未だ
「母子家庭だと言ったじゃねえかよ。」
涙声の荒い口調の沙羅。押し倒されたまま、アキラは沙羅を見つめた。目の前の沙羅。哀れな沙羅。このまま可哀想な沙羅を抱きしめたいという衝動。ただ、アキラは大切な沙羅を汚したくなかった。たとえ、母子家庭であっても………。
ついさっき、沙羅は帰ろうとするアキラに声をかけた。
「アキラ君、今夜はここへ泊まって。」
沙羅の問いかけは、アキラの心を乱した。
「それはいけないことです。」
此の期に及んでもアキラは手を出さない。そのままアパートを出ようとするアキラに、沙羅は突っかかっるように言葉ををなげる。
「弱虫ね。」
「沙羅先輩には、他の男の人がいますよね。しかも、子供さんもいるし…。僕が手を出すわけには行きません。」
アキラの言い聞かせるような言葉が沙羅には癪に触る。沙羅にとってアキラは、昔と同じように唐変木にしか見えなかった。沙羅は半分怒りながらアキラを押し倒し、アキラの首に抱きついた……。
キスを繰り返す二人は、久しぶりに互いの匂いに気づいた。若い頃に嗅いだ互いの匂い。沙羅は火がついたように自分の服を脱ぎ捨てる。浮かび上がる沙羅の鎖骨と痩せた身体。露わになった沙羅の豊かさ。暗闇に浮かぶ白さ。それらが沙羅の悲鳴に似た声とアキラの理性とを揺さぶる。
その高ぶりは、別れた夜と同じだった。転がり始める二人の心。思いというより本能に近い。互いを求める腕と唇。上を向く首筋と絡みつく黒髪と口。いけない、いけない。すがりつく沙羅の痩せた肩をやっとの思いでとどめつつ、アキラは心を鬼にして自分を留めた。
「先輩、待ってください。」
喘ぐ言葉では沙羅を止められない。
「今日は酔っているんですよ。決して拒否するわけではないです。物事には順番というものがあります。先ず、忍くんたちが僕を受け入れて、結婚してからのはずです。」
アキラの言葉に沙羅はようやく動きを止めた。
「そんなのいらない。今、今あんたが欲しいんだよ。」
「待って!。明日休みを取っていますから、またここにきます。忍くんたちを一日貸してください。」
そう言って、アキラは沙羅を振り切って、ドアの外へ逃れていく。沙羅はその彼の背中に半泣きの言葉をぶつける。
「弱虫!唐変木!馬鹿野郎。馬に蹴られて死んじまえ。」
アキラは振り返らず、アパートの外の闇へ消えていった。
………………………
次の日の朝、アキラは約束通りに沙羅たちのアパートに来た。
「相楽さん。お迎えに来ましたよ。」
アキラを迎えたのは、忍。百合も起きていた。
「おー!。おじちゃん、おはよー。」
家の中は、昨夜の騒ぎのまま、沙羅も酔ったままだった。
「沙羅さん?。 うー、まだ酒臭い!。」
「ママはいつもこうだよ。」
沙羅は呻いたまま顔を突っ伏している。昨夜のことでアキラの顔をまともに見られない。アキラも強いて沙羅の顔を見る気にはなれなかった。
「そうなんだ?。とりあえず、朝ごはんを用意するね。」
「えっ、朝ごはん?。今まで食べたことないや。」
「そうか。」
アキラは、沙羅の毎日の暮らしぶりがわかったような気がした。また、女一人で子供たちを育て上げる困難を想った。
「今日は病院を休んでいてください。連絡をしておきます。忍くんたちと三人で、多摩動物公園へ行ってきますから。」
是政線北多磨駅から京王線武蔵野台駅への道は、のどかな畑地の道だった。百合は首飾りを気に入った様子。忍もミニカーを握りしめている。アキラは小さな忍の手を引きながら、忍の姿に昔の自分を重ねていた。
「おじちゃん、あれなんだあ?」
送電線や農作業車を次から次へと指さしながら、忍は質問をしていく。ちいさな質問魔にアキラは笑い始めた。自分も質問魔だった……。周りは迷惑、困らせていただろう。その意味では苦笑い。これらの子達が安心して自分に身を任せてくれる。その意味では慈愛の笑い。アキラは自分が身を任せた天と家族たちに想いを馳せた。
動物園は、平日であることもあって、余りこみあう様子はなかった。ライオンバスに乗り込んだ忍と百合は、はしゃいで歓声を上げ続ける。昼の早い時間には、二人はすっかり疲れ果て、百合は腕の中で、忍はアキラに負ぶわれている。帰路、アキラは子供独特の甘い匂いを嗅ぎながら、沙羅たちへの愛情を強めていた。
アパートへ帰り着くと、夕方四時になろうとしていた。沙羅は既に夜の職場へ出かける準備。
「ただいま帰りました。」
沙羅はアキラを見ようとしない。
「楽しかったよ。」
沙羅は洗濯物を畳むことに集中するふりを続けている。
「あのう、怒っている?。」
アキラがそう言葉をかけた時、忍が目を覚ました。忍は、二人が気まずい雰囲気であるのを見て取って、何かを考えているようだった。
「二人とも仲直りしろよな。昨日、おいらが寝ている時も取っ組み合いをしていたじゃねえの?。ママが自分の服とおじちゃんの服を脱がして……乗っかっていじめていたよね。『弱虫!唐変木!馬鹿野郎』って。」
アキラは、忍の言葉を聞いても、まだ沙羅を怒らせた原因を考え込んでいる。そのアキラを一瞥した沙羅の顔は赤かった。沙羅には、息子に何をしているかを、見抜かれているように思える。それに比べて、何も察していないアキラの間の抜けた顔が、口惜しかった。




