雷雨
パパン、バーン。閃光と炸裂音。強まる雨脚。巨大な爆発が、天空から沙羅の周囲に次々と落ちる。古い木造住宅と後付けのサッシが、その度に鈍く振動する。
夕刻前に天空いっぱいに広がった黒雲。辺りに轟く雷鳴。その全てが、身動きの出来ない沙羅の上に覆いかぶさりつつあった。
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宇都宮の夏は、東京の小金井ほどは暑くはない。宇都宮では、夕刻になると田水を渡って来た風と雷さまが、涼しさをよぶ。大きく広がる平野から遥か上空へ立ち昇る大蛇竜のトグロ。その黒雲が雷様と呼ばれる所以。その轟は他の地では見られないほど、関東一帯に響き渡る巨大なものになる。
激しい雷雨の中、古い借家は、軋んで揺れていた。雨漏りも始まっている。強まる雨足は、すべての音をかき消す。目の前のサッシに、シャワーのような雨飛沫が吹き付ける。アキラは宇都宮に転勤して以来、こんな家に住み続けできたらしい。
先日アキラとふたりで通い始めた峰のお御堂でも、午後から雷雨に見舞われたことがあった。その時には、アキラは笑いながらイザヤ書を引用して沙羅を安心させた。その言葉を、沙羅は雷鳴と稲妻に震え上がりながら、すがるような気持ちで口にした。
『恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』
三度、まるで記憶がないはずの父親の声、いや、アキラに似た声が語り続けるような幻を感じた。すると、遠くで誰かが呼ぶ声がした。そんな気がした。沙羅は家の縁側で、震えて動けない。腰が抜けている。高校時代に向島のアパートで震えていたあの一夜を思い出していた。あの時、誰かに助けられた。誰だったろうか。唐変木のアキラ。危機にもかかわらず、不相応な記憶を思い出す。
しばらくすると、そとから強い雨脚の音の中にも、はっきりとした声が聞こえて来た。
「沙羅さん、おーい沙羅さん!。」
それはアキラの声だった。
アキラは帰宅を急いできた。高校時代に台風にこわされた部屋で震えていた沙羅を思い出し、心配の余り、泥水で浸水しつつある道にレオーネを走らせていた。
家に帰つて声をかけると、縁側の冊子越しに沙羅の声が聞こえる。
「動けないの!。腰が抜けて、立てないの。」
激しい雨に打たれながら、アキラは縁側の雨戸を開けて覗き込んだ。そこには沙羅が座り込んでいた。落雷で火事になるおそれもあった。アキラは身動きの取れない沙羅を抱き上げた。痩せ細った沙羅の体は諤々と震えている。洪水のような雨の中、アキラは沙羅を急いで車へと運ぶ。
車のライトが眩しい。雨に濡れてすぐに透けてしまう薄手のブラウス。沙羅は照らすライトに目をつぶっていて気づかない。アキラは足元を見るために、目を背けることができなかった。寒さもあったのだろう。沙羅は震えが止まらない。
「怖がらないで。もう大丈夫。今、貴女は僕の元に戻ったから。」
雷鳴が激しさを増した。それでも祈りつつ進む車への足取りは、確かだった。
「貴女は僕の妻。僕のもの。沙羅さん、沙羅先輩。僕はこうやって貴女の名前を呼び続けながらきたんだ。」
車の外はさらに雨脚を強めている。車の来た道は、すでに水没している。しかし、アキラは平然と後部座席へ沙羅を導いた。
「もう、大丈夫。僕が一緒にいる。洪水が来ようが、嵐が来ようが。」
道はもう冠水している。まだ沙羅の震えは止まらない。彼女は寒さの中、濡れているブラウスとジーンズを脱ぎ捨てた。
「アキラくん。後ろを見ないでよ。」
「うん。」
夫婦でありながら、沙羅は、明るいところで自らの全てはおろか下着姿をすらアキラに晒したことはない。そうでなくても、唐変木のアキラは未だに沙羅のそのような姿を見ないようにして来た。
「こんな時、対向車が来るなんて。」
「肌も何もかも白だから、暗闇の中でも反射してわからないんじゃないかな?。」
アキラは平然として言った。しかし何かおかしい。沙羅はしばらくそこ違和感を考えていた。決して重い問題ではないのだが、何か引っかかる。
「なんで白だって知っているの?。」
「いや、そんなの知らない……。違う、沙羅先輩を運ぶとき、見えちゃったから。」
アキラは初めて狼狽の色を見せた。途端に、沙羅は周りが水没しつつあることを思い出した。アキラも焦った表情を返した。先ほどまでの彼の平然とした顔は何だったのだろうか。
「とにかくここから高台へ行こう。」
「どこへ行くの?。」
「それはわかるから、まあ大丈夫だろうよ。」
そうして、レオーネは家を出た。
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この日以来、アキラは毎晩、沙羅を抱きしめるようになった。不安な沙羅をそのままにはしたくなかった。思いをいつも伝え続けたかった。沙羅は、懐かしいアキラの匂いに顔を埋め、全てを委ねるのが常だった。それは、まるで、今までの過ちを取り返すように。雷雨の度ごとに、沙羅はアキラとの台風の夜を思い出していた。アキラは、今までの空虚と暗闇を埋めるかのように、沙羅はアキラに自らの残りの時を委ねるようにお互いを晒した。そして、沙羅の首に下げた古い小さな巾着袋が激しく揺れるほど、二人の営みは激しかった。
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次の年の初夏、沙羅は三番目の子を身ごもつた。二人の愛の結晶は、沙羅にとって最愛のアキラの子となるはずである。アキラは、沙羅とともにその懐妊を喜んだ。




