花蟷螂
夜中になろうとしている街の駅へ、若者たちが大勢降りていく。沙羅もその流れのまま地上へと出た。
そのまま、どこまでも地下鉄に乗り続けてもよかった。地上へ出て何が変わるのだろうか。しかし、車内案内は、はこのままいけば地上に再び出てしまうことを告げていた。それなら、皆が下りるその流れに身を任せたかった。
六本木駅の出口、MEIDIYAの前から霞町への坂をそのまま降りていく。沙羅の荷物は、亡き母の形見の和服と帯、握り飯と漬物、少しばかりのたくわえ。それだけ。
六本木から歩き始めてすでに二時間。大通りの両脇には青山学院の学び舎。通うはずだった学校・・・・。その脇を通り過ぎて、どこへ行こうとしているのか。何か確信があるわけでもない。目の前にあった道をただ進んでいくだけ。もう、想いを彼にぶつけた後であり、満足なはず。これからの沙羅は空っぽのはず。沙羅は、アキラへの思いを、今までの生活を振り切るように、足を速めた。
………………………
長い夜。歩き続けでも夜明けは来なかった。
灯火のガラス面のようなファストフードの外窓。外への行く手を失った虫たちが灯火のガラス面に群がっている、と見えたのは人間達。その中へ入っていく沙羅自身も、同じ虫けらだった。中の若者たちは身動きはするが、どこへ逃げることもできないらしい。
その中から外へ出るには、さらに何かを捨てていくような気がした。今更、何があるというのか。いや、捨てていけるなら、その方が良い。過去も、記憶も、何もかも……。
店を振り切るように出ると、夜明け。そこは宮下公園だった。
もう食べ物もなかった。ベンチに座り込んでいれば家出少女ということは一目でわかるのだろう、若い男から声がかかる。
「どうしたの、デビューしてみない?。」
「女優をしてみない?。」
声がかかるたびに逃げる。そのベンチから離れたところにまた座る。逃げれば、別の男達が寄って来る。
しつこかった。彼らは断っても意に介さない。もっとまともな就職がしたいのに。学歴のない沙羅にまともな就職口があるわけはなかった。
「なあ、いいだろ。つきあってくれよ。」
先ほどから黒背広の男が沙羅の座るベンチの前に立っている。しつこく食い下がってくる。沙羅は、目を吊り上げるようにしてにらみつけるが、そんな若い女のしぐさには慣れている様子だった。空腹の虫が鳴く。沙羅はたまらずに立ち上がって逃げ出そうとするが、若い男の強い手は沙羅の腕を放そうとはしなかった。
「どこへ行く当てもないんだろ。空腹なんだし…。悪いようにはしないぜ。」
「いやよ。いやだったら。」
どのくらい争っていただろうか。沙羅の背後から別の声がかかった。
「お兄さん、この子は嫌がっているんだろ。やめときな。」
沙羅が振り返ると、上品なスーツ姿の壮年の男が立っていた。
「何だよ。てめえはよ。」
「やめろと言っているんだ。」
「おめえが横取りすんのか?。」
「横取りとは聞こえが悪い。この子を助けようとしているんだ。」
「俺も助けているんだぜ。」
「本人が嫌がっているじゃないか?。」
「頭が悪い女の子は、いつもそういうんだよ。」
「私は拒否しています。これは明らかに強要です。」
「この子がはっきり態度を示しているじゃないか。あきらめな。」
最後の言葉にドスが効いていた。若い男は、獅子ににらまれたコヨーテのように背を丸める。沙羅も背後の男が若い男をにらみつけているのだろう。
若い男は、沙羅の腕を放に逃げていった。それを見送った壮年の男は、沙羅に声をかける。
「なんでこんなところに…家出かい?。」
沙羅は黙っていた。何かを話して足元を見られるより、黙っていたほうがよい。そう考えていたから。
その男に食事を奢ってもらったのが、その後の生き方の始めとなった。その男は金を出して食事をさせてくれたが、見返りも求められた。そうして何人もの男に買われていき、何人もの男が沙羅の身体の上を通り過ぎていった。次の日も、次の日も、渋谷から新宿の辺りで、誰かに買われてどこかの部屋に紛れ込んでいた。未成年の沙羅にとって食べて生きる手段は、それしかなかった。男達は沙羅を助けようとしているわけではなく、沙羅の幼さと世間知らずをいいことに、混血の若い娘の血を求める吸血鬼のようなものだった。
ふと思い出したアキラの肢体。それがアキラのにおいとアキラの言葉を連想させた。
「アキラ君はこんなことしなかった。」
ある日の昼下がり。沙羅は、ある男の部屋から逃げ出したところだった。
「あんな男、私を知人たちに売り渡そうなんて・・・・。」
しかし、持ち出したものは母の遺品のみ。着の身着のままで飛び出した沙羅には、行く宛がなかった。
空腹が彼女を新橋で下車させた。匂ってきたのが立ち食いソバ。それを食べてしまい、もう有り金はなかった。足の向くまま駅前広場から銀座の街並みへ歩いていく。
銀座九丁目の交差点は相変わらずの混雑だった。沙羅はビルの窓際に座り込んでしまう。どこへ行く当てもない心許ない思い。うつろなまなざし。無気力な表情と疲れ切った身体。彼女の姿を街角の一部のように通り過ぎていく人の行き来。ふと、駅のほうから来た和服の女が目の前を過ぎていく。
「すみません。」
「なにかしら?。」
沙羅は唐突に声をかけたのだが、和服の女はゆっくり振り返った。
「この和服、買い取ってくれませんか。」
女はすこしばかり驚いた顔をし、沙羅の姿を頭から足の先まで眺めている。
「どうしたのかしら。何か事情があるみたいね。」
「この和服、母の着ていたものなので・・・・。」
「あなたのお母さん?。お母さんはどこに?」
「母は亡くなりました。ほかに、家族はもう誰もいません。」
「何か事情があるようね。いまいくつ?」
「二十です。」
沙羅は少しばかりうそをついた。しかし、ハーフの目鼻立ちは年上に見えるらしい。
「そう。それなら、和服を見せてもらってもいいけど…。少し付き合ってくれるかしら?。」
女は沙羅を伴ってコリドー街に面したビルの暗い二階へと昇っていく。『会員制クラブ あけぼの』と書いてあるドアを開けると、そこは少し狭めだが上品なバー、女はここのマダムだった。
「着物は見せてもらったけど、買えないわ。あなたが大事にしまっておきなさい。」
「でも、お金になるのはその着物ぐらいしかないんです。」
「そう、それなら買い取ってあげるけど。いくらほしいの?。」
沙羅は、覚悟のうえで思い切って形見の和服を売ろうとしたが、どの程度の金を必要としているかは決めていなかった。
「買い取ってあげてもいいけど、そのお金が無くなったら、どうするつもり?。」
「…。」
「それなら、うちで働く?。あなた、ハーフの美人だし、売れっ子のホステスになれるわよ。」
沙羅は、マダムの後をついて銀座の街中を歩いた。資生堂の化粧品からつばの大きい帽子、フェラガモの靴までマダムの見立てで与えられた。それらは沙羅の知らないブランド品。細身の沙羅にも日本人向け服の胸部はきつめであったものの、パステルカラーも、赤と黒の取り合わせも、沙羅を際立だせるものであった。
マダムは、沙羅を自分のマンションの隣室に泊まらせ、次の日から沙羅は店のフロアに出た。
「みなさん、今日からこの店で働いてくれる新人さんよ。名前は沙羅ちゃんね。」
マダムは店中に挨拶をしつつ、沙羅をみんなに紹介した。
「はい、沙羅とお呼びください。よろしくお願い申し上げます。」
「へえ、しっかり話せるじゃない。」
先輩のホステス達も、常連の客たちも、珍しいハーフの新人に優しかった。
「さあさあ、お姉さんたち、それから沙羅ちゃんも働きなさいよ。」
「美紀ちゃん、沙羅さんに店の内部を教えてあげてね。奈美ちゃん、お客様のコップが空っぽよ。」
マダムはてきぱきと指示をしつつ、常連との会話もしていく。沙羅は夢中だった。ここでホステスの仕事の仕方を懸命に学んでいった。沙羅は一通りの常識をわきまえ、徐々に固定客を増やしていった。
・・・・・・・
二年がたち、沙羅は博学な一人前のホステスとして、クラブあけぼののマダムに信頼されるまでになった。
「沙羅ちゃん、私、常連さんと少し出かけてくるわ。一晩この店をお任せしてもいいわよね。」
「はい。」
店はいつもの通りに開店した。マダムはいないものの、沙羅は先輩や後輩たちとともに、要領よく店を回していた。その時に、マダムの翻意にしている壮年の男が閉店間際の店に姿を見せた。
「こんばんは。お邪魔するよ。」
「いらっしゃいませ。石山様。残念ながら、マダムは急にお得意様のお相手があって、今夜はこちらに来ないんです。」
「なんだ、そうなのか。」
石山と呼ばれた男は、ちょうど四十歳にになったばかりだと聞いている。彼はがっかりした風も見せず、奥の席へと進んでいく。閉店間近でもあり、いつもの席は空いていた。
「美紀さんたち先輩に、石山様のお相手をお願いできますか。」
「ごめんなさい、私この後、同伴なのよ・・・。」
「サラちゃん、あなたしかいないわね。あのおじさん、話題がめっちゃむずいのよ。」
確かに石山は、経済官僚の企画官らしく仕事上の話が多い。話題とも愚痴とも取れる世の中の流れについて、一通りマダムに吐露する。身だしなみは清潔なのだが、深夜の生活が多いためか、肌は荒れている。いつもは、この店からマダムを送りつつ独身寮へ帰宅する。しかし、今夜はマダムがいない。寂しがり屋の彼が、今夜一人で店から帰っていくとは考えにくかった。
「申し訳ありません。石山様。マダムがいないもので…。今夜は、未熟者ですがわたくしにお相手させてください。」
「ああ、君か。確か、沙羅ちゃんといったね。」
石山の話は、省内の仲間たちの噂、日米の貿易摩擦、自動車輸出規制、郵政省との争い、外務省に対する不満、電子協などの業界団体の動きなど、多岐に渡る。普段なら頭の良いマダムが固有名詞を出しながら話し相手になる。今は、沙羅が持てうるだけの知識と新聞記事から見えてくる世の中の動きを思い描きながら、相手をしていた。
「サラちゃん、よくものを知っているね。」
「いいえ、みなさんが教えてくださったことばかりです。おかげさまで勉強になります。」
「君がこんなに頑張っているんだ。マダムも鼻高々だろうね。マダムからよく君のことは聞いているよ。」
「おかげさまで、マダムにはよくしてもらっています。」
「それなら、常連の私も君を慰労しなくちゃいけないね。」
「うれしいですね。お付き合いしちゃおうかしら。」
「構わんだろう。今夜、閉店後に少し付き合わないか。」
すでに、午前一時は廻っていた。石山は沙羅をタクシーに伴い、国道二四六を下っていく。降り立ったところは霞町交差点。昔さまよった街角。少し前の思い出がよぎる。
「もう食事としたら、ここのラーメン屋ぐらいしかないね。」
交差点を北へ曲がると、深夜の仕事を終えた放送局の男女たちがラーメンをすすっている。
「ここはね、体力を回復するための大事な場所なんだ。ここで一晩を過ごして、明日からまた職場に出ることにするよ。」
石山はそう言って、さらにラーメンを勧めた。豚骨スープは沙羅にとって初めての濃厚な味わいだった。しかし、腹には合わなかったのかもしれない。帰宅しようとした沙羅は腹痛を覚え、倒れこんでしまった。
「沙羅ちゃん、どうしたんだい。」
「急におなかが痛くなって。」
沙羅は蒼い顔をしている。石山は沙羅の様子を見て慌てた。
「うーん、仕方がない。この近くのシティホテルに別々に部屋を取ろう。私も明日は審議会があるから、しっかり休息をとらないといけないんだ。」
霞町のシティホテル。沙羅は自室のトイレに倒れこんだ。ひどい腹痛は、やはり豚骨ラーメンのせいだろうか。何もかもシャワーで流し落としたかった。
ノックをすると、奥から石山の声がした。
「はい。」
「沙羅です。」
少しドアが開く。その隙間から見えたのは、シャワーを終えたばかりの石山。彼は驚いたようにドアを全開にした。
「どうしたんだい。」
「今夜は申し訳ありませんでした。」
「もうお腹は大丈夫なのかい?。」
「はい。」
「まあ、そこに立ちっぱなしでもなんだから・・・・。」
時計はもう午前三時を回っている。沙羅は、少しばかりお礼を言ってから自室へ戻るつもりだった。石山は、風呂上がりの沙羅を避けるように、視線を外す。
「今夜はこんなにも迷惑をかけてしまって。」
「まあ、なじみだから構わないさ。」
「一言だけ、お礼を申し上げないといけないと思いました。」
「そう。」
石山は遠慮がちに沙羅を見返した。
「女性は見慣れているんだが。君ほどの女性は見続けることができないんだよ」
対面の石山からはオーデコロンの香り。何かを感じた沙羅は、急に危険な香りを感じた。
「ありがとうございます。それが言いたくて・・・・。でも、もう帰ります。」
すっと立った沙羅は、少しよろめきを見せた。それは偶然だったのか、沙羅の意思だったのか。少なくとも石山の何かが沙羅を惑わした。そして沙羅が増幅した何かを石山はまともに被っていた。
沙羅の肩をとらえた石山の手。その手に沙羅は両手を重ねた。二人は向き合って部屋の奥へ戻っていった。石山との一晩だった。
数日ののちの昼間、沙羅はマダムから呼び出された。
「これ、預かっていたあなたのお母様の和服よ。これをもって、出て行ってくれますか?。」
沙羅は、マダムの静かな口調に含まれる怒りを悟った。石山と過ごしたことが、マダムに悟られている。
「あなたは、恩をあだで返したのよ。ここまで育てて、大切にして、信頼していたのに・・・・・。」
沙羅は何も言わなかった。
「マダム、今までありがとうございました。」
沙羅はその言葉だけをマダムの背中に向けて静かに残した。マダムはただただ無言のまま沙羅の出て行った出口を長く見返すこともなかった。
・・・・・・・・
池袋駅の東側のビルの一角。直通エレベータがまたお客を運んできた。
「いらっしゃいませ。」
男女の従業員の声とともにフロアーに男が降り立った。冬なのに汗をかきながら出てきた吊りバンドのデブ男。年齢は四十といったところか。入り口横の祭り太鼓がドンと一回。ウエルカムサービスの太鼓が湿った音を響かせた。
「みゆきちゃんを呼んでください。」
彼は迎えたバーテンダーにいきなりそう言いつけた。入り口の右手には、キャバレーに所属する女の子たちの写真がずらりと張り出されている。きらびやかなキラキラ照明に、生バンドの声と演奏も響いている。そこを通り過ぎた彼は、写真を見ることもバンドの演奏にも注意を払わない。わき目も降らずに進み始めた彼を、若いバーテンダーが慌てて追っていく。彼は、勝手知ったる風に、そのまま奥へ、高めの仕切りで仕切られた一角に座り込んだ。
「いらっしゃいませ。」
若いバーテンダーがおしぼりを手渡す。デブ男はそれを慣れたように受け取った。おしぼりで手をふくのではなく、顔を、首周りをそしてわきの下まで拭きあげている。もちろん、バーテンダーはピクリとも表情を変えない。
「みゆきちゃんを呼んでください。それからカツサンド三つね。」
「はい、ありがとうございます。少々お待ちください。」
彼が指名したのは沙羅だった。まだ二十二歳の新人ということもあって一番の人気だった。しかし、今夜の沙羅は、店長の説得に対して抵抗をしていた。
「なによ。あんなドスコイ肉団子を相手に、なんでこんなことをしなけりゃいけないの?。」
「みゆきちゃん、あんたよ、もう未成年じゃねえんだよ。また同伴してあげなよ。」
「あいつ、金がありゃ何でも可能だなんて言いやがって。私が座ろうとすると、いつもサッと手のひらをお尻の下に伸ばして…。睨んだら鼻の下も長―く伸ばしやがって。一昨日なんか、すぐにホテルに行かせるんだよ、不細工のくせして。」
「彼はさあ、金離れがいいし、大切な常連さんなんだよ。」
「もうやだよ。あんなムッツリ肥満児。」
三十代の店長は、ため息をつきながら沙羅を見つめる。説得の仕方を変えてきた。
「あのお客は、もうすぐ四十なんだよ。妙なプライドがあって自分から話しかけることもできないんだ。それでいて寂しいのさ。彼にとっては、ここが最後の心のよりどころなんだよ。」
「そんなの、そいつが悪いんだよ。」
「そんな男たちでも、一生懸命働いているんだぜ。この店は、そいつらのベースキャンプなんだよ。だから、支えてあげるのがお前たちなんだぜ。」
「そんな男を相手にするなんて、もういやです。」
「みゆきちゃん、ワガママはこれくらいにしてくれるかな。」
「わたしはそんなことをするためにここにいるわけではないわ。」
「あんたは、彼らを支えてなんぼの存在にすぎないんだぜ。少しくらい可愛いだけじゃないか。そんなわがままならもうこの店にはおけないね。」
店長は、切れ気味に言葉を終えた。沙羅は、見上げるようにして店長を見つめた。その顔色のどこかに逃げ道がないかを探すように。店長は視線を外すように立ち上がる。黙ってフロアに通じるドアを開けて。彼の眼は、『これが最後のチャンスだ』と語っていた。
「マスター。こんなところで何の騒ぎだい?。」
開いたドアの先に、時々店に来る男がいた。三十前後のマスターよりも、さらに二十年歳上のように見える。常連の客?。周りの客が助平心でがっつき気味なのとは違い、焦りを感じさせない紳士。物腰の柔らかさと噛んで含めるような言葉は、昔亡くなった優しい継父を連想させた。その主は、オーナーの柳瀬権蔵だった。
「あっ、オーナー。みゆきちゃんがお客の同伴を嫌がっているんですよ。」
「みゆきちゃん、嫌がっていたら商売が成り立たないよ。まあ、みゆきちゃんはまだまだ先がある子だから、まずは予行演習が必要かな。マスター、今日は勘弁してあげてよ。俺の方で教育してみるから。」




