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黙す子羊のように

 喘ぐ声、かすかに続けられる言葉。

「御心のままに……。」

 危篤の枕元で、継父義男は沙羅に短い言葉を遺した。

「御心のままにと……。絶えず祈唱を…。今を受け入れなさい。ふー。どんな時でも……。心から神様に感謝を……。」

 しかし、沙羅は理解できなかった。

「何故、かなしいこと苦しいことがあって、『御心のままに』と祈れるの?。なぜ感謝できるの?。わたしは……理解できない、我慢出来ない。」

 あまり動けない義男は、困った顔をした。

「確かに、俺は……苦しい…。間違いなく俺は死ぬ……。でも…な、喜びを感じているんだよ。こんなときだから…ハアハア、分かる…。聖霊が、ほら…、そこに……。私と共にいてくれている……。」

「そんなの見えない、わからない。なんでそういえるの?。」

 苦しい息の下で、義男は肩を落としていた。

「そうか、あんたにはまだわからないか…。」

 それでも、彼はもう一度力を絞って言った。

「でもな…絶えず祈れ。心から感謝し続けろ。いつか…必ず天が……。」

 その夜、義男は息を引き取った。

 

 馴染みのない小金原の教会での葬式の夜、由美は言った。

「相談があるんだけど……。」

 由美のつっけんどんな言い方が気に触る。沙羅の顔には反発の表情は出なかったが、眉をひそめたのは、由美にも分かった。由美はいつものように沙羅の様子を黙殺して続ける。

「大阪へ帰ろうと思うのよ……。あなたはどうする?。……おとうさんが死んじゃって、収入が減っちゃったのよね……。」

「でも、今まで家計がそんなに苦しかったなんて。」

「あんたは勉強ができる子だから、お父さんは高校へ行かせてやりたかったんでしょ。でも、私の稼ぎじゃもう無理。」

「私は学校を退学?。そんな……。」

「本当は、一度目の発作の時から、生活は苦しかったのよね。でもなんとかできていた。でももう、貯金もなくなったのよ。」

「急にやめろって言われても……。」

 沙羅からは戸惑いと反発の言葉が出てくる。由美は構わずに続ける。

「この家も売ることにしたわ。暮らすのが大変になっちゃったからね……。そこでね、私の故郷の大阪箕面へ帰って、生活保護を受けようと思うのよ。」

「私は嫌よ。ここから何処へも行かない。」

「わがままな子だねえ。そりゃもう通学はできないさ。働くしかないだろうね。でも、ついてくりゃ面倒を見てやるって言っているのに。」

  この事態は沙羅にとって、半ば予測できていたことだった。沙羅はそれ以上なにも言えなかった。単なる高校二年生の女の子に何ができるのだろうか。学校を辞めて働くか?。お金を稼いでも大した額にはならない。大阪へ行っても、稼ぎはこの親子に取られるだけ。今まで育った環境と気が強いだけの性格から言って、大阪で友人はしばらく出来そうもない。結局は、お金がない生活を目の前にして、絶望のみがあるだけ。……返事はできなかった。

 

 ところが、次の日の朝、由美と沙羅は衝突してしまった。由美が勝手に沙羅の母の形見の和服まで換金しようとしたことが原因だった。

「それなら、もう面倒見切れないわ。家族でも何でもない。出て行きなさいよ。」

「ここは、元は私の母さんと継父さんの家よ。なんで私が出て行くのよ?」

「そんなこと、知ったことではないね。法律上では、相続した私のもの。好きにさせてもらうわ。」

「でも、これは、私の母の遺品なのよ。」

「そんなこと言っていられないわよ。わからないの?」

「でも…。」

「私のいうことが聞けないなら、縁の切れ目だね。あんたが出ていかないなら、私たちが先に出ていく。あんたもどうせ来週には出なくちゃいけないんだ。」

 こうして、由美たちは次の日に小岩を出ていった。沙羅も長年住み慣れた家から、出されることになってしまった。俗にいうように、金の切れ目は縁の切れ目だった。

 

 その日の放課後、生物部の部室に斎藤加奈子と庄野まなみやアキラ達が集まっていた。

「えっ、継母さんたちは、明日出て行くって?。」

「そう。」

「沙羅はどうするの?」

「もうあの家には誰もいないの。まあ、あと一週間は、居られるんだけど…。」

「担任の先生は相談に乗ってくれたんでしょ。なんて言ってくれたの?」

 沙羅は、目を伏せてしばらく黙っていた。彼女自身は担任から言われたことを整理するため、しばらく考え事をしていた。それが周りには、特にアキラには悩み惑う乙女の姿と見えている。

「二つしか選択肢はないらしいって。一つは、継母さんを追って大阪へ行くこと。その場合高校を辞めることになるのね…。」

 アキラは何かいいたそうな顔をしている。沙羅はそれを横目で見ながらさらに続ける。

「もう一つは、継母さん達と別れて東京で生きていくこと。一人で東京にいるなら施設に入ることになるんだって。そうすると高校は続けられる。ただ、来週からすぐに住める場所は…、ないって…。」

 沙羅の境遇は、皆の想像を超えていた。

「それじゃあ、来週からどこに…?。」

「わからない。」

  アキラは突然に提案をした。

「それなら、叔父の経営するアパートに来れば?。空室もあるし。」

「えっ?。」

  沙羅には予想もしない提案だった。しかし、そんなに都合のよいことがあるだろうか。

「そうだ、そうすべきだよ。」

 アキラは、自らの思い付きに満足しているように見えた。沙羅は、アキラの早とちりな性格に不安を感じながらも、アキラの提案にすがるしかなかった。

「いいのかしら…。家賃も少ししか払えないのに。」

「大丈夫だよ。叔父は困っている人を放ってはおけないんだ。」

 沙羅は、持たざる者のみじめさを感じていた。

 

 夕刻、アキラは沙羅を連れ帰った。

「おかえり。おう、何だ、用事か?。」

 仕事場の中から、くぐもった声が聞こえた。その軒先で、アキラは中を覗き込む。

「おじさん。あの…。」

 不安なアキラの声の響き、不安な沙羅の心の鼓動。アキラは肝心な時に重蔵の鋭い視線にしり込みしている。このまま重蔵が察してくれればいいのにと考えている風だった。確かに、説明は込み入っている・・・。

「なんだよ。なにか、あるんだろ。言わなけりゃわからねえよ。」

 重蔵の察しの良さは、感情の動きを見つけることに限られるらしい。そんな感慨に浸っていたアキラだったが、本来の役回りをすぐに思い出した。アキラはおもむろに重蔵に説明をしはじめている。これが実に心許ない…。

「あの、お客さんが来ているんだけど…。」

「ええ?。お客さん?。」

 重蔵が慌てて出てきた。

「あれ、女の子か?。おめえが女の子を連れて帰ってくるなんて、初めてじゃあねえか?。」

 重蔵が沙羅を見つめ、アキラに視線を移す。とたんに、アキラは顔面に火のような熱さを感じる。それが沙羅にも伝わって、赤い顔をしている。

「二人そろって顔が赤いぜ。まあいいや。ええと、部屋を借りてえのか?。」

「うん。」

「はい。」

 アキラと沙羅は同時に返事を返した。

「娘さん、あんた、アキラの同級生だろ?。高校生かあ?。」

「おじさん、同級生じゃないって。」

「おめえが赤い顔をしていて、この娘さんも赤い顔をしていやがる。どう見ても、二人は仲良しで同級生に見えるがな?。」

 アキラが答えに窮していると、沙羅は初めて口を開いた。

「あの、私、アキラ君と同じクラブ活動をしています。一年上の二年生です。」

「というと、アキラの先輩なんだね。」

「そう、僕の先輩。困っているんだ。」

「なんだよ、こっちだって訳が分からねえから困っているんだ。おめえが最初から説明しろよ。」

 アキラは、重蔵の顔を見て、次に沙羅の顔を見つめた。沙羅は不安そうな顔をしている。

「ええと、……。」

 アキラはなんとか沙羅の状況を説明することができた。

 

 重蔵はいろいろ考えていたのだろうか。しばらく黙していたのちに、やっと口を開いた。

「アパートを借りるのはいいが…。高校に行き続けるためだから良い選択かもしれねえな。こんなボロアパートだから、家賃は知れているしな。しかし、問題は、沙羅さんて行ったっけ、あんたが未成年だっていうことよ。未成年がひとりででは契約が出来ねえぜ。」

「アパートがだめなら、おじさんのこの家の一部屋に住んでもらったら?。」

「俺とおめえの住んでいるところへか?。」

「うん。」

「若いお嬢さんをわが家に住まわすのか。」

「うん、家賃もかからないし…。」

「おめえな、若い男のいる我が家に、お嬢さんを住まわすのか。」

「…。」

「あのな、お前がこれらのことを言い出すのは、このお嬢さんを憎からず思って居るからだろう?。お嬢さんも、お前が後輩なのにここまで一緒に来ているってえのも、お前のことを憎からず思っているからだぜ。」

「…。」

「一つ同じ屋根の下にいるってぇことは、ママゴトしようってぇいうことじゃねえんだぞ。」

 アキラと沙羅は重蔵に二人の心のうちを読まれ、また『同じ屋根の下』という重蔵の言葉が意味することを悟って、再び顔を赤くしていた。

 重蔵は二人の顔を見ながら、さらに続ける。

「それからこの家にはよ、二部屋しかねえんだぜ。」

 アキラはすぐに反応する。

「じゃあ、僕は仕事場の二階に寝るよ。」

「馬鹿野郎。何を言っていやがる。そんなところに大事な姉貴の息子を寝かせられるかよ。」

 アキラと沙羅は、もう何も言わなかった。

「明日、霞が関の家庭裁判所に行ってくる。沙羅さん、あんたには可哀想だが、卒業まで施設に入るしかねえ。」

 重蔵はしばらく二人を見つめ続けた。彼はよくわかっていた。アキラの懸命な思い。そして、黙しつづける小羊のような沙羅。彼は憐れさを禁じえなかった。

「沙羅さん、今夜はアパートの一室を使ってくれ。明日、家庭裁判所へ行ってくる。なんとかなる気がするんだ。」

 重蔵は、二人を安心させるように言った。

 

 次の日、重蔵はすぐに日比谷公園横にある家庭裁判所に行った。重蔵が半ば予想していたことだが、施設へ簡単に入所できるわけでもなかった。大阪へ去った由美と養子縁組をしていたことと、それを検討する裁判所手続、施設探し…全ては時間のかかることだった。

 重蔵が裁判所から戻ったのは、その日の夜だった。

「しかたねえなあ。沙羅さんは、すぐには何ともならないらしい。」

「どういうこと?」

 沙羅の不安を代弁するように、アキラが大声を上げた。

「まあ落ち着け。沙羅さん、あんた、うちのアパートにしばらくいるか?。」

「それがいい。」

 アキラがすぐ反応する。沙羅は、アキラのその反応に面くらいながら、重蔵のいうことに耳を傾けた。

「施設にはすぐに行けるわけでもないらしい。家庭裁判所での手続きには、いろいろあってな。だから、契約はできないままでもこのアパートで暮らすしかねえじゃねえか。」

「すみませんでした。」

 沙羅は恐縮するしかなかった。そんな沙羅の心を知ってか知らずか、沙羅の横でアキラがまた大声を上げた。

「やっぱり、それがいい。」

「ただなあ、いつ希望者が来るかも分からねえし、もし、アパートの希望者がきたら、アキラ、お嬢さんにはおめえの部屋を使ってもらいな。そんときは、おめえは裏の工場の仮眠場所で過ごせよ。」

「うん、僕なら工場でいいよ。」

  アキラがまた気楽な返事をした。

「馬鹿野郎、おめえは軽々しく考え過ぎだ。このお嬢さんは、おめえを好いているし、さらにはおめえにも申し訳ないと思っている。それは危険なんだ。」

「なんでだよ。」

「それが弱い立場の人間なんだよ。もっと気を使いやがれ。」

相変わらず、アキラは察しが悪かった。

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