不整合
ブーン。ドッカドカドカ
研究室付属の整備工場では、アキラが中心となって開発して来た新しいエンジン系のアイデアが試されている最中だった。
「班長、この音がすると言うことは、対向配置による振動相殺が、うまく生かされていないんですよ。問題はバルブ作動の不整合にあるんじゃないですか?。遊びのあるギアよりもタイミングベルトの方がいいと思いますが。それから、オクテンセレクターのマニュアル調整で見ていくのでは、整備の時間を浪費しますよ。即応性がないと思うのですが。」
「そうですね。でもそれ、明後日までに調整を完了できますか?。それから、オートチョークの最適化も試したほうが良いかもしれませんね。それと…、あの…申し訳ないのですが、野暮用があって今日は定時で帰り、明日は休みます。」
離れたところから、部下達の声がかかる。
「へえ?。班長さん、珍しいですね。こんなに早くに上がるなんて。」
このやり取りに気づいた年上年下の部下たちが、アキラの意図と関係なくアキラの周りに集まってきた。別の一人がこんな質問をしてくる。
「昨日の夕方も早く上がっていましたよね。明日もお休みですか。公園であったあの女の人?」
困ったものだ。部下たちがニヤニヤしている。
「えっ?」
アキラは一生懸命に誤魔化すように返事をしていたが、その試みは失敗だった。
アキラは、真っ赤な顔をしたまま逃げるように事業所を後にした。昨日訪れた病院長室へと急ぐと、日の長くなった夕暮れらしく病院長室は朱色の光に満たされていた。
「こんばんは。」
待っていたのは、沙羅と二人の子供。アキラの挨拶に、沙羅の娘と息子は、母親の陰に隠れて、容易には打ち解けない。
「この子は忍、この娘は百合。六歳と三歳になるんだよ。」
子供がいる現実。それがアキラの心の中に渦を巻き起こす。その様子をうかがいながら沙羅は言った。
「この子たちの父親は、誰だか……不明なんだ。向島を離れてからすぐに、生きるためにいろんなお付き合いをしてきたから……。」
アキラは狼狽えた。沙羅の言い方は軽い。現実には、男の捌け口となり、相手をさせられ、孕ませられ、子供まで……。沙羅がその身に受けたものがこれだったのか。今も他の男のものになっているのだろう。アキラは、様々な思いを錯綜させる。
アキラが子供達に挨拶すると、沙羅は静かにアキラの前に子供達を近づかせた。アキラは積極的に子供達と関わらせようとする沙羅に戸惑った。沙羅は何を意図しているのだろうか。
「この人は、あんたたちのママの大切な人だからな。いい子にしな。」
沙羅の乱暴な口調。しかし、子供達は驚く様子もなく慣れている様子てある。アキラは用意してきた土産を見せると、幼い二人は目を輝かせる。百合は、お手製ステンレスの首飾りに手を伸ばす。忍はレオーネのミニカーをうばいとるように受け取る。
「すげえ。」
忍は、初めて声を出した。ミニカーの前、横、ドア、車輪、目の色を変えて、いつまでも眺めている。
「この子、とても機械が好きなの。壊したり、組み立てたり。すこし器用だしね。多分、私の父に似たのね。」
忍のミニカーの扱いに見とれていたアキラは、我に帰った。
「このお近くにお住まいなんですね。」
「そう。今は母子家庭よ。この子たちにはお父さんがいないの。そこで、お願いがあるの……。忍たちを家に連れて行って、私が帰るまで、特別に面倒を見てくれないかしら。」
沙羅は、鍵と簡単な地図と住所を渡しながら頼んだ。
「いいですけど……。」
アキラには戸惑いがあった。なんでこの僕に頼んだのか。もう、逃げないというの意思表示なのか……。沙羅の住まいに行くということは、忍たちの父親になってほしいということか?。それはいいとして、子供の面倒をうまく見ることができるのか。夕食はどうするのか。様々な考えを堂々巡りしながら、新小金井駅近くのアパートに、忍や百合とともにたどり着いた。忍はアキラの手を取ってどんどん階段を登っていった。アキラを引っ張っていく忍の手は小さく、片方の手にはレオーネのミニカーをしっかり握りしめていた。
アパートの隣人らしい女がアキラを見て、三人に話しかけてきた。
「しのぶちゃん、新しいパパさん?」
「ウン。そうだぜ。すっげえひとだぜ。」
アキラは、乱暴な言葉遣いの忍を見て、これから行く処がどんな住まいなのかを考えなから、会釈をする。アパートの二階に上がると、そこに沙羅たちの住む部屋のドア。苦労して開けたところは、六畳とキッチンだけの狭い部屋だった。
「そうか、先ずは風呂、そして食事かな。」
忍や百合を促して近くの銭湯へ出かける。忍はミニカーを、百合は首飾りを洗い場の中にまで持ち込んでいる。風呂から出たあとも、彼等はおもちゃに夢中だった。
「おじちゃん、これはジェット噴射口だよな。」
忍は大声で質問。
「これは、排気管なんだ。車は、エンジンで車輪を回して走るんだよ。」
アキラは笑いながら応える。横から百合が負けじと声を掛ける。
「ねえ、おじちゃん。これはこうすんの?。
「そうだよ。」
「ねえねえ、わたしきれい?。」
「そうだね。」
「百合!。今は俺が聞いているんだから、あっちいけ。」
「ちがうもん!。わたしの番だもん。」
二人は喧嘩を始めてしまった。アキラは大泣きする百合を抱き上げて叫んだ。
「二人とも、順番、順番!。僕は逃げないから!。」
「もう会えないんでしょ……。」
突然塞ぎこむように、忍が声を落とした。
「えっ?。」
「ママがそう言ってた。」
「それはちがう。」
「どこかへ行っちゃって、もう来ないんでしょ?。」
「違うよ。まあ、明日も休みだからなぁ。」
「どこへも行かない?。」
「いや、みんなで行こう!。」
「えっ!。」
忍は驚いたように声を出した。百合も、アキラの首に力いっぱいに抱きつく。アキラは喘ぐように声を出した。
「じゃあ、そろそろ風呂から出ようか。」
「これは尾翼じゃねえの?。」
新小金井駅近くでの夕食。まだ忍は質問をしている。
「尾翼なんて言葉、よく知っているねえ。でも、これは、車を地面に押し付ける力を得るための翼なんだよ。」
忍は、ミニカーの底部、エンジンルームなどを指差して、アキラを質問責めにしてくる。百合は首にかけ、コップに写る自分の姿に見入っている。沙羅のちいさな幸せ、守りたいものを見たような気がした。
帰り着いたアキラは忍たちを寝かしつけながら、残った家族の帰りを待った。
………………………
沙羅は夜遅かった。酒の匂いをプンプンさせている。
「おかえり。毎晩大変なんですね。」
「そうね。稼がないとやっていけないから。普段だと、今頃晩御飯なのよ。」
アキラは、自らの母子家庭の時を思い出していた。
彼は葛飾区堀切の育ちだった。北向き地蔵の竹林の裏に、ひっそりと建てられたアパート。その一室に母子で生活した日々は、苦しくも安心して過ごせた優しい記憶だった。向島に今の後見人の重蔵もいた。しかし、沙羅母子は、孤立して頼るものもおらず、孤立していた。




