8ハグの理由
「空音ちゃ〜ん。おはよう〜。」
「ん〜……。」
佐野さんの挨拶で目が覚めた。私はベッドの上で伸びをした。
「もうすぐ先生来るよ〜。」
佐野さんは病室の窓を半分まで開けてくれた。そこから入ってくる秋風が四季を感じさせられた。
「今日は空気が冷たいね〜。もうすぐ冬かな。」
「まだ早いんじゃなぁ〜い。」
私は大きな欠伸をしながら洗面台に向かった。冷たい冷水で顔を洗った。一日のうち、この時間が最も辛いと言っても過言ではなかった。しばらく水を出していればいずれお湯になるが、水道代を節約するために冷水で耐えている。
洗面台用のスリッパから室内用のサンダルに履き替えた。厚底の白いサンダルだった。
「よく寝れた?」
佐野さんはカルテ見ながら話しかけてきた。首だけで頷こうとしてもきっと気づいてくれないだろう。私はうん、と言った。
そして、テレビのリモコンを手に取りテレビをつけた。しばらくして画面が点灯した。
『日本海にかけて、雷雨になるでしょう--------』
ニュースキャスターがいつも通り天気を伝えていた。宮古島では一日晴れが続くだとか。
「今日って暑いんだ〜。調子乗って上着とか持ってきちゃったよ。」
いつの間にか横の佐野さんが立っていた。私は少し心臓がドキッとした。
コンコンコン
「おはようございまーす。」
二人で並んでテレビを見ていると、白衣を着た先生が入ってきた。
「診察の準備できてますか?」
「はい!」
佐野さんは悪い姿勢を正して急いで先生の元に向かった。私は気にせずテレビを見続けた。
『今日はこちら!秋味覚!柿を頂こうと思います!』
テレビ越しに映る柿を見て、私はヨダレが出そうになった。柿は私が一番好きなフルーツだからだ。
「空音ちゃ〜ん。検診するよ。」
「あ、はい。」
私はテレビを消して早歩きでベッドに向かった。ふかふかの純白色のシーツに座った。体が少し沈み気持ちよさを覚える。
「心音聞くね。」
パイプ椅子に座った先生がこちらに近づいた。そして聴診器を首から外して耳につけながら私の心音を聞いた。
トクン、トクン
「うん。今日も大丈夫。」
先生は十八番セリフを言った。彼にとっては普通のことなんだろうけど、私にとっては命を繋ぐ大事な言葉だった。
「何かあったら呼んでね。」
これも最近追加された十八番セリフである。
「朝ごはん持ってくるね。」
続いて佐野さんが顔を近づけて言った。私は頷いてお礼を言った。
二人揃って歩幅を合わせて歩いて行った。
扉が閉まり部屋には鳥の鳴き声と孤独感だけが広がった。
ピピピ———
小鳥たちも誰もいない病室の光景に見飽きたのか、二匹揃って飛び立ってしまった。
私はベッドから立ち上がり、窓際に手を置いて空を見上げてみた。
綿飴みたいな雲が一つ二つ、無造作に並んでいた。街を見れば車がいくつも走っていた。目が悪くても見える道路を渡る人々。鼻をくすぐるような酸っぱい潮の匂い。
私の生まれ育った故郷には、美しい人間の世界で満ちていた。
コンコンコン
「空音ちゃ〜ん。朝食持ってきましたよ〜。」
しばらくして佐野さんが食事をのせたおぼんを持ってきた。
「ありがとうございます。」
私は視線の先を海から室内に変えた。
美味しそうな朝食が机の上に置いてあった。
「今日はこっちで食べる?」
「ソファで食べます。」
彼女はおっけーと言いながら食事の位置を移動した。
私はお礼をしながら窓を少し閉めてソファに腰掛けた。
「今日はね、スペシャルメニューってことで、甘さ控えめのパンケーキだよ。タンパク質がたくさん入ってるから食べてね!」
「へぇ〜。いただきます。」
「食器はそのままでいいからね。何かあったら呼んでくださーい!」
今日の佐野さんはやけにテンションが高かった。いつも高いのは大前提として、それを上回るほどだった。
私はそんな彼女をみて、心がフッと軽くなった。
「いただきます。」
一人フォークとナイフを待ってパンケーキに切れ込みを入れる。久しぶりにフォークを使ったからか、使い方を忘れてしまった。下手くそに切れたパンケーキを見て、さらに虚しい空気が増していく。
左耳に微かに波の音が聞こえた。ザーッと、そこまで派手に立っている波ではないと思う。
私は小さい頃から波の音を聞いている。慣れているって言い方はなんだか変だけど、海の気配を自分で感じ取れるようになっていた。
♢
「ごちそうさま。」
手と手を合わせて食事を終えた。
立ち上がっておぼんを待って外に出ようとした。
ガチャガチャ!!
「あーあ。」
おとなしい海とは違い、病室には大きな音を立てておぼんを落とした。
幸い、皿は割れなかった。
私はしゃがんで落ちた皿を拾った。それを近くの荷台に置いて一つずつ丁寧に拾った。
その間に、ポトン、ポトンと涙が頬を濡らした。
「はぁ。なんでかなぁ。」
こんなおぼん、走ってでも運べる。
いつからかな、力が急激に入らなくなったのは。
意識を失った時からそうだ。いつの間にか当たり前のように車椅子生活になっていた。
悔しい。
自分の体を殴りたい。咄嗟にそう思った。
「クソっ、クソ!クソ!なんでだよっ......!」
もう、全てがどうでもよくなった。
私は皿を拾うのをやめて手のひらを身体中に当てつけた。
パチンパチンと傷ましい音が室内に響いた。
♢
「はぁ、はぁ!もうっ———。」
しばらくして自分の手を止めた。
腕や足に目を向けた。爪で切れた痕や、真っ赤に膨れ上がった内出血が酷く目立った。
こんなことしたの、人生で初めてだった。
私は這いつくばりながら洗面台に向かった。途中で立ち上がり、手すりを使って片足を引きずりながら歩いた。
「うそ.....。」
言葉を失った。痩せ細り、ミイラに変異しかけていた顔面は、今度は人殺しのピエロのようになっていた。
私は息を荒げた。
こんなの私じゃない。顔がこんな傷だらけになるなんて絶対にない。洗面台の洗い場に手を寄りかけてその場にしゃがんだ。
「ひっ、ひっ……」
私はまるで赤子のように泣いた。何もかもが辛くて、見るもの全てが敵に見えた。全員が私を睨んでいるような気がした。
“20歳まで生きられない”
この言葉が何度も頭をよぎる。放心状態のまま動かなくなった父親の横で、私は自分事だとすぐには捉えられなかった。
父親の温かい手のひら、ブサイクに笑う葉那、3食の食事を欠かさず持ってきてくれる佐野さん、いつも気にかけてくれる古都波ちゃん、同じ病気を患っている山おじちゃん、静かに心音を聞く先生……
どうせ死ぬというのに、私のために尽くしてくれる人たちはこんなにいる。
彼らに最高の恩返しをするためにも、私は生きなくてはいけない。それが、生かされた意味なのだということ。
「はぁ。」
「空音ちゃん?!」
しばらく洗面台に座り込んでいると、食器を回収しにきた佐野さんがやってきた。
普段だったらサッとおぼんを回収してナースカウンターに戻るけど、扉の前にいくつか拾い損ねた食器があることに不信感を抱いたという。部屋の至る所を見てみると、洗面台に私がいた、という流れだった。
佐野さんは私の肩を持って体を持ち上げた。自分でも思う、私の体は軽く感じた。
「そこ座ってて。」
彼女はベッドを指差して私を座らせた。私は言われるがままにベッドに座った。
「ごめんなさい。」
「謝らないで。」
佐野さんは小走りで縦に長い棚に向かい中から救急箱を取り出した。
佐野さんが救急箱を探している間に、私はゆっくりと怪我した箇所を触った。
「いたっ。」
指先に少し血がついた。すると、佐野さんがいつもの心配声で横に座った。
「触らないでね。ちょっとヒリっとするけど我慢してくれ。」
フカフカのベッドがさらに沈んだ。佐野さんは消毒液をティッシュにつけて私の額に当てた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
「なんで謝ってるの?」
佐野さんは当たり前ですよ?みたいな表情で言った。
私は彼女の顔と口調の対応に困った。
「可愛いお顔に傷なんてつけたら後悔するよ。今はこんなことするより他にやることあるんじゃない?」
佐野さんは決して動じずに冷静に対応してくれた。
なぜ彼女がこんなにも冷静なのか、それは、過去に一度同じようなことが起きたからだ。
表向きには明るく一生懸命なところを見せようと意識しているが、いつまでもそれが続く訳ではなかった。いつ自分が壊れる限界を知らないから、どうしても体に当たってしまう。そうすることによって自身に対する嫌悪感をかき消していた。
「絆創膏何箇所か貼っておいたから剥がさないようにね。」
「.....ありがとうございます。」
彼女も何を話せばいいのか戸惑っている様子だった。そのまま何も言わずに救急箱を元の位置に戻して部屋を後にした。
私は少し放心状態になった。
窓を見つめてみる。葉が落ちてきて枯れていた。なんの前触れもなくただ静かに一人で地面に向かって飛んだ。
比較するように、私も自分の体に目を向けた。痛ましい怪我が目に焼きつく。
私は目を逸らして別のことを考えようとした。
そうだ。まだ漫画の続きを書いていなかったんだ。棚から必要最低限のペンと紙を持って膝の上に置いた。
ベッドから立ち上がり、入り口の目の前に止めてある車椅子に乗った。両サイドにある安全装置を外して進める状態にした。そして部屋の電気を消して扉から部屋を出た。
扉を最後まで閉めて、廊下を進んだ。進むごとに聞こえてくる暖かい声に吸い込まれていく。こんなにも美しい廊下はこの世に存在しないだろう。
「おぉ〜!空音ちゃん!元気かい?」
「あ、山おじちゃん。」
中央広場の手前の部屋から、同じ病棟に入院している山おじちゃんに出会した。
「お身体平気ですか?」
私が尋ねると、彼は何かを思い出したようなリアクションをした。
「そうじゃ、そうじゃ!君に渡したい物があってのぉ。ちょっと待っててくれ。」
山おじちゃんはそう言いながら病室に戻って行った。
私は何事かと思い、少しだけ中を覗いてみた。そこには、棚の中のものを全て出して何かを探している山おじちゃんがいた。ガチャガチャと音を立てて出した物が地面に転がっていた。その姿はどこか楽しく、ワクワクしているように見えた。
「おぉー!あったあった!」
山おじちゃんは小走りでこちらに向かってきた。年寄りにしては早く走ってきたため、私は車椅子を後退させた。
「これを、あんたにあげたくてね。」
そう言いながら私の手を握り何かを渡した。
「何かあったらそれを見て元気を出しておくれ!」
「これって……」
私の手のひらには、かなり古い黄色の“健康お守り”と書かれたお守りがそっと置かれた。
私は山おじちゃんの方を見上げた。
「なんで私にこんなものを?」
「君は若くてまだまだ先のある人じゃからな。諦めずに、もがいて生きるんじゃぞ?わしはもう長くないからのぉ。君みたいな人を見ると、元気づけられるんじゃ。」
「元気づけられるって、私も長くないよ?山おじちゃんより先に死んじゃうかも、な〜んて。」
「なっ!何を言ってるんじゃ!そんなこと言うのではない!」
「冗談!ごめんって。」
「まぁよい。これからも元気で頑張るんよ。あと、わしのことをたまに思い出してくれのぉ?」
「うん!もちろん!」
今日の山おじちゃんは、いつもと変わらない杖を持って特に変わった様子はなかった。断るわけにもいかず、快く受け取った。
「ありがとうございます。貰っておきます。」
私はぺこりとお辞儀をして車椅子を押し出して中庭に向かおうとした。
「気をつけてなぁ!」
後ろから声がした。振り返ると、シワだらけの手を上げて手を振っていた。私も手を振り返した。山おじちゃんの笑顔に釣られて、私の口角も自然と上がった。背中で彼の家庭的な温もりを感じながらエレベーターに向かった。
エレベーターを降りて中庭に続く裏口についた。少し腰を浮かせてドアノブに手を伸ばした。
ガチャン
昼近くだったこともあり、人はほとんどいなかった。
大きな木が一番見えるベンチに近づき、座ろうとした。いつものベンチに、って今日はいつものベンチには座れないな。諦めてベンチ横に車椅子を固定して、ベンチの上にいつもの紙とペンを置いた。
「よいしょっと。」
今日はどんなことを描こうかな。
父親について?葉那について?先生について?お題がたくさんあって嬉しいな。
そうだ。さっき話した山おじちゃんを描こう。
私はペンを持って山おじちゃんの輪郭を描き始めた。年寄りにしてはしっかりとした輪郭をしていた。絵を描く立場からしたら非常に楽しい顔立ちであった。
づき、座ろうとした。いつものベンチに、って今日はいつものベンチには座れないな。諦めてベンチ横に車椅子を固定して、ベンチの上にいつもの紙とペンを置いた。
山おじちゃんが健康になって退院する話を書こう。
彼は腰が曲がり車椅子に乗った私と変わらない視線だった。そんな彼も背筋が伸びて杖が不必要になる。スーツを着こなしてバリバリ働く社員を描いた。
中庭のこの定位置に来れば作画がスラスラと思いつく。なんだか母親に喋りかけられてる気がするんだよね。
彼女とは会ったことないし、姿も顔立ちも覚えていない。でも、声でけは覚えていた。強気の中にある赤子を包み込んでしまうような優しい声を。
『空音ちゃん〜?かわいいね〜。お父さん!そこのカメラで空音ちゃん撮って!早く早く!』
彼女は柔らかい手で私の頬を撫でた。かわいね、かわいねと何度も言いながら。
「あれ?」
自然と自分の頬に手を伸ばしており、指の先には涙で濡れていた。急いで袖で熱くなった目頭を拭いた。
「もう....よしっ!」
ついでに両手で両頬を叩いた。母親のところへはすぐに行ける。今は目の前のことに集中しよう。
気を取り直してペンを持ち設定を考えた。
あまり考えたことなかったけど、山おじちゃんの夢って、何だったんだろう。若い頃の夢とか、もちろん今叶えたい夢でもいい。今度聞いてみよう。
ちょうど木陰に隠れて枝木の隙間から入る風が冷たくて気持ちいい。厳しい暑さも終わり冬に差し掛かろうとしていた。
順調に漫画を描き進めていると、後ろから肩をフワッと叩かれた。
「やっほー。」
「先生。また来たんですか?」
「な〜にその言い方。」
背後から近づく先生に気づかず、膝の上に開いていた漫画を不自然に隠した。先生は何も言わないまま純白の白衣をちらつかせながら横に座った。
「外は気持ちいいでしょう。暑さも和らいだし。」
「そうですね。ずっと外にいたいです。はっくしょん!」
私は盛大なくしゃみをかました。先生はクスッと笑いため息をついた。
「大きなくしゃみだね〜。でも、確かに今日は少し肌寒いね。」
「気温が昨日よりグッと下がったので。」
先生はそっか、と言い腕を組んで空を見上げた。静かに横顔を見ると、いつもと変わらない綺麗な美貌が目立っていた。
「体調は?」
彼は空を見上げたまま私の状態を聞いてきた。私は大丈夫と返事をした。
「今日はいつまでここにいる感じ?」
「お昼ご飯の時には戻ろうかと。先生はお仕事ですか?」
「今日はね、午後まで診察がないんだ〜。久しぶりにゆっくりできるからラッキー。」
「よかったですね。」
会話の合間に何度か目が合いその度に逸らしてしまう。先生とは必ず毎日話さなくてはいけないから慣れると思っていた。が、そんなことはなかった。
“好きな人”と話すということは何年経とうが緊張がつきものだと理解した。
「もうそろそろお昼だけど、戻る?」
「もうそんな時間?」
「うん。ほら。」
先生はそう言いながら腕時計をこちらに見せてきた。血筋がはっきりと通る剛腕な腕にすら見惚れてしまう。
「それじゃ、戻ります。」
「おっけー。俺が押してくよ。」
「ありがとうございます。」
先生は慣れた手つきで車椅子の安全装置を外し、裏口に向かって押し出した。膝の上に広がっていた漫画をポケットにしまった。グチャグチャになってしまうがそんなことどうでもいい。
「揺れるよ。」
先生は段差のあるところで車椅子を持ち上げ越した。
室内に入った瞬間空気の澄んだ自然とはまた違う気持ちよさが感じられる。
受付がある1階では診察待ちをしているたくさんの人で賑わっていた。賑わっているという表現の仕方があっているのかが分からないが。
「体調は?」
「大丈夫です。」
先生に車椅子を押してもらっているこの状況。嫌とは感じはなかった。むしろ背中で安心感を感じられた。
エレベーターに乗り込み扉が閉まり徐々に人々が細長くなっていくのを見届けた。
中には私たち含め五人が乗っていた。医者二人と看護師が一人。患者の治療に関する話をしていた。もう何度も顔を見たことある三人だった。
ピンポーン
扉が開き、一人の看護師が扉を押さえててくれた。私と先生は同時にお辞儀をして少し早押しで中から外に出た。
少し進んで吹き抜けになっている広場に流れ着いた。いつもより人の数は少なかった。壁掛け時計の時間が12時過ぎを指しているからみんな昼食のために部屋に戻ったのだろう。
閑静な廊下を進み病室の前まで来た。先生は廊下に比例するように静かに扉を開けた。
「揺れるよ。」
段差を少しの揺れも感じさせない。プロの仕業であった。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。もうすぐでお昼来ると思うから。何かあったら呼んでね。あと、無理しちゃダメだよ。」
先生はそう言いながらおでこにデコピンをしてきた。
「いたっ!もう〜何するんですか!」
「べっつに〜。それじゃ失礼しますね〜。」
先生は軽々とジャンプをしながら部屋を出た。入る時とは違い大きな音を立てて扉を開け閉めした。その場に浸ると周りが見えなくなってしまう。傍若無人とはこのことだろう。
コンコンコン
「空音ちゃ〜ん、お昼持ってきたよ。」
入れ違いで佐野さんが入ってきた。おぼんの上にはオムライスがあった。
私は美味しそう〜と呟きながら佐野さんと雑談をした。
♢
「ごちそうさまでした。」
約40分でお昼ご飯をたいらげた。今日は食欲もあるし、体もそこまで重くない。徐々に良くなっている気がする。そんなわけないけどね。
私はお皿の乗ったおぼんを膝の上に移動させて車椅子を押し出した。不安定な膝の上で何度も落ちそうになったが、なんとか持ち堪えた。
廊下に出てナースカウンターに向かっていると、ある部屋を数人の看護師が激しく出入りしていた。
何かあったのかな?
私は部屋を横切るついでに出入りが激しい部屋を見た。そこは、ついさっき話した山おじちゃんの部屋だった。
私はその場に立ち止まり、好奇心に駆られてさらに部屋の中を見た。
ちょうど部屋から出てきた一人の看護師さんに状況を尋ねた。
「あ、あの‥‥」
「空音ちゃん。そのおぼんナースカウンターに戻しといてくれない?今ちょっと立て込んでて。」
彼女は山おじちゃんの担当の看護師だった。年老いているけど見た目がものすごく若く見えるで有名だった。
「山おじちゃん、どうかしたんですか?」
私は病室に進んでいく担当の看護師に向かって言った。しかし彼女は無視をしたままこちらを振り向かずに扉を閉めた。
人当たりが優しい彼女が、今日はやけに目の下にクマを作り忙しく動いていた。
私は不信感に襲われながらも言われた通りおぼんをナースカウンターに返した。そこには誰もいなかった。全員が山おじちゃんの部屋に集中していた。佐野さんですら、いなかった。
自分の部屋に戻ろうと考えたが、もう一度山おじちゃんの部屋の前を通らなければならない。人通りが多い道を通ることは好んでいなかったため、何も持っていない手ぶらのままで大きな窓がある広場に向かおうと考えた。
車椅子を押す手に力を込めて広場に向かった。同じ階に住むシニア患者が2人、3人いた。一人は窓の外の写真をデジタルカメラで撮っていた。もう二人は多分、孫だろうか、小さな子供たちとおしゃべりをしていた。
なんだか場違い感があった。それでもエレベーターを使ってどこかに行く気力はない。仕方なく広場の端の方に行き車椅子に安全装置をかけた。
「おばあちゃんいつお家これるの!」
「おばあちゃんはもうすぐでお家に行けるよ。」
小さな子供は両手をあげて喜んだ。二人とも同じようにくしゃっと目を瞑り笑い合っていた。その瞬間に心が強く引き締められた。
私は彼女たちを見ていられず、向きを変えて窓の外を見た。
大きく広がる青空に、雲ひとつない。今日は一日中晴れだと言っていた。
ここは、先生と花火を見た場所。人生で見たことのないボリュームのある花火だった。暗い空に色とりどりの花火が散り咲き、悲しいくらいに消える。まるで何もなかったかのように。
その瞬間を、先生と見ることができて、きっと私は全ての運を使い切った。今でも頭の中で花火のようにパッとその光景が思い浮かぶ。
私は膝に添えていた手のひらを、空に向かって掲げた。5本の指の間に隙間なく青空が描かれた。
「はぁ。」
私は苦笑いを浮かべながら手を下ろした。
先生も、空を見るのが好きだと呟いていた。私も同じように空を見上げて好きになれるのかな。
「白夜さん?」
後ろから声をかけられた。そこには山おじちゃんの担当看護師が立ち尽くしていた。
「なんですか?」
尋ねてもすぐには返事はなかった。彼女は私を見るなり目元に涙の雫を浮かべていた。
「先ほど、山本さんが......」
全てを察した。私は彼女を見上げながら開いた口が閉じなかった。
「山おじさんはいまどこに?」
「自室にいます。」
「わざわざ、ありがとうございます。」
私はお礼をして車椅子を動かし来た道を戻った。
夢、なんてもう言えない。いつか起こりうることだって知ってた。
自力で山おじちゃんの部屋の前まで来た。扉は閉められており、中は見えなくなっていた。木製で作られた艶のある扉に触れるのが怖かった。ここで開けたら、全てを理解しなければならなくなる。そんなこと、絶対にしたくない。
私は部屋の前から立ち去ろうとした。
ガチャ
その時、病室の扉が優しく開く音がした。私はクルッと振り返りその主を見た。
そこには、見たことのない老婆がいた。腰をひん曲げて山おじちゃんと同じように杖をついていた。
「あら、お若い子ね。こんにちわ。」
彼女は品のあるお辞儀をしてこちらに近づいてきた。私は思わず身構えてしまい手がカタカタと震えだした。老婆は目の前でピタリと止まり動きを止めた。
「あなた、もしかしてそらねちゃん?」
「え。」
「もしかして、ごめんなさいね。人違いだったかしら。」
彼女は再び頭を下げた。その瞬間にふわっと優しいカーネーションの匂いがした。そして後ろを振り返りその場から離れようとした。
「あの!」
心のもどかしさが体を動かす原動力となった。離れてどこかに行ってしまいそうな彼女の背中に声をかけた。ゆっくりと振り向き、首を傾げた。
「私、空音です。」
「.....あなたが、そらねちゃんなの?」
私はゆっくりと頷いた。
老婆は目の奥に悲しさを残したまま笑顔で近づき一言添えた。
「実はね、たった今、うちの旦那が亡くなったの。」
「......そう、だったんですね。」
老婆は少し間を置いてからため息をついた。
「会っていってくれるかな?あの人、ずっとあなたの話してたからさ。」
「私のことを?」
「うん。ここじゃなんだから、部屋の中、どうぞ。」
頬からつたる涙を必死に押さえ込んで笑顔を浮かべた。そして話している老婆は山おじちゃんの奥さんだった。年相応の顔立ちをしている。そして、彼と同じように杖を持っていた。
「部屋に、あの人もいるから。」
奥さんはそう言いながら私を部屋に案内した。車椅子に力を入れてズカズカと中に入った。古都波ちゃんや私とはまた違う部屋の匂いがした。なんだか来たことのあるような親近感。私の肌はすぐにその匂いを記憶した。
「失礼します。」
自分の中では珍しく品のある言葉を発したと思う。心臓の鼓動がますます早くなる。私は車椅子の動きを止め、入口の方を見た。
「.....そらねちゃん?少しでもいいから、この人に会ってくれない?
彼女は頼み事をしているとは思えない声で私の視線を変えてきた。自然と山おじちゃんの方を見た。
「えっ.....あ....」
車椅子を進めようとした手が肩と一緒に小刻みに揺れた。もう、分かっている。ここまできたらこれからなにが起こるかなんて。
二歩三歩先に奥さんが立っていた。
「あなた。空音ちゃん来たわよ。」
彼女はベッドに向かって声をかけた。恐る恐るベッドのそばに近寄る。
「うそ....でしょ....」
そこには、ひんやりと冷たくなり肌が少し変色し黄ばんだ山おじちゃんが寝転んでいた。目を瞑り、いつもと変わらない山おじちゃんがいた。今にも起き上がりおはよう!といつものように言ってきそうだった。
私はさらに近づき彼の顔を覗き込んだ。
「やま、おじちゃん?ねぇ、返事してよ.....」
視界が徐々にぼやけてきた。手の甲で頬に触れるとじんわりと水滴が染み込んできた。
「うそだって言ってよ....ねぇ?山おじちゃん?」
何度も何度も話しかけても答えが返ってくることはなかった。
♢
「はいどうぞ。」
「ありがとうございます。すみません。」
「いいのいいの。私が来てって言ったからね。」
机上の上に出されたおしゃれなマグカップに入っている紅茶を口に運んだ。
私の様子を悟ってくれた奥さんが、中央広場に行こうと提案してくれた。あの部屋にいてもまともに会話ができる状態じゃなかったからだ。
「.....実はね、伝えておきたいことがあって。」
同じく隣で紅茶を飲みながら彼女は話し始めた。大きな窓に広がる大空を見上げながら。彼女の話し方に思わず息を呑んだ。貫禄がありながらも中に優しさが潜んでる声。母親にそっくりだった。
「今日でちょうど8年前になるのかしらね。うちの一人孫だった子が、交通事故で亡くなったの。」
私は目を丸くして頷いた。
「その時から徐々にあの人の認知症が始まって。最後には私が誰かすらも怪しくなってきたの。認知症になって数年、末期の心臓病が分かって、ここに入院した。それからはゆっくり、彼のペースで生活をしてきた。けれどある日、あの人の態度が一変したの。それが今年の4月。今でも鮮明に覚えてるわ。」
「態度って、どんなふうに。」
「孫がいたときのように、自然な笑顔が増えた。」
奥さんは空を見上げたまま息苦しく話した。今にも泣きそうな声に、胸が熱くなる。
「あの人がある日、孫のことを話すようになった。孫が好んでた卵寿司を食べたいと言ったり、いつも一緒に行ってた公園に行こうとしたり。もうすでに亡くなってるのにね。」
不自然な笑みを浮かべながら杖を雑に叩いた。私は止めようと手を差し伸べたが、彼女は落ち着かなかった。
「もう何が何だか分からなくなっちゃってね。余生も少ないというのにしばらく距離を置いた時期があったの。半生を共に過ごした妻が消えた時すら、孫のことを話していたらしくてね。担当の看護師さんに尋ねてみると、まさかの答えが返ってきて。」
その一言の後に彼女はこちらをチラッと見た。距離を置いたと言ったのに目には涙を浮かべていた。何粒かがこぼれ落ちた。
心の奥に秘めていたある一つの疑念が、本当に起こるかもしれないと確信した。
「看護師さんは、あなたと話しているとこしか見たことないって言うのよ。」
「そうだったんですね。」
山おじちゃんは、私と出会った時からずっと、認知症だったんだ。私のことを孫だと勘違いして会話を交わしていた。
「看護師さんもお医者様も、認知症が完全に体に浸透してますねと言っていたものだから、そうだと思ったのよ。だからどうしても最後にあなたに会ってみたくて話しかけたの。」
私は首を横に振った。そして、ポケットから彼からもらった黄色のお守りを取り出した。
「余計な迷惑ごめんね。」
「え。」
彼女は笑いながらその場を立った。私は急いでお守りをポケットに戻した。初動的に動かしたその手も自然と膝の上に戻していた。
「また、どこかで出会えたら。どうかお元気で。」
「ちよっと待って。」
呼び止めても彼女は振り返ることはなかった。ここまで余韻を残して去っていく人間を見たことがなかった。みんな私を見るなり何か言い捨てて二度と会わなくなる。それが普通だった。
しかし彼女は違った。私と会うのもこれで最初で最後のはずなのに、全てを知っているかのように。
名前も知らない奥さんの背中を見届けた後、車椅子を進めて部屋に戻ろうとした。涙は怖いほど消え去っていた。
「空音?」
すると、後ろから名前を呼ぶ声がした。勢いよく振り返るとそこにはボサボサの髪型をした先生がいた。いつもと同じ箇所がくるんと癖がついていた。
「せんせい....」
先生はポケットに手を入れたままゆっくりと歩いてきた。
「なにしてんの?」
「あ、いや、友達と話してて。」
「そっか...」
「えっ。」
突然先生の指先がこちらに伸びてきた。私の瞼の下を丁寧に撫でるようにした。
「大丈夫?何かあった?」
「ちょっと何するんです.....」
彼の手を退けようとした時、頬なったら涙の量に驚いた。自分が思っていた以上に溢れ出ていた。
「えうそなんで。」
私は急いで袖で擦った。ごめんなさいと何度も謝りながら、先生の顔を見れないでいた。
何の涙なの?なんで私は泣いているの?自分の感情管理は自分が一番分かってると思ってた。
「違うところ行く?ここだと人の気配が多いから。」私はコクンと頷いた。先生は眉を寄せながら丁寧に笑い後ろに回って車椅子を押してくれた。
♢
「すみません。こんなところまで。」
私がたくさん泣いた後、少し落ち着いたところで先生が人気の少ないところまで連れて行ってくれた。隣には内科、外科と書かれた倉庫のような部屋があった。
「落ち着いてから部屋戻ればいいよ。佐野ちゃんも今日はしばらくミーティングだから。」
先生は優しい声で近くのソファに座った。いつもと変わらない顔が、そこにはあった。
「先生。」
「ん?」
耐えきれなくなり声をかける。背もたれに寄りかかり満更でもない顔をしていた。
「私、もう少し長く生きられないでしょうか。」
震える声で呟いた。その瞬間、先生は細めながらこちらを向いた。
「実は、山本さんが亡くなってからまだ一日も経ってないけど、もう、怖くて怖くて仕方ないんです。」
「空音?」
「明日には目を覚まさないかもしれないって、死んでるかもって思うと怖くて寝れないんです。」
意味のわからない涙が顔全体を覆った。先生と二人きりになった瞬間に肩の力が抜けて全てが出た。
「なんで私は死ななきゃいけないんですか?!私は、死にたいだなんて思ってないっ。生きたくて、生きたくて生きたくて仕方がないんです。」
手の甲を使い頬を拭った。その手はじきに頭部の方は移動した。
「おい!」
私は髪の毛を引っ張りながら掻き回した。もう髪の毛なんて気にしていられなかった。
「そらね!」
先生は私の腕を引っ張り体に抱き寄せた。私と先生の体はゼロ距離になり、車椅子が大きな音を立てた。
「せ、せんせい?」
「女がそんなことすんじゃねぇよ。」
先生は珍しく低い声を出した。そして、私の腕を握りながら触ってない方の手で優しく頭を撫でた。
「あ、あの、先生?」
「もうこんなこと二度とすんな。髪が痛む。」
先生は私を強く抱きしめながら呟いた。耳元で囁かれた瞬間、恥ずかしさで吹き飛ばされそうになった。
「お前は、俺が死なせない。」
私の顔は先生の胸に埋もれていた。その中で崩れ落ちながら泣いていると、先生が体を支えてくれた。
先生の手が私の体のいたるところに広がり、触れていた。
先生と触れている時だけは、生を感じた。




