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迷途

 塀の外からの権蔵の低い声。決して大きくないが……。聞き慣れた沙羅にとっては、それだけで金縛りのように体を絡め取られていた。

「俺から逃げられると思ったか?。ガキが一緒だから、すぐに見つかるんだぜ。」

 権蔵は沙羅から目を離さない。沙羅は顔を青くして、言い返すのがやっとだった。

「あの子達は……関係ないわ。」

「そうだろうな。誰かも知らねえ男達の子らなんだろ。」

「あの人は、あの子達を受け入れてくれたわ。」

「へえ。受け入れるなんざ、変わった男だな。まっ、今回は新しい男に子を押し付けて、また逃げ出すのかな。」

「権蔵。ここはあんたなんかが来るところではないわ。」

「ほおっ?。さんざ頼っておいて、そのお言葉かよ。つれないなぁ。」

 男は、塀を飛び越えて沙羅を捕まえていた。声をさらに低く、耳に囁く。

「子供が見て恐怖で怯えているぜ。まあ、脅すなんて野暮はしねえよ。ただよ、俺はおめえと少しよりを戻したいだけさ。」

 権蔵が沙羅の手を引くと、沙羅はあまり抵抗できなかった。子供たちに何かされてはならない。その一心で、権蔵に逆らいたくはなかった。権蔵を刺激しなければ自宅に戻れる、沙羅はそう思っていた。少なくとも戻る気でいた。しかし、やっと沙羅を捉まえた権蔵は、沙羅を戻す気はさらさらなかった。


 ………………………


 忍たちは、権蔵の睨みに動くことができなかった。忍がアキラに電話をかけることができたのは、沙羅が連れ去られてから三十分ほど経ってからだった。

「お父さん、お母さんが知らないおじさんに連れられていっちゃった。」

 忍の当惑と恐怖は、急いでかけてきた電話の声でも分かった。百合の説明でも、沙羅が強制的に連れ去られていったことは明らかだった。

「分かった。家の鍵をしっかりかけて、警察に電話しなさい。」

 アキラは急いで家に戻ったものの、干そうとした洗濯物は放り出されたまま。警察が家の周りを探しても、沙羅のサンダル一つしか見つからなかった。


 ………………………


 もう明け方だった。泥で汚れた服。沙羅は引きずるようにしてここまで連れてこられた。権蔵のジープに乗せられ、着いた先は山の中の別荘だった。納屋には煮炊きに使う薪が積まれている。その影に、道から見えないよう車を止めた。

「さて、やっと着いたな。ここから人里には20キロはある。逃げられないぜ。」

 周りは手入れを放棄された杉の林。別荘の裏手や道脇の崖までが、随所で大きく崩れていた。権蔵がドアのノブを試すように回す。鍵を持っているわけでなさそうだった。別荘のドアを開けると、暗闇からカビ臭い室内の空気が逃げるように押し寄せてくる。沙羅は躊躇して玄関の前で歩みを止めるのだが、権蔵はそれに構わず中へ入っていく。沙羅がもう逃げないと確信しているようだった。

「私、体を洗いたい。」

「洗面所なら、右の奥だ。」

 示されたドアを開けると、蜘蛛の巣だらけの一室。とても使えたものではなかった。

「どこで洗えっていうの?。」

 権蔵はその様子を見てとると、外へ飛び出して行った。


 がらがらと、何かを転がす音がする。足場を組み、その上にドラム缶をのせ、水を入れていく様子がうかがえる。昼前には薪で沸かした風呂が整えられた。

「買い物へ行ってくる。夕方には戻る。」

 そう権蔵は言い残し、沙羅は山奥に一人となった。

 誰もいない山奥。野生化した杉、荒れた山肌。音もなく訪れる鹿たち。沙羅はためらいながら湯浴みを済ませた。


 ………………………



「さて、子供まで養ってやっていたのに、何で逃げ出したのかを聞かせてくれ。そして、今の相手の男が誰なのか、もな。」

 火のくべられた暖炉の前で、権蔵は尋ねた。

「あんた、私が何で百合を宿したのか、わかってなかったの?」

「男と女の関係があれば、子ができることもあるさ。」

「父親はあんたの店の客よ。誰が父親かわからないような子を産まされて育てていたから、あんたを頼るしかなかったのよ。それがわからなかったの?」

「俺を愛してくれていたんじゃないのか?。」

「そうね。あんたは、優しかったし、頼り甲斐があったし。でも、あの時、何で私がこんな目にあっていたのかって考えたのよ。私の今の苦しみは、あんたの店の商売の仕方が招いたことじゃないかってね。あんたにとって私たちは商売道具に過ぎなかった。それに、あの子たちの父親はあんたじゃないし。」

「そうか、それなら今はもう二人だけで暮らせるわけだ。」

「いやよ。家に帰して。」

「あの家の主人は誰だ?」

「高校時代の恋人よ。年下の彼が私を大学卒業まで導いてくれたわ。」

「へぇ。お前と同じ程度の年齢にしては稼いでいるんだな。」

 しかし、権蔵は沙羅を返さなかった。

 また、子供のいない今、沙羅は再び無意識に父の幻を探し始めていた。

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