でた。私は目を瞑り、先生が病室から出ていくのを見届けた。
徐々に遠くなる先生。
私は車椅子を進めて、先生の後を追った。
「先生。」
先生が戻ってしまう時の喪失感は、きっと私にしか分からない。
「どうした?ちょちょちょ。」
私は先生の袖を掴みながら立ち上がった。先生は私の方を見て慌てた様子で腕を掴んできた。
「危ないでしょ、むやみに立ち上がったら。」
私は、先生の言うことなんて無視した。
そして、そっと先生の腰に手を回した。
今はただ、先生と一緒にいたかった。
「空音?」
「…..ずっと抱きついてるって言ったら、嫌ですか?」
こんなことするなんて、自分でも馬鹿馬鹿しいと思ってる。
「ぜんっぜん。」
先生は私を強く抱きしめ返した。
先生の力は段々と強さを増していく。
この瞬間だけでも、お互いの恐怖なんて忘れられた。足に力が入らなくて倒れそうになっても、先生のおかげで立っていられた。
明日も、安心して目覚めますように———
「空音。俺、今日の夜いないから何かあったら佐野さんに言ってね。」
「分かりました。」
空音は少し寂しげな表情をした。俺は空音の頭を撫でて部屋を出た。
早歩きで悠二のいる耳鼻咽喉科へと向かった。
ピンポーン
そのままの足で一階に降りて、診察室へと急いだ。
ガチャ!
「ごめん、遅れた。」
「おーい!ちょっと遅刻!」
俺は謝りながら席についた。
「次はねぇからなー。」
俺は慣れたように口を開けた。
「うん、大丈夫。こっちで手術の準備始めてるから。」
「ありがとう。」
「ま、そんな落ち込むなって!今日はパァーッと飲もうや!」
今日は悠二と久しぶりに飲みに行く日だ。俺は、今日という日が楽しみで仕方なかった。
「着替えたらラウンジ集合で!」
そう言って悠二は荷物を片付けて部屋を出た。俺もそれについていくように更衣室に向かった。
キキィ
「今日は俺が予約したところなんだー。マジで楽しみにしておけよ!」
「はいはい。」
いつもは入り浸っている居酒屋に行く予定が、今日は臨時休業してしまったらしい。そこで、悠二がレクチャーしてくれた所に行く。
「先降りて行っててくれ。小林の名義だから。」
「はーい。」
俺は車から降りて店の中に入った。そこまで大きな店舗ではないが、入った瞬間に人の気配がドッと増した。
「こんばんはー!何名様ですか?」
「予約した小林です。」
「はい!こちらのお席へどうぞ!」
俺は案内された席に座った。メニューを見ていると、お会計所から大きな声がした。
「悠二さん?!」
「あれ?葉那ちゃん?驚いたなー!」
そこには、対応してくれたお店の子と悠二が親しげに話していた。
「涼涼!空音ちゃんのお友達の葉那ちゃん!」
「俺は、初めましてだなー。」
空音の友達なんて初めて会った。
「こちらの席にお座りください!」
「どーも。葉那ちゃんはここでバイトしてるの?」
悠二は馴れ馴れしく名前を呼んだ。
「いや、ここ、私の家で。」
「そうなんだー!通りで女将さんと良さげだったから!」
葉那という女の子は耳を赤らめながら悠二と話している。これは、まさか?んなわないか。
「ハイボールと枝豆お待ちいたします!」
彼女はスタスタと歩いて厨房に行った。
「空音ちゃんとは真逆の子だねー。」
「うん。」
彼女は少しばかりの汗を流しながら悠二の元にハイボールを運んできた。




