漂う家族
「宇都宮事業所開発部駆動伝達系課長への異動を命ずる。」
アキラは、一九九三年の三月、宇都宮事業所へ配置換えを内示された。それは、バブル経済の崩壊の最中であり、業務最適化の一環でもあった。断ることはできない。アキラの家庭の状況を知る小野寺東京事業部所長も、そう説明を加えていた。
自分の席に戻って、アキラは窓の外を見た。まだ冬枯れのままの敷地内。しかし、日が長くなるとともに、木々には芽吹きのしるしが見えていた。
「人の心はうつろいやすい。もう、みんなが大人の関係になっていくのだろうが…。」
戸惑いと悩みの渦に巻かれながら、アキラはどうしたものかと思案した。まだまた沙羅の消息はつかめない。忍と百合は成長していく。彼らは、彼らなりにいくつかのこだわりを捨てつつ、新しいものを見つけていくのだろう。それでも、母親の帰りを待つ子供たちが『はけの家』を離れたくないことは、容易に想像できた。それを、アキラが説得するのだろうか。説得する資格があるのだろうか。
アキラは夕方前に早退した。子供たちと話す必要があった。
「二人とも、ちょっと来てくれるかな?」
庭と野川の谷を見下ろせるリビングで、アキラは忍たちに話をし始めた。
「僕の職場が宇都宮事業所に変わることになった。」
忍たちは顔を見合わせる。特に忍は大きく息を吸い、アキラを見つめ返す。このところ、忍の反抗は強度を増している。アキラはそれをわかっていても、話を続けるしかなかった。
「君達にもついてきてほしい。」
やはり、反抗期の忍がぶっきらぼうに口を開いた。
「じゃあ、母さんがここへ帰って来るのに、誰も待っていないんだ。へえ、それでいいの?。」
百合はしばらく黙っていたが、やはり引っ越しには抵抗があるようだった。
「私も、移るのは嫌だけど。でも、お父さんといっしょに行かなければならないなら、お父さんについて行く。」
忍が百合の方を見て、驚いた顔をした。百合は忍を見ながら続けた。
「だって、お母さんは帰ってこないじゃない?。もうこんなに時間が経つのに。私、お母さんがあのおじさんについて行く時、どこかへちょっと出かける感じで行っちゃったのを、見ていたの。無理矢理のようには思えなかった。それは、強制されていないのに永く帰ってこないということじゃない?。」
忍とアキラは、『帰ってこない』という百合の推定に驚いていた。
「そんなふうには考えられないよ。お母さんは、むりやり連れ去られたんだ。やくざみたいな目をした男に。」
忍は大声で反論した。同じ現場にいたはずなのに、忍と百合とは見方が食い違っている。
「あの男は、俺をにらみつけていた。きっとお母さんを脅していたんだ。お母さんは、早く逃げ出して帰ってきたいと思っているに決まっている。」
「でも、庭から出ていくとき、ちょっと出かけてくるわねって感じだったなあ。あれだと、帰ってくるにしても、いつになるかわからないわよ。」
忍と百合は、今までにないほど激しい言い合いを始めていた。その言い合いには、母親を信頼したい息子と、母への不信が芽生えている娘との葛藤が渦巻いていた。裏切りという認識を示されつつもそれを信じたくないアキラは、興奮した勢いのままで話をしたくなかった。
「待ってくれ。もう少し静かに話をしようよ。」
「うるせえよ。百合の言う通りなら、俺たちは捨てられたんだよ。」
「それは、わからない。ただ、君たちが心配だ。」
「そんなの信じられるかよ。」
「だから、一緒に宇都宮へ行こうと考えたんだよ。」
「勝手に話しを進めやがって……。お母さんに俺たちは捨てられたってことだよな?。そんなことなら、今度の引っ越しだって俺たちはまた捨てられることになるんだ。」
「そんなことはない。」
「黙ってろよ。」
忍の投げた言葉に、百合もアキラも凍り付いた。言葉を発した忍も押し黙った。
アキラは、二人にゆっくりと話し始めた。
「君達は、僕にとってのかけがえのない家族だ。君達二人の間では、諍いを持って欲しくない。沙羅さんを、君達のお母さんを待っている心を失って欲しくない。僕も、沙羅さんを信じて待っているんだ。ここを離れても、君達の母さんは僕が探し続ける。今までも、これからもね。だから、この家はそのままにしておく。貸すかもしれないけど……。だから、二人とも僕について来てくれないかな。」
百合はこっくりと頷いた。それを見た忍は、仕方なさそうに一言返事をしていた。
「わかった。」
アキラは二人の母親への想いを考えながら、妻の裏切りを疑ったことへの自責の念に囚われていた。
「さっきの言い合いでも自信はなかった。僕は君達の本当の父親ではないから。だから、君たちには素直にいうことを聞いてもらえるとは思っていないし。」
百合は、アキラの顔を覗き込んだ。
「どうしたの?。最近、私たちのことを『君達』と呼ぶし・・・・。本当の父親ではないからとか言い訳するし・・・・。でも、それは違うよ。やめなよ、そんなことを言うのは…。」
忍も黙ってうなづいている。百合も反抗期の忍もアキラを責めてはいなかった。忍たちはアキラの不器用な生き方を分かっていた。
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・・・数日前のこと、アキラは新型エンジンの最終仕上げのために、遅くまで勤務していた。中学のクラブ活動が終わった後の百合は、あまりの遅さにアキラの職場へ入り込んでいた。百合が陰からのぞいた光景は、責任者の厳しさのそれだった。
「班長、期限は明日だし、こんなのいくらやっても最適解は、解析画像から言ってもこの周期ですよ。」
「いや、三次元データより時間の遅れも考慮するともう少し良い値があるはずなんです。」
「班長は、もうすぐ異動だし、製品化ももう直ぐだし、もう時間切れです。」
「いや、もう少し付き合ってくれませんか?。接地圧に人為的な変動を加えてその影響を考慮して、四輪相互の関連をさせた伝達関数を新しく組み込んでみたいんです。」
「そんな根幹的な変更を今頃やるんですか、もう無理!。」
年長の部下たちは、帰ってしまった。しかし、アキラは一人残っていた。かれこれ二時間以上も、エンジンを抱えて作業を続けている。百合は、一人でなかなか作業を終えないアキラからそっと離れ、一人帰っていった。彼女の頭の中に残っていたのは、反対されても孤独になっても耐え続け、黙々と努力し続けるストイックな父の姿だった。
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三人の沙羅への想いはバラバラなまま、彼らは栃木の宇都宮市へ移っていった。忍と百合は、宇都宮市の中学校へ転入、入学していた。また、三人は工場近くの従業員家族寮に引っ越した。三人は、母親のいないことにも慣れっこになっており、健気に暮らし始めて三年が経った。




