嵐の夜
ラジオがしきりに台風接近を伝えている。聞き辛い音は、アンテナを破損しているためだった。アキラがそのラジオを手に沙羅の部屋まで歩いてきた。
「沙羅先輩?。いらっしゃいますか。」
「はーい。」
沙羅は先ほど洗濯を済ませたばかりだった。台風の来ない今日のうちに、買い物も済ませておきたい。そう考えていた時、アキラの声が聞こえた。
沙羅は慌ててドアをあげた。アキラがドアから覗き込む。
「叔父が話をしたいって。来ていただけますか?。」
沙羅は、母屋のリビングに通された。そこには何回か来たことがある。
リビングの片隅には、十字架の掲げられた祭壇があった。十字架の下にはアキラの両親らしき男女の写真。母親の写真は鮮明だが、父親のそれはあまり鮮明とは言えない。メキシコ人であることはわかる。メキシコ人はみんな輪郭が似ているのだろうか、雰囲気が沙羅の父親とよく似ている。
「および立てして悪いね。」
重蔵が封書を片手に、無表情のままリビングルームに入ってきた。悪い知らせなのだろうか。彼の顔からは読み取れない。彼は、いつもあまり感情を表に出さない。
「いえ。」
沙羅は重蔵の声に少しばかり憐憫の情を感じた。悪い知らせ?。重蔵は、上目遣いの沙羅の視線を受け止めた上で、淡々と説明し始めた。
担当者が探したところでは、関連した記録があったという。その記録によれば、ジュリオ ジョーデイはエンジン納入据え付けのために来日し、宇都宮事業所へ来た。その後、本来の来日の目的である妻と娘を探すために、そのまま日本に住み着いたということだった。幸いなことに、古くからの守衛がまだ嘱託として工場に勤めており、話が聞けるという。
………………………
三日後の土曜日、重蔵は沙羅やアキラとともに宇都宮事業所へ向かっていた。
どんガタガタどんガタガタ。ゴー。振動と騒音。コイルばねの動力車輌は、大きく揺れて、乗客を勢いよく弾ませる。戦時の頃のレールとバラストそのままの東北本線は、保守の状態がいくら良くても乗り心地は良くない。
三人の乗った東北本線は、日光線と宇都宮事業所を左手に見ながら右へ曲がっていく。川を渡るとまもなく宇都宮だった。構内タクシーに行き先を告げると、数分で富士重工の工場正面につく。
彼らがタクシーから降りると、受付の守衛らしき老人が小さな窓ガラスを開けた。
「どちらさんですか。あまりみない制服だね。」
確かに都会の進学校の生徒が来るようなところではなかった。就職の面接だと思われるとしても、馴染みのない蛇腹とブレザーは、この辺りの高校では見られないものなのかもしれない。
沙羅もアキラも降り立ったところで工場の大きさに気を取られ、重蔵から声をかけられるまで周りをキョロキョロするばかり。重蔵は受付の守衛と何かを話している。
通されたのは、戦後建て直された社屋の一角の会議室であった。其処から見える空は、台風が近くにあることを示すような、どんよりしたものだった。総務課の課長から紹介されたのは、工場の入り口で迎えてくれた老守衛だった。眼光の鋭い守衛の目を三人の目が覗き込んでいた。
「先ほどは受付でご相談にのっていただき、ありがとうございました。この娘は、アメリカから来た父親を探しているのです。どうかご存知のことはなんでも構いません。教えてくれませんか。」
「うーん。名前はジュリオ ジョーデイさん?。一九五七年にジェットエンジンを外国から持って来たときに外国の方は、数人いたからなあ、会社に詳しい記録があるわけでもないんだよね。」
沙羅はいたたまれずに質問を浴びせていた。
「あの、日本で人を探したいと言うことで来た人は、いませんでしたか」
「そうさなあ、日本にしばらくいた人たちはいたね。長期の休みをとったとか、観光したいとか言ってね。あんた達のいうように、昔の女を探しにに来た人も。でも、見つからなかったようだった。」
「それで、そのあとはどうなったのですか?」
「探す間は工場で仕事をしていたよ。それから日本に住み着いていた。陽気なんだけど、寂しそうな顔をしていたのを覚えている。一九五八年のはじめに初飛行した後だったからなあ。そのあと一人日本に残って、探していたなあ。ところが一年たったら病気になっちゃって、その時には工場以外何処へも行けなかったね。」
老いた守衛は、そのとき気の毒そうな表情を浮かべた。
「病気のため探すのを諦めたのかな、看病してくれた日本の娘さんと結婚したようだった。でも、他の社員に聞いたところでは、早くに亡くなったそうだよ。」
飛行機メーカーとしての富士重工は、戦前から宇都宮にあった。戦後も初めてのジェット機が宇都宮で作られた。そのエンジンが間に合わず、急遽ブリストル社からエンジンを導入し、その際沙羅の父親も来日していたようだった。しかし、日本に住み着いた沙羅の父らしき人は、来日数年後に亡くなっていたとのことだった。
帰りの駅で、沙羅は無言のままだった。重蔵もアキラも沙羅に話しかけることはしなかった。沙羅は自分たちを探しに来ていながら、異国の地で無念の死を迎えた父の寂しさを想って、涙を流した。そして、その淋しい父の人生に自分の孤独を重ねていた。沙羅は、帰りの車が駅へ向かわずに、上空の台風の雲に翻弄されて、ぐるぐる回って走るだけのように感じられた。まるで堂々巡りの沙羅の思考のように。宇都宮の駅についた頃、重蔵は沙羅の虚ろな表情を見て悪い予感をもった。それでも日光線で鹿沼市へ出かけて行った。以前からの約束通り、友人のいる鹿沼のカトリック教会で行われる翌日のミサに出席の予定があったからだった。残った二人を乗せた東北線の電車は、次第に強くなる風雨の中、上野へ戻って行った。
………………………
台風の風雨は強くなっていた。ラジオは台風が東海地方へ近づいていることを告げていた。少しばかりの夕食を取って寝入った頃、沙羅の部屋のガラス戸を雨が強く打ち続けはじめた。突然、飛ばされた看板が沙羅の住むアパートの窓ガラスを両断するように割った。ガラス戸は壊れて外れ落ちて、沙羅の部屋は水浸しとなった。
沙羅は濡れた自分と自分の部屋とを、なんとかしようとは思わなかった。少し経ったころ、沙羅の部屋のドアを叩く音とくぐもった声が聞こえて来た。隣に住む女のそれだった。
「大丈夫なの?」
沙羅は答える気持ちさえ無くしていた。
「ねえ、大丈夫なの?。」
しばらく問う声が続いた後、複数の人の足音が聞こえてきた。ガチャリとドアを開ける音とともに、隣人の女とアキラが部屋にはいってきた。それでも、沙羅は動こうとしなかった。
「大丈夫ですか?。」
アキラの声にやっと身じろぎをした。ガラス戸が外れた窓からは、唸りとともに強い風雨が吹き込んでいた。沙羅はかぶっていたタオルがずぶ濡れの上、飛び込んだ看板やガラスが部屋じゅうに散乱していた。それでも、沙羅は声を出す気持ちも失っていた。
「あなた、大丈夫なの?。」
隣の女は若い沙羅を心配して、ぐっしょり濡れた布団から沙羅を抱き起こしていた。アキラは、外れたガラス戸を嵌めようとしていた。
「大家さん、この子をどうする。」
「とりあえず、僕の家につれていきます。」
アキラは沙羅を両腕で抱き上げた。沙羅が身を任せると、アキラは自分の家へと運んで行った。父親の死を受け入れられていない沙羅は、太い腕と筋肉質の上半身の中で、幼い時の父親が抱き上げているのではないかと錯覚していた。アキラは沙羅を風呂へと促し、自分は大工道具を抱えて再び沙羅の部屋へ修理に向かった。誰もいないアキラの家の中で、沸かしたばかりの湯船に浸かりながら沙羅は初めて声を出して泣いた。
その深夜、アキラの部屋に寝かされた沙羅には、外の風雨が遠く聞こえていた。アキラは工場のベッドに寝入っているようで、家の中に人の気配はなかった。沙羅は不意に起き上がり、何かに取り付かれたように家の外へ出た。アキラの寝入っている工場は渡り廊下を挟んだ中庭の向かい側。そこへふらりと進む間に、彼女の薄いネグリジェは雨にぬれ、大風がその裾を巻き上げる。それらが相まって無防備な沙羅の裸身を晒していた。
アキラは、中庭の気配で人が来るのを悟っていた。この家にいるのはアキラと沙羅だけ。そして、風雨の中、足音を消し、ミシリという軋みのみで近づいてくるのは、沙羅に違いなかった。
やがて、非常灯の青白い明かりに、沙羅の豊かな胸と華奢な裸身が浮かび上がった。アキラは亡霊のような沙羅の様に、息を呑んだ。
「沙羅先輩?。なにか困ったことでも?。」
「私を置いていかないで。ひとりにしないで。」
沙羅は、父親にも見捨てられたように感じていた。そして、亡き父の姿を求めるように、闇に浮かんだアキラの寝所に近づいて行った。
「そんな姿で・・・・其処からこちらへ来てはいけない......道を外れたことになります」
「誰も私を振り向く人はいないわ。私を助けてくれる親はいない。親族もいない。わたしには生きる価値がないのよ。なぜガマンしなけりゃならないの?。もうたくさん。お父さんはいない、お母さんは死んだ。継父さんも死んだ。私はひとり。苦しいことばかり。私にはもう親戚も家族もいない。貴方しかいない。でも、貴方が欲しいと思っても、貴方は受け入れてくれない。それなら死んだほうがましよ・・・・。」
そういって、沙羅はアキラの寝所に身を躍らせた。驚いたアキラは沙羅を受け止め喘ぎながら言った。
「そんなことを言わないで。僕にとって、先輩が大切な人てす。でも、今はいけない。誓いを行ったあとでなければ。」
「どうして。」
「僕は知っています。自暴自棄になっても、先輩は天に必ず拾い上げられることを。だから二人で祈りながら歩みましょう。」
「もうたくさんなの。」
真っ暗な部屋で、稲光に涙がきらめいていた。沙羅はアキラにすがり付いた。アキラは沙羅を抱き寄せることも、手を回すことさえも避ける。彼はただ、沙羅の涙と乱れ髪をキスで拭う。しばらくは、その慰めのみに努めて留めた。しかし、すがりついていた沙羅は、すっと背伸びをしてアキラの右手をとらえては自らの豊かな胸にあてがい、左手は腰回りに、そしてアキラの唇をとらえては自らの唇を重ねた。アキラの心は、沙羅の乱れた心そのままの黒髪に絡みとられていった。
アキラは己を抑えられると思っていた。しかし、己も身体の反応も相手も留めることも出来ず、心も体も転がり続ける二人は激情のまま営みまで落ちて行った。
………………………
二人は、幾度となく果てた後も互いを感じ続けていた。沙羅は、不思議に心が安定したと感じられた。沙羅は奈落まで落ちていくことが自分にふさわしいと考えていた。せめてアキラが受けてくれたことで思いを遂げられたことが、沙羅にとって慰めであったかもしれなかった。しかし、アキラは熱情のままに走ったことにより、沙羅に対してまた天に対して申し訳ないと言う気持ちとなっていた。二人は裏腹な感情のまま、互いをかけがえのない者と意識していた。
沙羅は訴えるかのように、アキラの頰と肩を撫でながら、静かに話し始めた。
「私の継父は、死ぬ時になっても言っていたのよ。『御心のままにこの身になりますように。』でも、苦しい時になんで、そんなことがいえるのかしら?。そのまま死んじゃったわ…。それが悲しすぎて。」
「御心のままになりますようにとは、お継父さんが?」
「そう、でも確かにそうね。いいところなしの私なんか、生まれてこなければよかったということが神様の御心なのよね。継父はいつの頃からか、私の味方をすることができなくなったみたいだった。今までずっと、親も継父も取られちゃうか、捨てられちゃうだけだったし、住むところもアキラ君や大家さんに迷惑かけちゃうだけだったし。だからこんなちっぽけで意味のない私なんて、御心のままにいなくなっちゃえばいいのよ。その方が楽になれるわ。」
それほど深く悲しい悩みが彼女にはあった。アキラには、慰めも与えられない無力感があった。それでも、何か道はあるはずと思いたかった。
次の日、ラジオは岐阜の水害を報じていた。アキラは沙羅がいないことに気づき、気が狂ったように辺りを探した。しかし、彼女の足取りは、ぷっつりと消えていた。失踪の日、鹿沼市から帰ってきた重蔵は旅行に行ったことを後悔した。アキラの思いはその後も募っていった。そのアキラは、加奈子やまなみに聞いて回ったが、誰も沙羅の行方を知る者はいなかった。そして、しばらく経ったのちに、アキラは加奈子や圭太たちに沙羅の失踪直前のことを相談していた。沙羅の言葉は救いを求めておらず、単なる諦めのように聞こえた。その言葉は、自己否定と深い絶望しか残っていないものだった。それは、支えてくれる者を見失った自棄的な孤独な絶望であった。
「・・・いいところなしの私なんか、生まれてこなければよかったということが御心なのよね。だからこんなちっぽけで意味のない私なんて、御心のままに、消えてしまえばいいのよ。・・・」
集まった五人にとって、その言葉はあまりに重く、解決の糸口は見出し得なかった。その後、加奈子たちはついに沙羅との再会をすることなく卒業して行った。




