家族
「あなたを贖う方が言われた。今は、ただ帰ってこい。」
アキラの寝言だった。いつもより遅くに帰宅して沙羅が見出したのは、アキラと寝かしつけられた息子と娘。アキラは寝言を言い続けている。
「永遠の愛をもってあなたを憐れむ。この私があなたの叛の罪を赦して、思い出さないことにした、それも私自身のために。」
「私がそむいた?。そりゃそうさ。だから、あんたに会いたくなかったんだ。でも、あんたが逃げるのを許さなかったんだぜ。」
沙羅が酔った口調でそう呟いても、アキラは答えない。やはり寝言が続いている。
「あなたの叛の雲を、あなたの罪の霧をすべて吹き払った。今はただ私のところへ帰って来てくれ。」
沙羅はアキラの涙に気づく。沙羅はひどい酔いのままアキラの頭を叩いた。
「なあにが『来てくれ』だとぉ。泣いて頼むようなことかよ。私にそんな価値なんかねえよ。」
沙羅はそのまま寝入ってしまった。
沙羅の帰宅の遥か前に、アキラはアパートに来ていたらしい。彼が忍や百合の世話をしていたのだろう。幼子たちはアキラの手を握り締めて寝入っている。
アキラは夢を見ていた。明日のミサ。アキラは叔父の重蔵や沙羅とともに、ミサへ参列していた。教会のお堂全体に共鳴する声は柔らかく染み込んでくる……。
「あなたを贖う方は言われた…。」
苦難の中にあった一人一人を内と外から生き返らせる響き。喜びと平安の波。それが何度もなんども繰り返される。横で沙羅が何かを囁いている。わからないのか、僕達は待っているんだよ。そう思いつつも目覚めぬまま、アキラは深い眠りに落ちていた。
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五月末とは言え、寒い雨天の朝だった。外を見ると、アパートに横付けしたレオーネも、ライト類の飛散防止のテーピングまでが細かい雨の滴に覆われている。
「夢か。」
アキラの布団の中には、百合の他に沙羅までが潜り込んいる。沙羅は着替えもせず酔い潰れたままだ。
「あれえ、ママぁ。」
起き上がった忍が笑いながら声を掛けてきた。
「未だ二人とも寝ているよ。さあ、朝ご飯の支度をしよう。手伝ってくれる?。」
「オッケー!。」
忍は格好をつけるように挨拶を返してくる。百合も幼い目を擦りながら着替え始める。二人とも保育園児らしく自分の着替えや食事の手伝いは、立派に出来る。
「忍君、布団を畳んでおいて。百合ちゃんは枕を集めてくれるかな?。」
がたがた と始まった朝の支度。しばらくして、髪がボサボサの沙羅が布団から顔を出した。
「寒い。」
沙羅は布団の中からくぐもった声を出した。アキラが沙羅を見ると、沙羅はまた寝入っている。
「起きて味噌汁を飲んでみなよ。あったまるから。」
アキラは声をかけると、子供達も沙羅の周りに顔を見に寄っていく。
「うーん。」
彼女は恐らく、ろくに食べないまま飲み過ぎたのだろう。沙羅の体がブルブル凍えている。アキラが着込んでいた丹前を被らせ、食卓の前に座らせたのだが……。未だ酔いが残っているようすだった。
「今日からみんなをドライブに連れて行きたい。」
「唐突ね。」
「前から言ってあったと思うよ。な、忍君!。」
「そうだよ。ママにも言ってあったぜ。」
「そうなの?。」
「それじゃ、午後一番に出発することにすれば、体調ももどっているんじゃないかな。」
「わかったわ。」
「体が冷えているらしいから、まずは朝の銭湯へ行くか。」
「そうね。いつも私はそうしているわ。」
寒い雨天の中、アキラはみんなを乗せて車を走らせた。
「『のぼりゆ』、此処よ。」
沙羅は病院の近くの銭湯に案内した。
「じゃあ僕は車を病院の駐車場へ止めてくるよ。」
アキラが先頭の入り口まで戻ってくると、子供達ははしゃいでいた。
「おじさんと俺は、こっち。二人で男湯だよな。百合、お前はあっちいけ。」
「やだ、私もおじちゃんと一緒がいい。」
「お前は女だからダメだ。あっちいけ。」
「この前は一緒だったよ。」
「今日はママがいるだろ。女どもはあっちいけ。」
百合は泣き出した。かなり大きな声に、沙羅は耳を塞ぐ。
「うるさいなあ。」
その声に、百合はさらに激しく声を上げる。
「百合、いい加減にしなさい。」
沙羅が大声を上げた。アキラは慌てて三人に声をかける。
「わかった、わかったよ。大丈夫だから。おじさんと一緒に行こう。」
百合はやっと泣き止んだ。
「ほんと?。いいの?。」
「ああ、いいさ。先輩は一人でゆっくり……。」
「何よ、その『先輩』って?。」
沙羅が目を剥く。
「じゃあどう呼べば?。」
横から忍が笑いながら言った。
「僕たちと同じにママって呼んで見たら?。」
「じゃあ、ママ。行ってきます。」
アキラはニヤニヤしながらそう声をかけた。沙羅は何かを言おうとするのだが、それにお構いなく三人は男風呂へ消えていった。
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レオーネは中央道を富士五湖へ走りはじめた。レオーネの中は室内にまでリング化構造の補強パーツが組み込まれており、あまり居住性はよくなかった。それでも初めてのドライブに、子供達ははしゃいで騒いでいる。
「あれ何?。」
「ごめん。今は前しか見えないんだ。」
アキラは運転しているため、応えようがない。
「ママは知ってる?」
「野球場かしら。」
「何かが走っている。」
「それなら競馬場じゃないかな。」
「川を渡っているよ。」
忍は次々と細かく報告するのだが、沙羅はうんざりという顔をしている。それを忍は気づいていてアキラに向かって話しかけている。アキラは自分の子供の頃を思い出した。自分もいまだに好奇心の塊だ。
………………………
夕刻の山中湖畔は肌寒かった。ラジオは明日晴れて暑くなると言っている。細かい雨が降る駐車場には、沙羅一家とアキラの車しかなかった。その横には小さなペンションとテニスコートが二面。
「あぁあ、富士山が見えないなんて。」
忍がつまらなそうな声を上げる。
「明日は多分見ることができるさ。それに、明日、ペンションのオーナーさんが、君たちを遊園地へ連れていってくれると言っていたぜ。」
アキラは顔見知りのオーナーに挨拶した。
「二泊お世話になりますね。」
「ようこそ。明日は子供たちを任せてください。お二人は、大人の休日をお楽しみくださいね。」
一行は、ダイニングに案内され、旅の疲れを癒す。そこに、車のドアの音が響いた。
「誰か来たわよ。」
神経質になっているのか、沙羅が気づいた。レオーネの横に、二台の車。アキラが声を上げる。
「あっ、智也、圭太達だ。」
「確か、アキラ君のクラスメイトだったわよね。」
「そう、四人が来た。ウフフ。」
「四人?。なんで笑っているの?。」
カランカランと扉の鈴がなった。入ってきたのは、カップル然とした茶谷智也と加奈子、そして吉野圭太とまなみ。沙羅は彼女らを見間違えなかったが、まさかという思いからしばらく声が出なかった。
「沙羅、お久しぶり!。」
「元気にしてた?。」
三人の女性は、一気に時間の壁を飛び越えて再会に狂喜している。一歩離れたところで、アキラと智也、圭太が苦笑しながら見つめている。
「あのう、ご婦人方。子供達が驚いて引いているよ。」
「まあ、忍君と百合ちゃんね。」
沙羅が二人を前に引き出そうとし、加奈子やまなみが声をかける。忍達は驚いてアキラの後ろへ逃げ込んでしまう。
「まあ、アキラ君に随分懐いているのね。」
「彼は子供達にはすぐに優しく接してくれたのよ。でも、私を構ってはくれないの。」
沙羅が皮肉たっぷりにアキラを詰る。
「アキラ、まだ唐変木なのか?。」
「呆れたやつだな。」
アキラはだまってしまう。後ろから顔を出した忍が大人達へ反論し始めた。
「おじちゃんをいじめちゃダメだ。おじちゃんはとっても優しいんだぞ。それなのに、ママはおじちゃんの服を脱がしていじめるし……。かわいそうに、おじちゃんは逃げ出したんだよ。」
沙羅が顔を赤くして反論し始めた。
「忍!。私はいじめてないわよ!。」
加奈子とまなみが顔を見合わせ、呆れたようにそれぞれの連れ合いの顔を見る。
「あんた達、今までどんな交際をしているのよ。子供達のいる前で、なにやっているの?。」
「アキラ、お前が悪いぞ。」
「なんで俺が悪いんだよ。」
加奈子とまなみが声を上げる。
「アキラ君、貴方って今でもそんなことやっているの。」
「呆れたあ。」
アキラは黙ってしまった。
「結婚式が必要なら、俺たちが企画してやるよ。」
「今になっても世話が焼ける二人だなあ。」
そういうことになった。
………………………
次の日、子供達はオーナーに連れられて遊園地へ。大人達はテニスを楽しんだ。次の日、別れ際に再度結婚式の打ち合わせを終え、彼らはそれぞれの帰路についた。
「この旅行はずっと楽しかったわ。忍もそうでしょ。」
沙羅が幸せそうな顔で、後部座席の忍達をふりかえる。
「うん、たのしかった。」
「わたしも、わたしも。わたしも楽しかったよ。」
百合まで盛んに声を上げる。子供たちは窓を開けて歓声を上げた。窓からの風がアキラに語り掛けるようにやさしく絡む。その風に吹かれながら、アキラはこの家族を守り抜くことを心に誓っていた。沙羅を妻に迎え、子供たちを愛することを。アキラは今までのどの瞬間よりも、心を強くした。
風がアキラの心と言葉とを盾と剣とに変えた一瞬、アキラの目と頭脳とを明晰にした。
「あのゴルフ。ずっと僕たちをつけてきている。おかしい。」
沙羅が後ろを振り返った。
「権蔵。」
「権蔵?。誰?。」
「忍を育て始めたころのキャバレーのオーナー。私が逃げ出して何度も何度も店を変えたたびに、しつこく追ってきた中年の男・・・・。あのゴルフは確かにそう。」
「中年の男……。」
「ねえおじさん、あの車の男の人、すごい顔をしているよ。」
忍が不安そうな声を上げた。
「みんな、シートベルトを締めて。山道へ行くから。」
アキラは高速を降り、丹波への山道を登り始めた。次第に急なカーブと急坂が続き、エンジン音は高くなる。アキラは一瞬のクラッチとともに、アクセルを踏み込むが、ほとんどブレーキを踏んでいない。沙羅は心配そうにアキラを見る。
「先輩、心配ないよ。」
アキラは後部座席を一回振り返り、落ち着き払っている。彼は乗っている車に相当の自信を持っているのだろうか。ゴルフは相変わらず変な音を立てながらついてくる。
「しつこい男だね。大丈夫!。この車は事業所の自動車クラブのおもちゃでね、オイルクーラーとか、作りこんである作品だから、煙に巻くことができると思うよ。」
後ろのゴルフから、変な音が聞こえてきた。
「そうだろうな。」
アキラは後ろの車の音に頷きながら、さらにスピードを上げていった。春先の山道は、雨と霧の多い細い道。それを一時間、二時間走り続けている。それでも、レオーネは安定していた。
「後ろの車、煙を出しているよ。」
「やっぱり。あの年代のゴルフは、壊れやすいんだ。」
アキラが誘い込んだ脇道は舗装をしていない泥道。突然、ゴルフは泥のくぼみに突っ込んで急に止まった。
「オーバーヒート。この車の勝ち。」
レオーネは少し離れて止まり、アキラはゴルフを観察している。権蔵の悪態が小さく聞こえてくる。
「クッソー、こんなところでエンジンが止まっちまった。」
その言葉を裏付けるように、ゴルフのエンジン室から煙が出ていた。置き去りにした車の煙を見ながら、アキラはホッとしたように声を上げた。
「「エンジン音が止まったね。もう使い物にならないね。こんな山奥だもん、通りすがりの車も来ないさ。もう、この車を追っかけようなんて気を起こさないと思うよ。」
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野川から「はけ」の急坂を一気に駆け上がると、その左に河原家の新居。アキラが買い入れた「はけの家」は、そのリビングから武蔵野公園、野川公園が一望できる。ただ、今日はその暇はなかった。
「アキラ。おめえが先に行かねえと、祭壇の前でだれが沙羅さんを受け取るんだよ。」
「ええ?。一緒に行かないかなあ?。」
「手筈通りだとすると、おめえが待っているお御堂の前で、沙羅さんと俺が車から降りるんだぜ。」
「あの、車を事業所へ置いたままなんだ・・・・。昨日、最後の独身の飲み会だとか言われて、運転できなかった・・・・。」
「おめえ、それで朝帰りだったのかよ。午前三時に沙羅さんにかぎを開けさせて、子供たちまでおこしちまって。もう、あきれてモノも言えねえよ。どうするんだよ、府中のお御堂まで?。えぇ?。」
「圭太に迎えに来てもらうよ。・・・。もしもし、吉野圭太さんをお願いします。はい、新郎の河原アキラです。…はい、まだ「はけの家」、自宅なんです。…あ、もしもし、圭太か?」
《アキラ、今どこだ?。》
「今・・・・自宅。昨晩、車を乗って帰ってこなかったんだ。迎えに来てくれないかな。」
《今頃何やっているんだよ。》
アキラはなんとか府中のお御堂に行きつくことができた。そのすぐ後ろには、新婦を乗せた黒い車も。あわただしい結婚式の始まりだった。
府中カトリック教会は、国分寺街道に面した明るい色のお御堂。ドアが開かれると、パイプオルガンの重厚な響きが漏れてくる。その奥の祭壇前には、ようやく呼吸を整えたアキラの姿。白い燕尾服の肩がまだ上下している。
先ほどから待っていた黒い車。ようやく開いたドアから白いベールが引き出され、白銀のドレスに覆われた沙羅は、重蔵の腕を頼りに歩みだす。そのあとには、長いベールを保持する忍と百合。
急に決まった式にもかかわらず、式を控えた会堂内にはアキラの友人たちのほか、東京事業所の多くの上司、部下たちが集っていた。にぎやかに祝福された時が始まった。




