第8話 搭乗者ではなく
泣き止んでも喉が詰まった感覚が残り、呼吸がしにくかった。
薄い袋についた水滴を袖で拭き、腕時計を左脇腹の内ポケットへ戻した。赤い秒針は止まったまま、保護膜の下にあった。
顔を拭いても、泣いたあとの目の熱は残っていた。寝台に背を預けると、首から肩にかけて鈍い痛みが走った。
目を閉じると、星図から光点が次々と消えていった場面を思い出した。
「搭乗者。隔離室外の通話要求を受信」
扉の表示が橙から青へ変わった。
『話せるか、レン?』
透明部分の向こうにガレスが立っていた。その横には、さっきの星図を抱えていたトウマがいる。
丸眼鏡の奥の視線は一度だけ俺の目もとへ向き、すぐ端末へ戻った。
「何の話ですか?」
『救難記録を取る。休む前に少し話せるか?誰が判断して、誰が機体を動かしたのかを確認しておきたい』
休ませるつもりがない、という言い方ではなかった。このまま、一人で考え続けるよりはよかった。
時間が経つほど、何が先に起きたのか曖昧になり、自分の思い込みまで混ざってくる。
今の俺には、ただでさえ分からないことが多い。
だからせめて、覚えていることだけは正確に残しておきたかった。
「今なら大丈夫です」
『無理なら止めていいぞ。途中で倒れられて、また最初から聞き直す方が面倒だからな』
『船長、その言い方では気遣いが伝わりませんよ?』
『お前は記録しろ、トウマ』
『既に記録しております』
机の黒い板へ、四角い枠が幾つも開いた。並んだ文字はやはり読めない。トウマが端末を操作するたび、空欄らしき場所へ青い線が入っていく。
『確認します。最初に攻撃を回避した時、進路を選んだのはどなたですか?』
「俺です。警告して、回避の候補を出したのはルミです」
「姿勢制御と推力配分も私が実行しました。最終進路の確定は搭乗者です」
トウマの指が動く。右手を机に置くと震えが見えそうで、俺は膝の上に隠した。
『輸送艇へ接近した判断は?』
「俺です」
「私は危険の増加を警告し、選択後に接近経路を算出しました」
『《未記載路》と呼ぶ現象は?』
「輸送艇ごと逃げると決めたのは俺です。その後にあの道が出て、最後に使うと決めたのも俺です」
「私は形成候補を算出し、対象の相対運動同期と開口制御を実行しました」
『到着先の安全は、誰が保証した?』
「誰も。ルミも保証できないと言いました。それでも使うって決めたのは俺です」
「当時の観測範囲で除外できたのは、経路および到着点が大質量反応と重複する候補のみです。搭乗者へ危険を通知した上で、最終承認を受けました」
『到着先でもし、輸送艇が失われていた場合は?』
聞かれた瞬間、黒い裂け目へ船を押し込んだ時、右腕にかかった強い力を思い出した。
今は助かったと分かっている。だが、あの時は本当に助かるのかも分からなかった。
「俺の責任......です」
ガレスは頷かなかった。否定もしない。トウマの端末へ新しい線が一本増えた。
操縦席では必死で区別する余裕もなかったが、質問に答えていくうちに、自分が判断したことと、ルミが操作したことが少しずつ整理されていった。
ガレスは腕を組んだまま、途中で口を挟まなかった。トウマは数値だけでなく、俺とルミの証言も一つずつ確認していった。二人の説明が重なった時には、それぞれに聞き直していた。
記録しているのは、誰が何を選んだかだけではない。
誰がその時点で何を知っていたのかまで、別々に残しているらしい。
『輸送艇側の映像記録と、大筋で一致しますね』
最後の枠へ線を入れ、トウマが眼鏡を押し上げた。
机上の表示は、俺の名前らしい短い並びと、その下に広がる機体用の欄へ分かれた。
『救難行動の最終判断者および責任者はカミシロ・レンさん。機体設備欄へ、統合支援知性ルミによる警告、経路算出、制御補助を記載します』
「機体設備欄?」
『はい。ルミさんは《アンノウン》へ統合された支援知性で、独立した登録、所属、身分記録のいずれも確認できません。現行の船内様式では機体機能として扱います』
トウマの声は丁寧だった。地球が星図にないと告げた時と同じで、悪意は感じなかった。
「搭乗者。最終判断者の記載は記録と一致します」
ルミ自身も否定しなかった。
「それだと、ルミは俺が使った道具ってことになりますよね?」
『記録上は、そうなります』
「それは、違います」
声が強くなった。喉の奥が痛み、最後の音だけ掠れた。ガレスの義眼が細く光る。
『何が違う? 最後に決めたのはお前だと、二人とも答えた』
「そこは合ってます。危険なものを使うと決めた責任も、俺にあります」
『なら、何を直せと言ってる?』
「助けた記録から、ルミを消さないでください」
トウマの指が止まった。入力途中だった線だけが、机の上で明滅する。
「あの救助は、ルミと一緒にやったんです。俺一人だったら、最初の攻撃で死んでました。輸送艇の回転も合わせられなかったし、あの道も開けなかった。進路を選んだのは俺でも、姿勢制御や推力配分、《未記載路》の形成を実行したのはルミです」
「訂正。形成候補の出現条件には、搭乗者による対象と到達状態の選択が必要でした」
「そういうところもです」
思わずルミへ返すと、首もとの振動が一度止まった。
ガレスが赤茶の髭を指で押さえる。
『責任はお前が取って、手柄はそいつにもやれってことか?』
「手柄って言えるかは分かりません。でも、やったことは分けて書けるはずです」
『そいつが自分で考えた証明はあるのか?』
「それは......分かりません」
分からないことを、勢いであるとは言えなかった。ルミは俺を生かすために動いてくれた。
それが考えた結果なのか、決められた処理なのか、俺には判別できない。
「ルミが人間と同じだとも、俺には分かりません。でも、分からないから全部機体の機能にするのは違うと思います」
『別々に記録すると、何かあった時に原因として疑う対象が一つ増えるぞ?』
ガレスの声は脅しではなかった。ルミには製造記録がないと聞いた時から、疑いは消えていない。
機体の機能なら俺だけを見張ればいい。別の相手なら、ルミにも警戒が向く。
「それでもお願いします」
『理由は?』
「都合がいいからって、嘘に合わせて記録を変えるのは嫌なんです」
ガレスは鼻から長く息を出し、眉間にしわを寄せた。
『俺の船で、記録を便利に曲げろとは言えんな』
『船長。様式外の証言主体として分離し、独立判断の有無は未確認と注記できます。ただし正式な身分登録ではなく、《ラグナ》内部の救難記録に限られます。後日、外部機関から再分類を要求される可能性は――』
『短くまとめろ』
『別欄にできます』
『それをやれ』
トウマが端末へ触れた。机の上で大きな枠から細い光が抜け出し、俺の枠とも機体の枠とも離れた場所へ移る。
『記録名はルミ。統合支援知性。身分未登録、独立判断未確認。観測、警告、候補計算、機体制御に関する証言を、操縦者の証言と分けて保存します』
「私の記録と矛盾しません」
いつもと同じ平坦な声だった。文字は読めないが、ルミの記録欄が機体設備欄から分かれたことは分かった。
『勘違いするなよ?』
ガレスが言った。
『これで身元ができたわけでも、危険が消えたわけでもない。お前もルミも警戒対象だ。扉はまだ開けられんからな』
「分かってます」
『分かってるようには見えんな。今日はもう休め。目も冷やしておけよ』
「これは、その......」
『説明はいらん』
ガレスは通話器から手を離した。トウマは端末を閉じる前に、机上の分かれた記録欄を見比べる。
『別々に扱うべきものを、同じものとして記録はしません。先ほど申し上げた通りです』
「ありがとうございます」
『お礼を言われるようなことではありませんよ。判断が遅れました。申し訳ありません』
『また説明が長くなってるぞ』
二人の足音が遠ざかる。扉の表示が橙へ戻り、机の文字と枠も消えた。部屋には空調音と、首もとの弱い振動だけが残った。
「ルミ。勝手に別にして悪かった」
「謝罪理由を確認できません」
「ルミまで、警戒されることになってしまった」
「搭乗者の発言以前から、私は由来不明の統合支援知性です。警戒状態に実質的な変化はありません」
「なら、いいけどさ」
会話が切れた。ルミなら、そこで待機へ戻ると思った。
こちらから問いかけなければ、必要な警告が出るまで声を発しない。それが今までだった。
首もとの輪が二度震えた。外からの通信はない。機体の警告も、今のルミには拾えないはずだった。
「呼称規則を更新します」
「何の?」
「搭乗者に対する呼称です」
一拍の間があった。
「搭乗者ではなく、レン」
自分の名前は、ガレスにも、ミラにも、トウマにも呼ばれていた。
同じ名前でも、ルミが俺を機体の搭乗者ではなく、神代蓮という一人の人間として呼んだように感じた。
「急だな?」
「機能上の搭乗関係だけでは、分離された現在の記録と一致しません」
「記録に合わせたのか?」
「否定。記録の変更は結果です。原因は、レンの選択にあります」
また声が止まった。今度は待機に戻ったのかと思った時、ルミが続けた。
「レン。先ほどの『一緒にやった』は、どの時点から現在までを指しますか?」
質問への回答に必要な情報なら、ルミは何度も確認してきた。
けれど今の問いは、経路にも、生存率にも、機体の状態にも関係がない。
俺が言った言葉の意味を、ルミ自身が知ろうとしていた。
たぶん、命令を待っているわけでもない。
「目が覚めて、ルミの声を聞いたところからだな」
首もとの輪に触れた。右手はまだ少し震えている。
輪からは、規則的な振動が指先へ伝わってきた。操縦席にいた時と同じだ。ルミとのつながりは、まだ切れていない。
「今も、だ」
「了解しました。記録します」
その返事の直後、天井の通気口から、小さなくしゃみが聞こえた。




