北の孤独
「おまえはおれのもんだ。」
床について久しい権蔵の言葉。今になって突き放すことは出来ないと沙羅は思った。
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小樽からの気動車は、トンネルをいくつも潜り抜け、もうすぐ余市の駅へ着く。余市の秋の夜は寒い。一九九七年も、十月を待たずに紅葉が始まり、ニッカの工場もちらほらと赤や黄色の葉が増えている。
工場を左手に見ながら橋を渡ると、一瞬海が見える。古臭いジープはエンジンオイルこそ替えているものの、あちこちガタが来ている。それを騙し騙し運転しながら山を登り始める。セカンドにギアがうまく入らないので、ロウからサードへ思い切り引っ張る。そのためか、後ろには朦々と黒い煙が上がっている。
脇道の白樺も猫柳も色づいている。その一本に入り込んで一気に奥へと進む。このジープでは、もはやこの急坂は登れなくなるかも知れない。しばらくいくと、木造の家が見えてくる。赤い三角のトタン屋根。小屋と言うには大きすぎるが、普通の北海道の三角屋根の家々よりは小さい。既にシベリアからの風が軒下や屋根を震わせている。
「ただいま!。」
奥へ声をかける。権蔵は多分寝入っているのだろう。最近は眠っている時間が長くなっている。ラジオは今夜の冷え込みを伝えている。今夜から石炭ストーブを使い始めようと、準備をしていると、権蔵が枯れた声を出しているのに気づいた。
「どうしたの?。寒い?。スープを作ったら、持ってきてあげる。アスパラとベーコンとじゃがいものスープよ。あとでこの部屋の暖房の準備をするわ。」
小さい窓の外、冬の季節風のもたらした雨が降り始めている。それを一瞥しながら、沙羅は家事を急いだ。
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小さめの窓の奥、権蔵が寝込んでいる万年床の横に、早々と出した石炭ストーブにかけたヤカンが、蒸気を出していた。一通りの家事を終え、沙羅が割烹着を外しながら権蔵の方へ歩いて来た。
「小樽の黒田先生から、ビルビリンの値が高い、おかしいって。お酒はやっぱりダメよ。」
「どうせ、もう終わりに近い年齢だぜ。酒ぐらいは好きにさせてくれ。」
「小さい時からの馴染みの先生なんでしょ。いうことを聞かなくちゃ!。」
沙羅はため息をついた。ずっとこれから権蔵から離れるに離れられない状況のように感じられた。権蔵に連れ出された時には、ひょっとしたら頼れるのかなと思いついて来た。しかし、余市のこの家に来た途端、権蔵は肝硬変を発症し今では肝臓癌だった。それでも、権蔵は図々しかった。
「お前は、俺のもんだ。」
権蔵は今でも言い聞かせるように、沙羅に言う。沙羅はそう言われて、最初はこわいこともあって、また、頼りがいがあるようにも感じられて、権蔵から離れることが出来なかった。
「山の畑に行ってくるわ。」
野良着を着た沙羅は、歩いて一時間の山道を登って行った。彼女は昔を振り返りつつ思った。彼女にとって、権蔵から離れて一人になれるのはこの時だけだった。
権蔵に連れ出されてなければ…。権蔵からあの時逃げていれば…。記憶の沈殿物から、あの時の記憶はいつでも新しくなってさらに迫ってくる。権蔵に連れ出された際の、子供達の表情。驚愕、不安と恐怖、戸惑い。裏切られたと思ったであろう夫の気持ち。夫や子供達の顔に浮かぶいくつもの言葉。この記憶が沙羅を問い詰める。その問いに答えはなく、これからどうすればよいかの答えもなかった。
沙羅はそれらを思い出すたびに、無力感と諦念、罪の意識が心の中を渦巻く。このような思いをこの数年の間繰り返してきた。しかも、時ととも、子供達は成長し、幼かった彼らの顔つきは失われていく。何より、沙羅の記憶が曖昧になりつつある。反対に、夫の戸惑いの顔がより強く迫ってくる。これらが沙羅の罪の意識を深くしていった。
沙羅は歩みを止めて、懐から巾着袋を取り出した。首にかけた巾着袋には、ただ一つ持ち出せた子供達の靴下と、くしゃくしゃになった聖書の一頁が大切にたたまれていた。それは、彼女が自分にふさわしい言葉と思った一つの言葉だった。
「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。……。」
彼女はこの言葉に自らを重ねていた。救われる価値のない人間。いつか必ず滅ぶ、滅ぶことが天の御心だと…。せめてその時には清く死にたいと思った。その点だけは、はっきりさせることがでた・・・・。その結論に達したとき、沙羅は再び畑へと登って行った。
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山道を一気に駆け上がってくるレオーネ。舗装されていない砂利道にもかかわらず、横滑りもせずに権蔵の家の前に止まる。軽やかなエンジン音が響いていても、家の中の権蔵はまだ寝ている様子だった。
レオーネから降り立ったのは、男女二人。
「河原さん、この家ですね。表札を見てみましょう。変わっていないから、まだここに住んでいると思います。」
女が家の様子をうかがいながらスーツ姿の男に説明をしている。二人は女探偵の田中要子と河原アキラだった。
「男の方は柳瀬権蔵といって、六十二歳の独身の男です。もともとこのあたりの出身で、東京へ出て行ったはずなのに、住民票はまだここにあったようです。相楽沙羅さんのほうは、住民票を移していません。二人とも、あまり人と付き合わないようにして暮らしていますね。多分、二人はここまで逃げて来た、と言うところだと思います。とすると、相楽沙羅さんも、戻る気もなくここまで来てしまったのかもしれません。つまり、向こうは余り会いたがらないかもしれません。」
アキラはゆっくり頷いていた。本当に沙羅に会っていいのだろうか。沙羅の裏切りの白黒をはっきりさせたいというのが、本当の自分の気持ちなのだろうか。知ってどうするというのだ。アキラはまだ迷っていた。
女探偵は、声を落として合図をした。
「これから、声をかけて見ます……。」
女探偵は、白い手袋のまま呼び鈴を押した。
「すみませーん。柳瀬さんはご在宅ですか?。」
探偵の田中要子は、家の周りを歩いてアキラのところに戻って来た。
「西側に面している居室に、男が寝ていますね。起きられないのかもしれません。でも、もう一人、女がいたはずです。それが沙羅さんです。その人の帰りを待ちましょう。」
夕方、すでに夕日は山陰に隠れ、あたりは薄暗くなり始めていた。もうそろそろ、外の作業は無理な時間だった。そう思われたころ、山陰の道に野良着姿の女が見えた。要子はこの機を逃すまいと、用心深くかつ少し足早に近づいて行った。アキラも要子の後ろからついていく。ただ、この時アキラは深く帽子を被り、顔を見せないようにしていた。
「こんにちは。この辺りは夕暮れも早いんですね。」




