ふたたびの娶り
その気配に沙羅はびくっと驚き、顔を上げた。沙羅にとって、見知らぬ女だった。
「こんにちは。この辺りは夕暮れも早いんですね。」
目の前の女のいうように、ここは山間にあるため、余市の街中よりも陰るのが少し早い。こんな声のかけ方をするのは、余市の町から来た人間だろうか。権蔵が介護を必要とするようになったこともあり、福祉事務所から様子を見に来たのだろうか。
権蔵が東京から逃げるようにこの地に帰ってきて以来、気を付けて人づきあいを避けていた。それもあって、沙羅は目の前の男女を警戒した。
「こんばんは、どちら様ですか。福祉事務所の方かしら。」
暗いせいか、または日焼けのせいか、アキラから見ると沙羅の顔は黒く暗闇に沈んでいる。日焼けとしわは、戸外の労働のため。それでもアキラにはすぐに沙羅だとわかった。権蔵は寝たきりの様子。その権蔵を介護しながら畑仕事をし、一人で働きまわっているらしい。
「私は、探偵事務所の田中要子と申します。相楽沙羅さんですね。」
「そうですけれど。」
途端に沙羅には警戒の色が浮かんだ。
「権蔵にご用ですか。でも、お金ならもうないわよ。」
探偵は少し戸惑いを見せらながら、答える。
「いや、権蔵さんにではなく、相楽さん、貴女に用事があるのです。」
「私に金を用意しろ、と?。私には何も財産はありませんよ。この家も、ここの土地も売れるほどの価値はないけど、権蔵のものよ。」
「私たちはこのお宅に取り立てに来たわけではないのです。」
「私を探して?。さっきも言ったけど、私を問い詰めても何もでてこないわよ。ろくに働きもできやしない私をどうするつもりなの?。」
沙羅は、田中要子と名乗る女探偵の後ろに立つアキラを、目を細めて見つめる。アキラは帽子を取って頭を下げた。
「ご無沙汰しています。アキラです。」
アキラであることは、その声で直ぐにわかった。
「沙羅先輩、やっと見つけたよ。」
沙羅は、驚きと当惑で後ずさりしていた。
「なぜ?。今?。どうして?。どうしたら?。」
「沙羅さん!。沙羅先輩!。」
沙羅は、持ち帰っていた野菜類を放り出して逃げ出した。どこへいこうというのか。それも見極められないほど、沙羅は混乱している。危ないと感じたアキラはとっさに沙羅の左腕を掴んだ。
「放して。あなたにだけは会いたくなかった。」
「僕は貴女をずっと探してきた。もう逃すわけにはいかない。」
腕を掴まれ、逃げられないと分かっているにもかかわらず、沙羅は無駄に抵抗している。逃げようとする沙羅の態度に、アキラは心を抑えざるを得なかった。それに応ずるように、沙羅は落ち着きを取り戻した。
「アキラくん……。ごめんなさい。黙っていて。でも、ここに居る、とは知らせられなかった。」
「どうして?。」
「あなたが私を連れ戻しに来るとは、思わなかったわ。」
「僕が先輩を探さない?。僕たち家族が先輩を忘れる?。何故そう思うのですか?。」
「私は、すぐには戻れなかった。それは裏切りよね。貴方への裏切りは、誓いを捧げた天への裏切り。許されない。だから、……。」
「だから、僕たち家族からも天からも逃げ出した……。そのうち、私たちが貴女を忘れるだろう……。でも、そんなに安易な考えのままでいるから……。それがこんな迷い道に至っているんです。」
「安易な考えではないわ。私は迷ったうえで権蔵のもとにずっと留まっていたのよ。私は裏切ったのよ。」
「裏切った?。そう……。そうなのかもしれない……。たとえそうであっても、こんな迷い道に惑っているなんて…。沙羅先輩が残した子供達はどんな想いをしたか、分かりますか。私は、あなたを愛し続けてきたからわかる。あなたの過去も、聞き及んだあなたの今も、そして、何もかも無くしてしまったあなたの未来も、私には手に取るようだ。そう、あなたなら記憶があるはずです。あなたは母親を失い、優しかった継父をも失い、孤独だったはず。それを今、あなたの子供達は味わっている。でも、あなたが歩んでいる過去と今とを、彼らには味わわせたくない。」
「私は貴方を裏切ったのよ。」
「そう……。僕のことはいいです。でも、忍君と百合さんは、母親を必要としています。」
「そうね、罪に罪を重ねているわよね。」
「何を聞いているのです。僕は先輩を責めているんじゃない。家族のためにあなたにいてほしい、戻ってほしいと言っているのです。」
「いいえ、私はすでに罪にまみれているのです。それなら、不幸せな権蔵のためにここで介護を続けるわ。」
「なぜ…。」
「最初、権蔵は強引だったわ。それに、あの人を一人にするわけにはいかなかったの……。彼は、もう肝硬変を悪化させていて、歩くのもできなくなってしまったの。いずれは先が短いと思うけど、放って置けなかった。」
沙羅は、失踪から今までのこと、失踪後の恐怖から権蔵への憐憫へと変わった想いを打ち明けた。沙羅は、亡父や早くに亡くした継父への面影を権蔵の中に探し続けたのかもしれなかった。
「アキラくん、私には、戻る資格がないのよ。私は、自分の父親を求めてしまった。探してしまったから、亡き母親に呪われているのよ。だから、権蔵みたいな父親のなりそこないに引っ張られ、憐れみをかけることにさえなってしまったわ。貴方を裏切り、今では彼を捨てられないの。」
「では、忍くんや百合さんはどうなるの?。先輩は家族を捨て去ってしまうの?。まるで先輩の母親が、先輩の父親を捨てたように。片親になってさまよう家族の苦しみを分からないはずは無いのに。」
「そうね。やっぱり、私は許されないわね。戻れば可哀想な彼を見捨てることになるし。既に家族は見捨てているわ。……。でも、どちらにしても、許されないわね。」
「なぜ許されていないなどと続けるのか……。」
アキラは沙羅の言葉に戸惑い、苛立ちつつも、いうべき言葉が浮かばなかった。袋小路に入り込んでいる沙羅の身の上が心配だった。
「もう一つ、それでも先輩は幸せなの?」
「私が倖せになることなんて考えたことはないわ。というよりは、私が幸せになることは許されてないの。だから、戻ってはいけないのよ。」
「まだ、わからないの?。今僕も分かったことだけど、戻って良いと言いたいのは僕自身だ。僕のことはいいと言ったけど、それは違うんだ。僕が戻ってほしい、家族として先輩を取り戻したい。まえからそうしたかった。先輩に罪があったとしても、僕が希望するから不問にしたい。そう言っているのに。天が、いつも先輩に語り掛けていたことを忘れたのですか。『あなたを贖う方が言われた。今は、ただ帰って来い』と。私たちも、天もあなたを失いたくないから、許しつづけてきたし、これからも繰り返し許しつづけるのです。」
「なぜそうなるの?。私はあなたも天も裏切ったのよ。天の父の名を呼ぶ資格も立場もないわ。」
「なぜって…。それは、僕が先輩を妻として選んだから、そうしたいと思っているから。天もあなたを選んだから。それしか答えがない…。」
「アキラくん、あなたがそこまで言ってくれるとしても……。私にはどうしたらいいか、わからないわ。」
「沙羅先輩、それは、祈りを忘れているからだよ。祈りは天の思いを知ることができる。絶えず赦し赦される思い、絶えず愛し愛される思いがわかる。いつも全てを天に任せてみることが必要なんだと思う。」
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アキラは沙羅と権蔵を引き取った。権蔵は、東京の武蔵境中央病院に入院した。やっと入院手続きになった時、アキラの横で、権蔵は初めて口を開いた。彼はアキラが想像したよりも図々しかった。
「おめえか、お人好しの稼ぎのいいだけの男ってのは?。おめえがいくら頑張ったって、沙羅は俺の女だ。あの女は、父親の影を追っているのさ。うんと年上でねえと相手が勤まんねえんだ。」
善意を向けた相手に罵倒されたことで、アキラのうちに秘めた何かが外れた。
「なにを……。」
「おめえみたいなお人好しは、せいぜい沙羅を遠くから見て満足すりゃいいんだよ。」
「僕が貴方に何をしたと言うのです。」
「さあな、偽善者。ええかっこしいで、沙羅の機嫌でも取ろうってか。彼女の愛を得ようってか?。どうせ俺は死ぬんだ。おめえが何しようが、無駄だ。何も変わらねえよ。おめえには何もできることはねえよ。」
「何だと……。何もできない?。何も得られない?。」
怒りを抑えようと目をつぶった時、権蔵は病室へと運ばれていった。
漸く心を落ち着かせ、アキラは確認のために権蔵の病室を訪れた。当然だが、そこには沙羅が権蔵の世話をしていた。それはアキラが許したはずの行為だった。家族の元に戻っても続けた彼女の看病という行為は、愛に由来するゆえに正しいはずだった。事細かに準備を進める沙羅の背中。アキラは自らの怒りと嫉妬、その感情に気づいての戸惑いに驚き、病室を静かに去った。そして、二度とその病室を訪れることはなかった。
その四ヶ月後、権蔵は息を引き取った。
アキラは、ふと聖書の一文を思い出した。
“淫行の女、ゴメルをめとり、淫行による子らを受け入れよ。”
その後、彼がその指示を表面的に従うだけにしても、心の底に怒りを封じることには、いくつもの祈りと涙、天への訴えとが必要だった。




