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深い谷

「私には、この場所がふさわしいわ。」

 はけの家の庭は、木枯らしに吹かれている。いつの頃からか沙羅が纏うようになった息吹は、木枯らしが周りを吹き荒らしても沙羅の心を落ち着かせ、祈りを助ける。

 今夕も、沙羅は厚手のショールをまとい、一人、ベンチに座り込んで冬に向かう枯野の風景を見ている。台地の上から見下ろす崖の諸々の落葉は、ことごとく坂道を風に吹かれて落ちていく。かさかさっという乾いた音とともに、転がり転がされて。

 家の中はすでに暖房が準備され、家政婦が整えた食事も温めるばかりになっている。高校二年生の百合も、大学二年生の忍も、そろそろ帰宅するころ合いだった。

 

 忍が自転車の音とともに帰宅した。沙羅は居住まいを正して忍を見た。

「おかえりなさい。」

 忍は門から、庭に出ている沙羅を凝視した。

「ただいま帰りました。」

 忍の淡々とした言葉に、沙羅は目を伏せた。忍は沙羅の様子にかまわず、家の中へと入ってしまった。

 そのしばらく後だろうか、夕闇の中に自転車の前照灯を光らせた百合が、帰宅した。

「おかえりなさい。」

 暗闇から沙羅が声をかけたことに驚いた様子だった。

「え、だれ?。ああ、お母さんね。ただいま。」

 百合は、沙羅と少しばかりやり取りをした。その言葉で安心したのか、二人はそろって家の中へ入っていった。

 一九九七年の秋からはけの家に戻った沙羅は、家族とほとんど話をしない。全てを背負い込んだように無口なまま。様々なことを経て少し落ち着いた今、沙羅のすこし痩せた横顔は、アキラの見覚えのあるそれであった。

 近くの農工大に合格した忍や立川高の百合は、二年前に宇都宮から帰って、はけの家に住んでいた。しかし、帰ってきた沙羅に、以前のように接することができなかった。それは、沙羅の中に母を見出すことができないためのように思えた。また、あれほどに待ちわびていた忍たちだったが、わだかまりを持ったままでは、余り沙羅に話しかけることができなかったのかもしれなかった。それほどまでに、母と子供達ちとの間に深い谷が出来上がっていた。


 週末になると、アキラも「はけの家」に帰ってくる。今夕も、遠くからレオーネ特有の音が聞こえて来た。車庫に入れ、エンジンを止めた後の静寂の中に、カシャカシャというアキラの戸締りの音が響く。それを聞きながら、沙羅が玄関に迎えに立った。

「おかえりなさい。」

「ただいま。」

 「もう冬ね、もう木枯らしが吹き始めているものね。」

 「沙羅先輩、今日は何をみていたの?」

 「また、そんな呼び方をするの?。今日は、野川の向こうの木々の間に、珍しく、仲の良さそうな父娘親子がみえたわ。あの幼い娘さんは、お父さんに全てを委ねているのね。」


  アキラは、沙羅の心の空虚がわかったような気がした。二年もの間、アキラは、それまでの時を取り戻すように話しかけてきた。彼女には、父親が必要だ。しかし、年下のアキラには愛する妻のことを憐れに思えても、父親を知らないアキラは妻の心理的な父親にはなれ得ない。それが、沙羅を満たし得ない意味でのアキラの限界だった。

  また、アキラは沙羅を決して許し切ったわけではない。いつの頃からかアキラに纏うようになった息吹が彼に祈りを働きかけ、心を沈殿から絶えず解放し続けている。確かに権蔵の記憶が、アキラの心に鬱屈をもたらしてきた。既に権蔵がこの世にいないことは、その鬱屈を行き場のない沈殿として積層して行く。それでも、沙羅を許すことしか、アキラには道がない。

 アキラは、毎週末、これらのことを繰り返し確認してきた。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 吉祥寺駅から井の頭公園に向かう道。その右側にくすんだ緑色のショットバーがある。忍が大学の友人から教えられた店だった。そのカウンター席で、若い男がカシューナッツをつまみながら、キールを楽しんでいた。

 そこへ、セーター姿の四十前後の男と高校生の娘が声をかけてきた。アキラと百合だった。

「忍、待たせたね。」

「じゃあ、外の席へ行こう。」

 忍はアキラ達を店の外にあるテーブルへと誘った。

「今日はどうしたんだい。」

「お母さんのこと・・・。」

「なるほど。」

 アキラは薄々感じていた。忍や百合がほとんど沙羅に話しかけていないこと、会話を避けるために二人の外出が増えていること、そして、ぼんやり過ごしている沙羅の様子を。

 

「お母さんは、俺たちとほとんど話さない。会話が長続きしない。」

「そうだろうね。」

「彼女は話す気がないんだよ。そんな奴と一緒にいるなんて。俺たちの我慢は限界だ。」

「なぜ話す気がないと断言できるのかな。お母さんと話したからわかったのかい。」

「話してないよ。なかなか返事がないし……。」

「じゃあ、彼女が何を考えているのか、わかったのかい。」

「わからない。話してくれなければ分からない。」

「だから話をするのを待っている、と?。」

「そう。」

「君は、君たちは、初対面の人たちにも、そんな態度をとるかね?。」

「それは……。」

「ましてや、妻、沙羅は僕や君たちに負い目がある。」

「だから、話してくれないのがいけないんじゃ?。」

「彼女が君たちに負い目があり、君たちが話す気を示さなければ、どうやって話をしようとすればいいのかね。」

「僕たちから動くべきだっていうの?。僕らを放っておいた親に、今更話しかけるのか。そんなの無理だよ。 」

 忍は、母を理解できていなかった。百合もそうだった。

 「お父さん。母さんは、あの時僕たちを捨てたんだ。」

 「百合がそう思うのは、知っている。しかし、忍がそう思うのかね?。それとも、百合の考えを真似しているのかね?。」

  忍とアキラは、昔、百合の言った言葉を思い出していた。

( 「……だって、お母さんは帰ってこないじゃない?。もうこんなに時間が経つのに。私、お母さんがあのおじさんについて行く時、どこかへちょっと出かける感じで行っちゃったのを、見ていたの。無理矢理のようには思えなかった。それは、強制されていないのに永く帰ってこないということじゃない?。……。」)

 「いや、沙羅さんは、連れ去られた時には戻って来るつもりだった。しかし、相手の男は、昔、君たちを育て始めた時に頼りになった人だった。しかも、彼は病気に苦しんでいた。そんな人を前にして、去ることができるだろうかね。沙羅さんはできなかったのだよ。」

 

 アキラは百合を見ながら、百合の言葉を待った。百合の表情は固かった。

 「じゃあ、私たちは忘れられていたわけ?。」

「そうではないと思う。君達に、僕がいると思って、僕に任せたんだと思う。ただ、僕が継父に過ぎず、父にも母にもなれなかった。任せられたのに、君達に寂しい思いをさせ、母親の沙羅さんと君たちとを断絶させている。そんな僕が君達に、沙羅さんの孤独を理解してほしい、というのは、虫が良すぎるかもしれない。でも、それは私が悪いのであって、沙羅さんを責めることではないと思う。」

「でも、一番裏切られたのは、お父さんなのよ。それも私達を押し付けて。しかも、あの男まで引き取らせて。私たちは、あの男を、母さんを許せない。男が死んで、脱力しているなんて、ザマを見ろ、というところね。」

 冬の風が、アキラの肩を叩いていた。アキラは、目を開いた。忍と百合の目がアキラの目と合ったとき、アキラの目は遠くをそして近くを、また二人を見ているのかわからなかった。

 「たしかに、僕が一番裏切られたのだとは、思う。しかし、彼女を拒否できなかった。多分彼女を許すことしか、僕には道がない。僕は、彼女のために生きてきたんだもの。」

  冬の風が、忍や百合の肩を叩くかのように、瞬間的に強く吹き付けた。忍や百合は、思わず顔をしかめた。その時、彼等は、血の繋がっていないアキラが、どんな女性を相手にせず、ほぼ独身のような生活をしつつ、忍や百合を育て上げてきたことを思い出した。それは、仕事に向かう時のアキラのストイックな姿勢と同じ根を持っていた。アキラはポツリと言った。

 「でも、それが、君たちに寂しい思いをさせたんだね。でも、僕には、様々なものから遠ざかって生きることしか、わからなかった。愚か者だったんだ。やはり、考えが浅かったね。」

  忍たちは、恋愛を断ち、若い時を忍や百合のために捧げた継父に、これを言われると黙るしかなかった。ただ、忍は百合の気持ちも代弁しつつ、現実の状態を説明していた。

 「母さんと呼びたいけど、今のままあの人と話をしたら、僕たちは必ず彼女を詰ってしまうと思う。口をきかない方が、多分争いにはならないなあ。しかし口をきかないことも、普通ではないよね。」

  その言葉が解決策を示唆していた。しかし、それは、沙羅の罪深さを表す結果ともいえ、これからもアキラが苦しみ続けることを示唆していた。結局、その年の瀬に、沙羅はアキラとともに宇都宮へ移って行った。

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