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父親の幻影

 火のついたように泣き叫ぶ声。沙羅が買い物に出かけている少しの間にもかかわらず、泣き出した声。書斎兼寝室から出てきた権蔵はおろおろとするばかり。四歳の忍も不安そうに母親を呼んでいる。高層階の窓から響く声は、買い物から帰ってくる沙羅にも聞こえていた。

「もう、何をやっているのかしら。」

 沙羅はエレベータのドアが開くのももどかしく、自分と子供たちにあてがわれている部屋へと駆け込む。沙羅へ振り返った権蔵の手には、調合したばかりのミルク。しかし、熱すぎたのだろう。なぜ権蔵にそれが分からないのだろうか。沙羅は、哺乳瓶を奪い取ると流し台へ。

「もう、熱すぎるんでしょ。」

「でも、このくらいもう平気だろうよ。」

「熱いから泣いているのよ。どうしてなかなか覚えてくれないのかしら。」

 それでも6か月の百合は、権蔵の顔を見てほほ笑むようになった。

「そうれ、パパですよ。」

「いやいや、俺は父親ではないぜ。」

「でも、この子の父親はあなたの店の客の誰かが父親なのよ。」

「でもそれは・・・・。」

「私があなたの店に初めて務めたのが、二年前。一年前にあの店を追い出されて、あなたに引き取られたときに妊娠が分かって、この子が生まれたわ。もう間違いはないわ。」「それはそういうことなんだろうな。だから、ここに住むことを許しているんだ。しかし、父親になったつもりはないぜ。」

「そうね。でも、『パパ』には店のオーナーという意味、パトロンという意味もあるわ。そのくらいの責任があるはずよ。」

 権蔵は『参ったよ』という顔をして話を切り上げる。権蔵は経験的に、さまざまな女たちの感情の起伏を学んでいた。四十をすでに超えた年齢が余裕と風格を与えている。沙羅は、言葉を引き取るような権蔵の言葉と感情を抑えたその静けさに、亡き父親の姿を見ていたのかもしれない。

「『パパさん』なら、やっぱり子供たちのことを考えてよ。」

 忍は沙羅の言葉に呼応するように、わざと甘えたように権蔵に抱き着いた。

「パパあ」

「やめろ。俺のことを馬鹿にするんじゃない。沙羅、お前は従業員なんだぜ。」

 権蔵は押し殺した声を出した。

「そうなの。そうだったんだ。」

「なんだよ。おめえ、わかってねえのか。」

 沙羅の反論に権蔵は何かをあきらめたように見えた。それは権蔵の中で何かが変わったことを感じさせた。ただ、沙羅は少し賢かった。彼の懐ですぐに感情を爆発させるものの、権蔵の感情を読み取って賢く立ち回り、必要以上に騒ぎ立てなかった。



 ・・・・・・・・・・・


「アキラ君・・・。」

 沙羅は夢うつつにアキラの顔を思い出していた。その顔は次第に写真の父親の顔に代わってくる。聞こえるはずのない声も・・・・。


「沙羅。なあ、沙羅、聞こえないのか?。沙羅!。」

 目の前に権蔵の顔があった。

「どうしたんだよ?。何回も呼んだんだぜ。」

 権蔵の声は低い。それが余裕のあるやせぎすの顔に重なる。

「ただいま!。明かりもつけていないで、何やっているんだ?。」

 沙羅は、昨夜子供たちを寝かしつけた後、そのまま食卓に突っ伏して居眠りをしていた。沙羅は、無意識に横に座った権蔵の顔に両手を伸ばす。

「お、おい。本気か?。」

 沙羅は今まで権蔵に自分を許したことはなかった。権蔵も今まで沙羅に手を出そうとはしていない。沙羅は、休ませているとはいえあくまでも権蔵が有しているチェーン店のホステス。商品に手を出していいはずもなかった。しかし、権蔵はこの目の前の女を従業員として教育していくことに、自信を無くしつつあった。このままでは従順な従業員に教育することはあきらめるしかなかった。それなら・・・・。

 今、沙羅の瞳の奥には、寂しさ、恋焦がれ、揺れ動く心、さまざまな光の糸が複雑に踊っている。権蔵は、憐れさを感じながらその瞳に見入った。絡んではいけない沙羅の瞳の糸車に巻き取られていった。


 ………………………


 次の朝、忍が権蔵の部屋にまで沙羅を探しに来た。普段どおりなら、沙羅は忍や百合ら子供とともに自室にいなければならなかった。

「ママ、ここにいたの?。おなかが空いたよ。百合も泣いているよ。」

 沙羅も権蔵も慌てて起きだした。沙羅は、足早に百合のベビーベッドへ。権蔵は手際よく授乳と朝食の準備。そして保育園へ。沙羅はそのままブティックへ働きに行った。


 権蔵も沙羅も、互いに過ごした昨夜の意味を振り返ったのは、その日の昼ごろであった。


 ………………………


「彼を辞めさせてくれた?。」

 沙羅は権蔵を振り返りながら問いかけた。

「誰のことだい。」

「池袋の店の店長よ。もうそろそろ私も復帰したいのよ。」

「彼を辞めさせる理由はないよ。」

「あの店長は我慢ならないわ。」

「昔のことだろ。今だったら、おめえが嫌がることをさせないと思うぜ。」

「私が復帰したいと連絡したら、昔のことを覚えていたくせに、謝りもしなかったわ。」

「連絡したのかよ。」

 権の低い声には、いつになく怒りと威嚇が含まれている。沙羅は、その声に負けそうになりながらも、虚勢を張った。

「なんで辞めさせないのよ。」

「彼は今でもよくやっているというのが、俺の判断だ。」

「彼は、今でも私を金を稼ぐ道具にしか考えていないわ。」

「昔だって道具として扱っていたかよ。一生懸命君のご機嫌を取っていたし…。」

「そうなの?。私はもうあんな店長のままだったら、復帰できないわ。」

「ちょうどいい。おめえはもうあの店では働かないことになっている。」

「そうなの?。どう意味よ。」

 沙羅は、内心震えながらも、与えられた屈辱を忘れていなかった。

「まだしばらくは、あの店長と冷却期間を置いたほうがいいぜ。」

「ねえ、あの店長、やめさせてよ。」

「なあ、沙羅。彼はやりての店長だ。やめさせるわけにはいかねえな。それが俺の結論。オーナーとしての判断。これが世の中なんだよ。」


 沙羅は、権蔵をしばらく見つめていた。此奴は威嚇までする。やっぱり父親とは違う…。そう感じていた。

「私は働きたいのよ。」

「なぜだよ。働かなくたって、ここで暮らす限りは何も不自由はないじゃねえか。」

「それなら、私を別の店で働かせてよ。子供たちも保育園へ預けられるようになったし、もう働けるようになったのよ。」

「何が不満なんだよ。」

 沙羅は怖々と声を出した。

「あんたは、私を手元に置くだけ。ただ横にいさせたいだけでしょ。自由な様でいて自由がない。制限するだけ。なぜなの。」

「おめえは、一度問題を起こしているんだぜ。そのくせがもう治ったのかよ。」

「あんたがかばってくれるはずじゃないの。」

「お前は自分勝手なことばかり言っているじゃないか。」

「あんたが私をかばってくれたでしょ。」

「かばったつもりはないね。しつけなおすといったはずだぜ。」

 権蔵の本音なのだろう。

「私をしつけなおすって?。私は、しつけなおされるつもりはないわ。」

「そういって、店の仲間たちのことをどうでもいいと思っているんだろ。」

「店の仲間たち・・・・?。誰が仲間なのよ。みんな無理を言って私にあんな仕事をさせやがって。」

「あんたが一番の売れっ子なんだぜ。そのぐらいやってもらわないと。」

「『一番一番』て?。都合よくそう言っているだけじゃないの。あなただけは違うと思っていたのに。そうねあんたは、店のオーナーだものね。」

「そうだよ、おめえは俺の店の付属物だったんだ。それを自ら否定するようなことをして。…。もう、俺の個人のものにするしかないんだよ。」

「そう、やっぱりそうなんだ。」

 沙羅は今更ながらに気づいた。彼は今まで彼女を襲わなかったのに、急に手を出したのは、もうあきらめたからだった。だから、せめて自分のものにしてもよいと思ったに過ぎなかった。


「あんたはパパじゃない。」

 沙羅はボソッと小さくつぶやいてから、子供たちの部屋へこもってしまった。沙羅が子供二人を連れて権蔵のマンションを出たのは、その一週間後だった。


 ………………………


「沙羅さん、探しましたよ。」

 沙羅がちょうどスナックのドアを開けようとした時。後ろから見知らぬ男たちが声をかけてきた。何件もキャバレーやスナックの勤め先を変えてここまで都落ちしてきたのだが、また権蔵の店の奴らなのだろう。

「蛇の道は蛇ってね。この業界にいる限り、あんたのいるところはわかるんですよ。」

 浜田山の駅から奥まった町の角。一階に小さなイタリアンレストラン、二階にカットサロンが目立つ雑居ビルの階段。沙羅は逃げ場所がなかった。

「どうせ、あんた、どこへもまともに就職できねえし。この業界にいる限りは、どこまでも俺たちは追いかけていくぜ。結婚だって子連れ女を相手にしてくれる男もいねえから、隠れることもできねえよ。」

 追い込む言葉。権蔵はなぜここまでしつこいのだろうか。自分の女にすることにこんなにもこだわっているなんて。なんとか子供たちのために逃げださないと・・・・・。

「わかったわ。あした権蔵を連れてきなさいよ。」

「そういわれても。何度も逃げられているからね。」

 ビルの前には黒い車がつけられている。このまま強制的に乗せられては逃げる隙はない。

「待って、荷物を持ってくるから。」

 沙羅は、店から持ち出したキッチン用の消化器ボンベを懐に忍ばせた。権蔵の手下に向けて消火器を吹き付け、階段下へ突き落した。

「何をしやがる。」

 階段下に転んだ男の肋骨を蹴りあげた。同時に階段下の車のドアを開け、運転手目掛けて消火器を全開にして放り込む。


 もう、自分のアパートに戻るつもりもなかった。忍と百合の保育園と向かった。どうせ、手元の銀行カードぐらいしか貴重品はなかった。問題は、どこへ行くか・・・・・。

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