蒼乃風
プロペラ機の響き渡る空。その下に緑地と鬱蒼とした林が広がる。昼前のまだ涼しいひと時。この頃になると、国際基督教大学の裏手に当たる野川公園には、木陰を抜ける風が吹き始める。
乾いた音が、木々を通り過ぎて今の季節の流れをものがたる。沙羅の控えめな声が、幾人かの男を通り過ぎてきた時の流れをものがたる。
「今日は、そろそろ暑くなると思いますよ。」
沙羅は車椅子を押しつつ、座っている老人に話しかけている。老人は風や時のことを全て分かっているよ、とでもいうように短く返事をする。
「ああ。」
車椅子は、その風により案内されるように、公園駐車場から続く遊歩道をゆっくり進む。また頭上のプロペラ機か低空で飛んでいく。
沙羅が高校を辞めてから八年後、一九八四年の春も終わろうとしていた。
「忍君と言ったな、息子さんは何歳になるのかね。」
保育士の周りを園児たちが駆け回る。芝生の上の彼らは、公園近くの病院併設保育所から来ていた。
「息子は七月でもうすぐ六歳になります。娘の百合は、五月で三歳になりました。病院付属の保育園では、ほんと迷惑を掛けっぱなしで…」
「いいや。うちの保育所は夜勤向けのために、どうせ朝までやっているんだ。夜のお仕事の際だって、気にしなくていいんだよ。」
「ホステスまでやっている母親で、子供達は育っていくかどうか心配です。」
「なあに、心配なんか何もないさ。分解されたオモチャを見ると、丁寧に解体されていたね。あんたの息子さんは、利発で手先が器用だ。娘さんも、あんたに似て美人さんだよね。ほんと良い女になるよ。」
働く毎日のこと、沙羅は帰宅するたびに子供達の顔を見て疲れを癒していた。
もう昼休みが始まったのか、富士重工の作業服を来た男たちがバレーボールに勤しんでいた。技術会の話題をしているところから見ると、講習会から帰ってきたのだろうか。打ち損じたボールが、沙羅たちの方へ転がった。それを追って、一人の坊主頭の若い男が子供達の前に走り込んだ。
「おーい、子供たちもいるから、そろそろやめようぜ。」
遠くから声が掛かった。
「そうしよう!。」
若い男はそう言いつつ、目をあげた。眩しそうな視線は沙羅の目と絡み合った。動きを止めた男。怪訝そうに見返す沙羅の顔。彼は夜の客だろうか。まごついた口許。なけなしの勇気。
昔からの沙羅の客の男なら、さも金を持っているという態度を見せながら、好色な表情をあからさまに浮かべるのだが。この男は初心な高校生のような表情を見せる。
「相楽沙羅さん?。」
「えっ……。てめえ誰だよ?。」
沙羅の口からは、反射的にいつも使っている荒っぽい言葉が出た。あのしつこい柳瀬権蔵の配下と考えたのだった。しかし、その男の馬鹿のつく正直な表情は、困惑そのものだった。
アキラは狼狽して帽子を取って挨拶をし、そのまま立ち去ろうとした。見覚えのある悲しそうな横顔。遠い昔のお花茶屋駅前でもみた横顔。沙羅は、生真面目な坊主頭で確信した。
「あっ、アキラ……くん?。なんでだよ?。どうして?。」
アキラは気づいてくれたか、と言う顔をして、沙羅の目を真っ直ぐに見返す。
「失礼いたしました。沙羅先輩でありますか。」
昔の馴染みのある生真面目な言い方だった。
「また、そんな言い方をしているのかよ?。相変わらずな奴。」
「いえ。僕はこんな言い方をするのは久しぶりです。八年前の高校時代に戻ったみたいで……。あれから随分と時が経ちました……。先輩は今までどうしていたんですか。何故いなくなったんですか?。」
「あんたに悪いことをしたからだよ。強引に迫ってしまって……。」
「それだからって……。」
沙羅は声がけに応じたことに後悔し始めた。
「今だってあんたを混乱させているしな。会わない方がいいんだよ。」
「そんな風に思っているんですか。僕がどれだけ探し、待ち続けたか。貴女との糸を手繰り寄せる為に富士重工に就職したんです。僕は……。」
それ以上、二人は言葉が出てこなかった。
大沢老人は、興味深そうに二人のやり取りをみて、声をかけた。
「アキラさんといったかね。あんたは、随分と真面目そうなひとだね。制服から見ると研究所のひとかな。」
遠くから、事業所の仲間たちが声をかけて来た。
「班長さん、先にいくよ。」
「うん。今日は先に帰っていて下さい。」
大沢老人は名刺を取り出し、アキラと名刺交換をした。
「私はそこの病院の理事長、とは言っても隠居でね。」
「僕は、この近くの事業所に勤めています。」
「相楽さんには、私の病院で看護助手をしもらっているんだ。時々こうして病床の私の面倒も見てもらっているがね。」
「看護助手ですか……。人助けをしているんですね。」
アキラは眩しそうに沙羅を見つめている。
「アキラ……君、私の本業はホステスなんだぜ。今は、大沢先生に拾ってもらって病院にいさせてもらっているけどな。あんたが想像しているような立派な女じゃねえよ。」
横から大沢が遮った。
「まあ待ちなさい、相楽さん。」
大沢老人の名刺には病院の名前とともに理事長という肩書きがあった。アキラはその名刺を凝視してしばらく動かなかった。
「『河原アキラさん』ね。『研究開発本部駆動系技術開発部解析班長』とは、技術屋さんだね。」
「はい、その通りです。大沢先生、とお呼びすべきでしょうか。先生と沙羅先輩とはどんな関係……。」
アキラはそういいつつ顔を強張らせはじめた。大沢は、アキラの心の中に広がっていく疑念を悟り、沙羅に声をかけた。
「相楽さん、話しが長くなりそうだから、後で私の名刺に書いてある病院に来てもらいなさい。河原さん、後ほど来てくれますかな。」
大沢は、若い二人の間に交錯する感情の波から身を引くように、静かに言葉を告げた。
「では、後ほど。」
………………………
大沢は、去っていくアキラの姿を見送る沙羅の心を沈めるかのように言った
「クソ真面目、頑固者かな。若いのに珍しいね。それにしてもあの若さで班長?。相当有能らしいな。」
その日の夜、病院理事長室には沙羅とアキラの姿があった。
沙羅は、その豊かな胸を大きく強調した赤と黒のドレスを、沙羅の心の武装であるかのように纏って立っていた。
「私、こんな仕事をしているんだよ。」
アキラが手にしている沙羅の名刺には「スナックディブライム フロア担当」と書かれている。やはりホステスとは縁のないアキラが理解出来ているはずはなかった。それどころか、沙羅のドレス姿に顔を赤くし、沙羅の身体から目を上にそらしながら沙羅の目を見つづけると言う、難しい努力の最中だった。
大沢は、アキラの様子を見つつ、さらに声をかけて、部屋から出て行った。
「三十分だけでも話をしてあげなさい。」
………………………
「沙羅先輩はいつからここに?。」
最初に口を開いたのは、アキラだった。やっと探し当てたと言う思いが、顔からほとばしっていた。
「もう三年になるかな。」
沙羅の口調は冷たく自暴自棄な色を帯びている。
「三年ですか。」
「ごめんなさい。今日はこれから夜の仕事もあるから、あまり時間がねえよ。」
「お仕事は何をしているんですか?」
「私の本業は…ホステスさ。昼間はここで看護助手をして、夜は三鷹のスナックで働いている。大沢先生はその店のお得意さんで………。」
「大沢先生?。」
「先生は店のお得意様。それ以上でもそれ以下でもない。生活が厳しいから、この病院でも雇ってもらっているんだよ。」
「何故ここで……。」
「流れ流れてここまで来たんだ。生きる価値がないのにね。あれから、男達に買われ買われて、こんな女になっちゃった。なんとか生きているのが不思議なくらい。」
アキラは、ケバケバしい化粧と胸を大きく開けた沙羅の服に、まだ戸惑っている。ただ、アキラの口調は静かになった。冷たく自暴自棄に言い放つ沙羅の言葉が一つ一つアキラに突き刺さっていく。
「アキラ君は?。」
沙羅は気がついたように問いかけた。
「僕は……。この近くの国立大学を卒業してから富士重工へ就職したんです。独り身なので、いまはこの通り東京事業所に来ています。」
「確か、お父さんが機械の技術専門家さんだったね。蛙の子は蛙かあ。」
「そうですね。」
「あっ、もうこんな時間。この話はこれでおしまい。じゃあ、さよならね。」
「沙羅先輩。また明日来ます。もう、逃げないでください。」
「どうしてまた来るんだよ?。会えたのは嬉しいけど…。私はもう汚い女だよ。アキラ…君が会ってはいけない女だよ。」
アキラは、真っ正面から沙羅を見つめた。沙羅を逃すまいという気迫を滲み出していた。戸惑いながら沙羅は渋々返事をした。
「わかったよ。逃げないよ。ここに、子供達を預けているし。」
「お子さんがいらっしゃるのですか?。」
アキラは、明らかにショックを受けている。
「そう。お昼に、野川公園にもいたよ。」
アキラは、八年という歳月を思った。それは、人を変化させ、人間関係にも新しい事象をもたらしていた。アキラは、心が混乱したまま、やっとこれだけ言えた。
「また、明日来ます。」
沙羅は、子供達に会わせると約束した。




