12伝えたかった、たった一つのこと
「そらね?」
徐々に視界が広がっていった。シミの残る天井を見上げたまま、少しずつ首を動かした。すると、すぐそばに白衣姿の先生がいた。
「せん.....せい。」
全身に何の感覚もなかった。何も感じない。冬なのに寒いとも思わない。
この感覚は....あぁ、死ぬのかな。
しかし唯一右手だけに温もりを感じた。ほんとそこだけ、感覚があった。視線だけをそこに移すと、先生の大きな手が、ソッと重なっていた。
「空音。」
もう一度、先生は名前を呼んだ。二度でも三度でも、名前を呼んでほしい。ずっとそばで、いつまでも。
先生は立ち上がり上から私を見下ろしていた。癖のある猫背に笑みをこぼす。
加えてその大きな瞳に、圧倒されてしまった。
「あの、そんなに見つめなくても.....」
「あ、ごめん。」
そう言って先生はパイプ椅子に腰掛けた。
「先生、お仕事は大丈夫なんですか?」
「うん。」
「そうですか。」
先生は優しく微笑んだ。ずっと手を握ったまま離さないでいてくれた。両手で包み込んでくれた右手は、少し汗がじんわり滲んでいた。
今はドキドキというよりも、安心の方が勝っていた。
私も先生を見て笑った。しかし、酸素マスクが私の表情を隠していた。こんなの、邪魔でしかないよ。
私は握られていない方の手で無理やり酸素マスクを外そうとした。
「空音、外すのはまだ.....」
「もう、いいでしょ?」
酸素マスクを外すのを止めようとした先生の手は、ゆっくりと離れていった。
「せめてこれくらい外させて。」
先生は少しだけ眉を寄せながら私の頬横を撫でた。
「へへ。ありがとうございます。」
「うん。」
「そういえば先生?花火大会のこと、覚えてますか?」
先生は目を見開き、窓の外の景色を見上げた。もちろん外に花火なんてない。
「もちろん。君と見てさらに綺麗だと思ったよ。」
「先生、なんかキャラ変しました?」
「キャラ変?」
「なんだか、気持ちをよく伝えてくれるようになったっていうか。」
「そう?」
先生は大きく口を開けて笑った。私もつられて笑った。一瞬にして病室は暖かな空気に包まれた。先生はくしゃっと顔を潰して目が見えなくなるほど笑っていた。
「ん?」
私はしばらく先生を見つめた。先生は小さく反応して再び私の頬を撫でた。
「私ね、先生の笑った顔大好きなの。だから、手術終わった後もたっくさん笑ってくださいね。」
「......うん。」
宮古島の冬風が窓の隙間から入る一方、病室の空気はほんの少しだけ悪くなった。
「先生?」
会話の沈黙を切り開くように、私は先生のことを呼んだ。
「ん?」
「あの.....お医者さん、続けてくださいね。」
「え?」
困ったような顔をする先生に、私はまっすぐ目を向けて言った。
「私、先生と出会って思ったんです。お医者さんて、たくさん努力してちゃんと周りを見ているって。そんな毎日、大変に決まってるじゃないですか。」
先生は終始小さく頷きながらずっと話を聞いてくれた。
「勝手な想像だけど、今まで、たくさん挫折したと思うし、泣いたと思うんです。先生は普段泣かないからそうかは分からないですけど。」
ふと先生の方に顔を向けると、優しく微笑みながら、眉間に皺を寄せていた。
「先生は、かっこいいし優しいし診察も丁寧だし、それに、人の心を引き込む力がある。すぐに相手の懐に入れて。本当に、私の憧れの人です。」
私は恥ずかしくなり、先生から目を逸らした。しかし、先生の方から鼻をすする音が聞こえた。
「先生?」
先生は片方の手で私の手を握りながら、もう片方の手で涙を拭っていた。先生が涙を流すなんて、初めて見た。最初で最後の先生の涙。貴重なような、悲しいような。
「いや、ごめん。その.....君の言葉があまりにも素敵すぎて。」
恥ずかしそうに涙を拭う先生を見て、私は幸福感を感じずにはいられなかった。
私は小さく息を呑んで頬を緩めた。そして、ずっと前から言いたかったことを、口ずさんだ。
「.....ずっと、好きでした。出会った時から今までずっと。」
緊張はしたけれど、言葉はスラスラと出てきた。だって、ずっと心の中で貯めてたから。葉那にも言う練習をしていた。それくらい、先生に対する愛があった。
先生は、困った表情をしながら少しだけ笑った。そして私の頭を撫で始めた。
「俺も、好きだ。だから最後にもう一度だけ、君の名前を呼びたい。」
「.....はい。」
「空音。大好きだ。」
互いに手を握り合ったまま、先生の声は病室に響き渡った。
私は、目から涙が溢れた。頬に感覚はないけれど、涙が伝わるのを感じた気がした。
宮古島の風が病室のカーテンを優しく揺らした。
「今日は....かぜが、あたたかい...ですね」
もう、何も怖くないや。死ぬことなんて何も怖くない。私は、ずっとみんなことを見守っているからね。
みんな、大好きだよ.....
次から次へと海岸に寄せる波。
けれど、その間に訪れるほんの瞬き分の静けさ。
まるで空の音が止まるような沈黙の中で、少女の胸の動きもそっと止まった。
海は何も気づかぬふりで、また次の波を寄せる。
永遠に続く波の中で少女の一度きりの命が、たしかに揺れていた。




