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 ガタガタ、ヒューヒュー。木枯らしが窓を震わす。アパートは古いくせに雨戸がない。沙羅の借りた二階の角部屋。ストーブのない部屋。寒丹前と布団にくるまって寒さをしのぐ。沙羅の借りた部屋は、アキラのいる母屋の隣、幸せの隣にあった。

 学校からは、毎日のようにアキラとともに自転車で登下校。自転車は、重蔵がどこからか手に入れた古いママチャリ。アキラの使う重量級とは違い、少しばかり軽快な走りをする。帰宅すると、二人はその自転車を駆ったまま銭湯へ出かけていく。アキラとともに銭湯から帰宅する時には、沙羅の洗い髪はすっかり冷えている。それでも、石鹸をカタカタと鳴らしながら帰る道、そして夕食前の勉強は、楽しい語らいの時だった。

 夕食の後片付けの後、丹前をかぶりながら窓を開けると、住み慣れた小岩とは異なる風景が広がる。風の向こうから聞こえる機械音、これは工場街のもので、リズム感のある人間たちの仕事場の音だった。大家の家から聞こえるのは、食器の音、男たちの話し声、何かを研磨している音だった。

 

 この日、沙羅のところに聞こえて来たやりとりは、重蔵とアキラの会話だった。

「アキラ、明日納品の草履の仕上げは終わったのか。」

「もう、箱に入れてあるよ。」

「何読んでいるんだ?。『自動車エンジン工学』?。どこで買ったんだ?」

「学校の図書館にあったんで、借りてきたんだ。」

「へえ、血は争えねえな。アキラ。お前の親父さんも、機械技術者だったんだぜ。」

「へえ?。僕が聞いていたのは、イギリスの会社に勤めていて、日本に来ていたってことだけだよ。」

「そうだ。なくなったオメェの親父さんはメキシコ人でな、腕のいい技術屋さんだったらしい。」

「そんな人が・・・・。」

 会話を聞いていた沙羅は、メキシコ人という言葉に耳をそばだてた。

「あまり知らねえんだが、お前の親父、フリオ・ハルディさんは栃木のカトリック教会で、お前のお袋さんと知り合ったらしいぜ。お前のお袋、志んちゃんは、俺のただ一人の姉貴だった。俺も、いまのカトリック教会のミサで、一回だけ御両人と一緒だったこともある。」

「僕にはほとんど記憶が無いけど…。親父は僕が生まれてすぐに死んじゃったんだものね。」

「そうだな。でも、姉貴はお前を堀切の小学校までしっかり出してくれたんだぜ。姉貴も苦労したのか、早く死んじまったなあ。」

「お袋は、よく親父のことを話してくれた。頭のいい人だったってね。小学校までは勉強も教えてくれたから、そのとき親父のことを教えてくれたんだ。」

「俺にとってお前は、二人の忘れ形見だ。そういやあ、沙羅さんとかいうあの子のお父さんも、メキシコ人だったとか言っていたな。」

 沙羅は、自分のことが話題にされていることに興味を唆られた。

「お前も混血の顔立ちで、目は母親似だけど、鼻の高さはラテン系だな。」

「沙羅先輩もそうだよ。目は潤んでいてぱっちりだから、美人なんだよね。おまけに優しいし…。」

 沙羅は、誰もいないというのに、恥ずかしさからその場から逃げ出そうした。それほどアキラの声は近くに聞こえた。そのアキラに、自分の鼓動が聞こえてしまうのではないか、そばにいることが知られてしまうのではないか、と錯覚するほどだった。気のせいか、アキラの鼓動まで聞こえるような気がする。脳裏にある夏の記憶、アキラの腕と胸板、アキラの鼓動と感触…。

「何を言っていやがる。」

 重蔵のなじる声が、熱く甘美な思いを冷やした。その代わりに、沙羅は火が出るほどに顔が熱くなった。

「お前がそんなことを言っていることが、危険なんだぜ。彼女にこんな話を聞かれてみろよ。お互いの熱情が抑えられなくなるぜ。」

 座り込んだ沙羅の熱い頬を、冷たい風が冷やしていく。下の仕事場では、アキラも黙ってしまい、重蔵も話を続けていない。そのあとは、沙羅がいくら耳を澄ましても甍を吹き抜ける風の音しか聞こえてこなかった。

 

 年が明けて三学期。沙羅のもう一つの課題は、大学受験。沙羅とアキラの通う高校も進学校らしく、二年生のこの時期にはもう受験対策期に入る。

 沙羅は授業料免除の特待生だった。在学中はある程度成績が良くなければならない。大学でも、沙羅は特待生制度を考慮して青山学院大学を目指していた。

「あけましておめでとう!」

「おめでとう!」

 始業式の朝、加奈子やまなみが沙羅に声をかける。

「沙羅、アキラくんちのアパートは、居心地いい?。」

「今度遊びに行くね。」

「確か、近くにボーリング場が無かったかしら?。」

「ボーリング場?」

 沙羅は首をかしげる。今住んでいるアパートの近所について、沙羅はほとんど何も知らなかった。

「私は住んでいるあたりの近所は、何も知らないのよ。」

「アキラ君に聞いてみれば?。」

「私が迷っていても、彼に助けを求めるわけにはいかないわ。彼は家業の仕事でとても忙しいみたいだもの。」

「ふーん?。迷える者を彼は助けてくれるわよ。」

 まなみは謎めいたほほえみを返してきた。

「じゃあ、アキラ君に聞いてみる・・・・。」

「じゃあ、来週の土曜日、学校が終わったら、みんなで行こうね。」

「でも、うーん。料金が高いんじゃないの?」

「一名様無料のクーポンがあるから、心配するほどじゃないと思うけど。」

 その週末の土曜日、彼女たちはボーリング場に待ち合わせることになった。

 

 沙羅は、帰りがてらボウリング場を探し回ってみた。しかし、百花園の周りをぐるぐる回ってみても、細い路地裏のどこにそんな大きな施設があるのか、見当がつかなかった。結局、土曜の朝になってアキラに頼ることにした。例によって、アキラは朝早く起きて動き回っている。沙羅は、仕事場に廻ってアキラの姿を探した。

 アキラはちょうど自転車掃除をしていた。寒い冬空にもかかわらず、ランニングシャツで自転車の手入れに余念がない。力を入れて作業をするごとに、肩から背中の筋肉が隆々と動く。

「アキラ君・・・・。」

「はい、先輩、何でしょうか。」

「ごめんなさい、仕事が忙しいのに・・・・。」

「いいえ、大丈夫ですよ。今日は仕事がないんです。」

「この近くにボーリング場があるって聞いたんだけど。知ってるかしら?。」

「知ってますよ。アイビーボウルだと思いますよ。ここからすぐ近くですけど…。」

「調べたのだけれど、地図を見ても、道に迷ってしまって・・・・。」

「いや、大丈夫です。迷っているなら教えて差し上げます。」

 アキラは、地図にランドマークを示しながら、アイビーボウルまでの道順を沙羅に示した。 アイビーボーリング場は階段を上りきったところにあった。四、五年前のブームの頃に建てられた地域の娯楽場だった。


 すでに、加奈子はボーリング場に来ていた。沙羅はというと、やはり百花園の周りをぐるぐると道に迷っていた。なけなしの二千円ほどを握りしめたまま。入ってみては立ち止まる細い路地。沙羅はやはり行くべき道をわかってはいなかった。

 少し経った頃、路地裏から沙羅が出てきた。そこへ、聞きなれたアキラとまなみの声が聞こえて来た。

「庄野先輩、救いを求めている迷える者って、結局誰なんですか?。明日のミサにその人を連れて行きますよ。」

「そうね。その思いが大切かもね。」

 三人は、路地を出たところで顔を合わせた。すぐそこにアイビーボウルがある…。沙羅とまなみは、動きやすいように少し短めのスカートにセーター姿。アキラは先ほどのランニング姿に簡単にシャツを羽織っただけの姿。

「アキラ君、それにまなみ!。」

 まなみがアキラの背中を押す。

「はい、ここにいたわ、迷える者。」

「えっ。救いを求めている迷える者って沙羅先輩のこと?。」

「沙羅、やっぱり迷っていたわね。」

「庄野先輩。沙羅先輩はいつも顔を合わせています。さっきだって会ったばかりだし、道に迷っていたから助けてあげたし・・・・。」

 そこに、アイビーボウルの敷地から加奈子が出てきた。

「何騒いでいるのよ。早く、予約を取りましょう。」

 待ちかねた加奈子が先ほどの三人をボウリング場へと押していった。

 アキラは先ほどから狼狽している。目の前の「迷える者」は沙羅だった。アキラは叔父の重蔵とともに、毎週錦糸中学校近くのカトリック教会に通うのが常だった。その延長線上で、彼は重蔵が知人を教会へ連れて行くのと同じ行為を考えていたのだが…。

「庄野先輩。この会は何が狙いですか。沙羅先輩の生活が大変なら直ぐに援助は出来ます。でも、今日のこれは…。」

 沙羅は、アキラの剣幕を見て申し訳ないやら恥ずかしいやらで、その場を離れようとした。それを見て、まなみは思わずアキラを詰った。

「この唐変木。なんで素直に一緒にいたいという気持ちに応えられないの?。あなたねえ、沙羅が迷える者、救いを求める者だってのは確かでしょ。」

「しかし、若い男女二人だけが席を同じくするのは…。」

「そういって恋路に変な理屈を持ち込む奴は、馬に蹴られて死ねと言われているのよ。……。そう、分かったわ。圭太君と智也君を呼べばいいのね〜。」

 そういうと、まなみはさっさと赤電話へ行ってしまった。

「あっ、それはもっと困る……。」

 と言ったアキラの声は無視されていた。その後は、暫く気まずい時間が流れていた。

 

「アキラ!」

 圭太が声をかけて来た。

「聞いたぜ。先輩が救いを求めているのに、アキラは何もできねえのか?」

 智也がアキラの脇腹を突いて窘めていた。

「明日、沙羅先輩を教会へ連れて行ってあげなよ。」

 沙羅は思わずアキラを見た。

「アキラ君、毎週教会へ行っているの?。」

 アキラは答えた。

「本所カトリック教会へ行っています。」

 沙羅は、それで合点がいった。肝心な時に気の利いた会話ができないほど鈍重なアキラが、祈唱することと耐えることなど言いそうもなかったからであった。

「貴方、カトリックだったの。」

「父と母がそうだったので。」

「私も、継父がキリスト者だったようで、…。」

 周りは、このあたりから話についてこられなかった。

 

「庄野先輩、アキラたちは二人だけで話していますよ。俺たち、こなくても良かったんじゃないですか?」

「チェ、なんだよ。二人だけで盛り上がってら。そのまま熱くなって爆発しちまえ。」

「そうね、確かに世話の焼けるお二人さんね。」

 四人は二人の不器用さと不意の盛り上がりに、当惑していた。

 

 次の日曜日に、重蔵はアキラと沙羅を連れて本所カトリック教会へ向かった。

「沙羅さんも、キリスト者だったのかい。」

「 「いえ、そういうことではなく、私の継父がキリスト者だったのです。」

「でも、良かった。歓迎するよ。」

 アキラは二人の会話を聞くだけで、何も言わなかった。彼は、自らを律するための沙羅との間の壁が、また一つ欠けてしまったように感じていた。そうしているうちに都会らしいお御堂につくと、ミサがはじまり聖体拝領とともに司祭のメッセージが語られた。

「デウス様は、愛する者たちが忍耐を通じて幸せになることを願っているのです……。」

 しかし、沙羅はメッセージの内容にがまんならなかったようだった。

「私の周りには、苦しみしかなかったわ。少しも楽になれる道はなかった。努力しても、上を向いても、道は何処にもない。」

 ミサの帰り、重蔵とアキラは、沙羅の言葉を静かに聞いた。

「私の継父は、苦労して苦しんで死んでいきました。それなのに、忍耐して祈って分かち合って御心のままにこの身になりますように、などといつも言っていました。でも、ただ苦しみつつ死んで行くところに、どんな救いがあったのでしょうか?そして、私は継母と別れて、将来が見えていません……。」

 精神的な支えとなる親も親族もいない、大学受験のストレスや不安感も強かったのだろう、二時間ほど語っては涙を流して沙羅は語り疲れ切っていた。激情を出したことで満足したのか疲れ切ったのか、沙羅は静かに目をつぶっていた。重蔵はアキラに目配せをして言った。

  ただ黙って、沙羅さんを部屋に送って来い。彼女の絶望は深いようだね。」

「はい。」


 アキラは重い心のまま、沙羅を送り届けた。沙羅はアキラの腕を掴みポツリと言った。

「母がアメリカで捨てた父を探しに、ロサンゼルスへ行くわ。」


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