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不協和音

 未だ日の入りも早い早春の宵。シャンデリアの明るい階段室から、さらに奥まった二階の部屋。ハム音を唸らせる機械が勉強机の上に置かれている。忍は黙りこくったままそれを磨き続け、後ろに立つ沙羅を見ようともしない。

「これは何なの?。どこから持ってきたのよ。」

「もらったんだよ。」

「どこで?。」

「別に…。」

「こんな汚いもの・・・・。」

「うるさいなあ。いいじゃねえかよ。」

「まさか、盗んできたんじゃないんだろうね。」

「そんなことしねえよ。」

「こんなものをいじっている暇があったら、勉強しなさいよ。」

「また、勉強しろ、かよ。」

「勉強もしないで、こんなものばかり弄り回して、国語と社会の成績がまるっきり駄目じゃないの。」

「やってるよ。国語と社会はやる気が起きないだけさ。」

「なんでやらないのよ。もうすぐ塾のクラス分け試験じゃないの。」

「別に・・・・」

「それじゃ、返事になってないわ。」

 十一歳の忍に、沙羅は戸惑っている。ここ最近、彼はろくに返事をしなくなった。友人たちのこと、学校のこと、趣味のこと、最近何を聞いてもろくに答えない。


 アキラは、東京事業所の新型エンジン開発責任者となったこともあり、「はけ」の上に中古の一軒家を購入していた。忍の勉強部屋は二階の奥まった南西側。家は崖の上に立っているため、そこからでも谷下の野川の流域が一望できる。

「はけ」の家の東側には、の細い道がある。是政線を見ながらハケの崖下へと降って行く一本道で、昼間だけは家の前を散歩する人々が行き交っている。その道の下の暗闇、野川の河川敷から響き渡るかのように、高いエンジン音が聞こえてきた。まるで地の底から力づくで登りくる、アポロンの馬車の嗎。その音を機に、沙羅は玄関へ降りて行った。

「ただいま。」

 アキラはすっかり髪を伸ばしている。

「おかえりなさい。」

「お父さん、お帰りなさい。」

 百合がアキラの腰にすがりつく。沙羅もアキラの顔を抱える。家族達は皆、今のアキラの甘いマスクが好きだった。

「忍君はどうしたんだい。降りてこないね。」

「忍を叱ったのよ。勉強しようとしないから・・・・。変なガラクタを机の上に置いてそれで遊んでいるだけ・・・・。塾のクラス分け試験がすぐだっていうのに勉強もしないし。叱っても、ろくに返事をしないのよ。」

「変なガラクタ?。ふーん。」

「あなたから叱ってやってよ。」

「沙羅さんも、反抗期があったでしょ。沙羅さんが継母さんと結構喧嘩していたことを覚えているよ。」

「私は理由があったわ。あの人、私をのけ者にしていたからよ。」

「彼も大人になる入口だから、ほかの人に対していろいろに感じるんだよ。あとで僕がきいてみるよ。」

「ちゃんと叱ってくださいよ。あなたはいつも甘いんだから。」

 

 アキラが忍の部屋に上っていくと、中からブーンという音が聞こえてくる。音からするとパワーエレクトロニクスの部品のように思えた。

「ちょっと邪魔するよ。」

「あ、お父さん。」

 忍や百合は、アキラをいつの間にか「父親」と呼ぶようになっている。それぞれが健やかに成長し、忍はエレベータに興味を持ち、百合は漫画を描くことに夢中だ。

「それ、インバータ回路、強電用途の半導体機器だね。」

「へえ、お父さん知っているの?。」

「どこで手に入れたの?。」

「友達と工場見学に言ったら、工場の人がいらないからといってくれたんだ。」

「なるほど。府中工場へでも行ったの?。」

「そう・・・・。なんでわかったの?。」

「エレベータでも見に行ったんだろ?。そうしたら、研究室かどこかで要らないインバータをもらったということかな。」

「よくわかったなあ。」

「そりゃあ、理科系のはしくれだからね。」

「エンジンだけかと思った・・・・。」

「エンジンはもちろん知っているさ。それ以外に測定もするから、いろいろな回路を組み立てているよ。もちろん、半導体を組み入れているしね。」

「へえ・・・。すごい・・・。」

「ところで、その機器には夢中になるけど、社会と国語には夢中になれないようだね。」

「つまらないんだもの。やる気が出ない。」

「なるほど。でも、インバータを研究したいのなら、論文のためには国語が必要だよ。インバータの利用のニーズは社会を知るとより分かりやすい。」

「へえ、そうなの?。」

「まあ、勉強すべきかどうかは自分で考えな。」

「うん。」

 アキラは、叱りもせずに忍の部屋から出てきた。そこに沙羅が待っていた。

「なんで叱ってくれなかったの?。」

「男の子は、ちゃんと自分で考えるさ。ほおっておいても大丈夫だよ。」

「忍は、隠し事をしているのよ!。許せないわ。」

「まあ、男の子だから。根掘り葉掘り聞くんじゃなくて、彼が言うべきことを言ってくるまで待つべきだと思うよ。僕も、叔父貴からそう扱われて成長してきたんだもの。」

 アキラのひげはそんなゆとりをあらわしているかのように、かすかに揺れている。

「それに、今は自分が大学を卒業できるかどうかを考えたほうがいい。」

 結婚して六年たった一九八九年二月、沙羅は夜の勤めを辞め、アキラの強い勧めもあって、今年の春に東京女子大を卒業する見込みだった。


 ………………………


 新学期。四年生となった百合。百合は、最近、浅黒く気怠い表情の少女の漫画が描いている。

「そんな暗い絵を描くなんて。」

 沙羅はあまりいい顔をしない。

「そんな漫画ばっかり描いて。勉強の成績が下がるばかりじゃないの。」

「でも、中町の絵のおばあさんは褒めてくれたわ。」

「誰よ、それ。」

「中村さんて言う綺麗なお婆さんよ。」

「何故そんな人を知っているのよ。」

「中町のお友達の家に遊びにいった時……。そのお隣りの家に見えた絵が濃くて、忘れられなかったから……。何度か訪ねたことがあって……。」

「そんな訳の分からないところへ上がり込んでいたなんて。」

「でも、絵が動くのよ。ゆっくりと。」

「何言っているのよ。そんな漫画に溺れていると、馬鹿になるわよ。」

「それは漫画じゃないわ。絵よ。確かに私の描いているのは漫画だけど。」

「とにかく、描くのはダメ。そんな暇があったら勉強しなさいよ。女には学問、勉強が大切なことなの。途中で勉強を諦めた私が、大学にやっと通えたのを、知っているでしょ。」

「じゃあ、見に行くのだけは許して。」

「だめ。成績が下がったのは絵のせいよ。これからは、一切禁止。」

「見に行くぐらいいいでしょ。」

「ろくに勉強もしないで、漫画とか絵とか。ダメです。」

「行くもん。」

「なんで私の心がわからないの?。」

「わからない!。」

「親の言うことが聞けないの?。」

「私、行くもん。」

 百合が珍しく反発している。百合まで反発することに、沙羅は疎外感を感じた。幼い時、自らが絶望にあきらめを重ねた故に、遠回りをし続けてきたことを、子供たちには分かって欲しかった。


 夕方のリビングは春の夕日が差し込んでいる。忍も百合も外へ出かけたまま。子供たちは独り立ちの時期、もうこの部屋に、子供の歓声が響くひとときはないのかもしれなかった。


 アキラが帰宅してリビングを見ると、まだ沙羅は外を眺めている。

「川は遠いわね。」

「そうかい。そこの坂道を降りていけば、川へすぐ降りられるよ。」

「飛行機の音は聞こえても、川の音は聞こえない。川の流れ、時の流れは聞こえているようで、見えているようで、そばにはないわ。私は流れをみてとることができていない。」

「どうしたんだい。」

「忍も百合も、私の思いを知らないで、自分勝手なことばかり。それとも、あの二人はもう独り立ちなのかしら。時が流れていることに、私は気付いていなかったわ。」

「特に忍はもう一人で決めていく年頃だからね。」

「百合も漫画ばかりで、少しも勉強をしていないのよ。」

「彼らは彼らの人生があるから。」

「その人生には、親の愛が必要なのに。私にはそれが必要だった。だから、忍たちにも親の心が必要なのよ。」

 玄関から、忍がリビングへ入ってきた。

「ただいま。」

「遅かったわね。何していたのよ。」

「別に……。」

「なんでこたえないの?。」

「恩着せがましいんだよ。」

「忍!。」

「うるせえよ。」

「貴方、なんでわたしのこころがわからないの?。」

 アキラが慌てて言い争いの中に入った。

「沙羅さん。親の尊さ。掛け替えのない親の愛。まだ彼にはわからないのかもしれない。」  

 忍が沙羅をにらむ。

「そんなの‥いらねえよ。」

「貴方は、まるで一人でここまで来られたような顔をしているけど、あなたたちが小さい頃、私がどんな思いで食い扶持を稼いできたか。それにお父さんが来てくれたから、ここまで生きてこられたのよ。」

「俺がちいさいころだって?。毎晩呑んだくれていたじゃないか。俺はよく覚えているんだぜ。母親づらして欲しくないね。」

「忍君、それは言い過ぎだ。」

 忍は何も言わずに二階へ行ってしまった。

 アキラは戸惑いながらさらに話しかけた。

「忍君はもう反抗期なんだね。でもあまり追い込まない方がいいと思うんだ。男の子は自分で考えて納得しないと動かない。」

「納得?。あの子は自分のことしか考えてないわ。それで納得を求めるなんて、何様なのよ。」

「親はそれを受け入れないと……。」

「私が親だから?。私は親を少しだけ求めたけど、誰も答えてくれてないわ。忍には私という親がいるのよ。親にわがまままで求めるなんて、行きすぎよ。」

「そうはいっても。」

「アキラ君。貴方にもわかってもらえないの?。」

「……。」

「そう、やっぱりね。私には親はいないから……。」

「貴女には天の父様がいらっしゃるのに……。」

 そうアキラは呟いたが、その彼の思いを沙羅は理解していなかった。


 ………………………


 夏の炎天に、見慣れぬ男の影があった。

「おう、沙羅。久しぶりだなぁ。こんな家に収まっているのか。いいご身分だな。」

 庭に洗濯済みの服を干していた沙羅は、目の前の中年男に凍りついた。

「あんた。何しにきたのよ。」

 権蔵だった。

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