第7話 星図に地球はない
隔離室の机に、星が浮かんだ。
黒い板の上だけではない。青白い光点は机の縁を越え、寝台に座る俺の膝もとまで広がっていた。
細い線が光と光を結び、そのそばを読めない記号が流れていく。宇宙を縮めて、狭い部屋へ押し込んだようだった。
『近い。近すぎますね。少々お待ちください』
扉の透明部分の向こうで、丸眼鏡の男性が指を動かした。星の群れが一斉に遠ざかり、机の上へ収まる。
歳は俺より少し上に見えた。黒い髪を後ろで束ね、片腕には薄い端末を抱えている。
眼鏡の位置を直す指だけが、せわしなく動いていた。
『航法士兼会計のトウマ・セトと申します。本件では航法士だと思っていただいて差し支えありません。救助費用を請求しに来たわけではございませんので』
『最後の一言が余計だ』
隣に立つガレスが言った。
『船長、身元不明者を安心させるのも乗員の職務ですよ?』
『早口でまくしたてるのは安心させる態度じゃない』
『善処します』
トウマは一度だけ咳払いをした。
『カミシロ・レンさん。太陽と地球、でしたね?』
「はい」
自分の名前に続いて、太陽と地球の名前も通じた。それだけで、少し安心した。
首もとの輪が弱く明滅している。トウマの声は、スーツとルミを通して翻訳されていた。
もちろん机に並ぶ文字は一つも読めない。だが、話し言葉なら意味は分かる。
『まず名称を照合します。翻訳前の発音も必要ですので、そのまま言ってください』
「ちきゅう。たいよう」
『チキュウ。タイヨウ』
トウマが繰り返す。微妙に違う音だった。
「太陽は、ソルって呼ぶこともあります。英語ならサン。地球はアース」
『ソル、サン、アース。綴りは分からないため音価の近似検索になります。名称照合は一致しても証拠として弱く、不一致でも否定材料にはなりません』
説明しながら、もう指は動いていた。星図の端に光の列が次々と生まれ、すぐに消えていく。
俺には結果の文字が読めない。残った光点の数だけを追った。
やがて、全部消えた。名前から地球を見つけられるかもしれないという期待も消えた。
『名称の完全一致はありません。近似音はありますが、恒星名、惑星名、地名が混在しており、該当を絞れるような水準ではありません』
名前が違うだけだ。日本とここで、同じ呼び方をしている方がおかしい。
「ほかの探し方はあるんですか?」
『あります。むしろ、ここからが本照合です』
トウマは星図を消さず、空いた場所へ幾つもの円を並べた。
『恒星の特徴、惑星の数、公転順、衛星数、居住惑星の環境。覚えている範囲で構いません。ただし条件を増やすほど誤記憶の影響なども増えますので』
「太陽、恒星一つです。黄色っぽい星で」
『単独星。色温度は広めに取ります』
「惑星は八つ。地球は内側から三番目。岩石の惑星です。表面の大部分が海で、衛星の月が一つあります」
『八主惑星、第三軌道、岩石質、表面液体比率が過半、主要衛星一。続けてください』
答えるたび、星図から光が減っていく。
「一日は二十四時間。一年は三百六十五日くらい。時間の長さは、ここと違うかもしれません」
『単位そのものは使いません。自転と公転の比として扱えます』
「近くに、火星と金星。それよりも遠くに、大きな木星と、輪のある土星があります」
『相対配置と特徴を追加します』
俺は学校で覚えた図を必死に思い出した。水星、金星、地球、火星。その先の順番は言える。けれど星の大きさも、軌道の距離も、正確な数字になると何も出てこない。今まで必要だと思ったことがなかった。
首の後ろに痛みが走った。力を入れすぎていたらしい。息を吐き、震える右手を左手で押さえる。
『十分です』
トウマはさっきまでの早口をやめ、ゆっくり話していた。机の上には、三つの光点が残っている。心臓が一度、大きく鳴った。
「もしかして、あるんですか!?」
『部分一致です。第一候補は主星が二つあります。第二候補の第三惑星には主要衛星がありません。第三候補は主惑星が七つで、外側惑星の構成も違います』
「条件を少し広げたらどうなりますか?」
『既に観測誤差と記憶誤差を見込んでいます』
また早口になりかけ、トウマは眼鏡を押し上げた。
『失礼しました。つまり、似た場所はあります。しかし、あなたの説明した天体系と同じだとは判定できませんね』
三つの光点が消えた。星図だけが元の形へ戻る。
『まだ、古い記録が残っています』
トウマが言った。
『この先は、船内に保存された既知星図、旧観測目録、使用停止された航路記録まで対象にします。結果が変わらない可能性は高いです。それに、私たちの目録は宇宙の全てではありません』
ここで調べるのをやめれば、「まだ見つけていないだけだ」と思っていられる。地球も自分の家族も、どこかにいる。そう考えていれば、少しは気が楽だった。
けれども、地球がどこにあるのか分からなければ帰れない。
怖くても、確かめるしかなかった。
「全部、調べてください」
『よろしいのですか?』
「見つからない可能性も含めて、知りたいんです」
ガレスが黙って俺を見た。それからトウマへ指示を出す。
『調べてやれ』
『了解しました』
星図が回り始めた。光点の集まりが形を変え、重なり、また離れていく。読めない文字の列が上から下へ流れた。トウマは途中で何度も条件を戻し、別の組み合わせを試した。名前を外し、惑星数を緩め、海と月と公転順だけを残す。それでも、一致する天体系は現れない。
その中で一度だけ、机の中央に一つの光点が強く残った。俺は寝台の端から身を乗り出した。膝に力が入らず、左手で机の縁をつかんで身体を支えた。
「それは?」
『第三惑星に広い海と一つの衛星があります。ただし惑星は五つ。主星もあなたの説明より低温ですね』
「地球の近くの星と比べられませんか? 太陽だけじゃなくて、周りの星の並びで」
『比較できます。覚えている恒星名や、おおよその距離はありますか?』
シリウス。北極星。名前はいくつか浮かんだ。だが、どちらに何光年離れているのかは分からない。
星座の形も、線で結ばれた絵としてしか覚えていなかった。
俺が答えるたび、トウマは省かず入力した。けれど名称の音だけでは座標にならず、曖昧な星座の形は見る場所と時代が変われば崩れるという。
中央の光点も、静かに消えた。どれほど時間が過ぎたのか分からない。
緊張して長く力を入れていたため、膝が重く感じられた。
やがて星図の動きが止まる。トウマは端末を下ろした。
『《ラグナ》が保持する既知星図、航法記録、観測目録の全照合が完了しました』
最初よりもずっと丁寧な声で、トウマが話しはじめた
『一致する天体系はありません』
部屋の空調音が、急に大きくなった。
「地球は、ないんですか?」
『そこまでは言い切れません』
トウマはすぐに答えた。
『星図にないことは、不存在の証明ではありません。未観測領域も、詳細情報のない恒星系もあります。ですが、既知の座標との照合点が一つもない以上、現在地からの方向も距離も、航路も算出できません』
「未観測の場所を、これから探すことは?」
『探索には、少なくとも方向を絞る基準が要ります。近隣の恒星配置か、通信記録か、既知空間から続く航跡か。今いただいた情報には、そのどれもありません』
トウマは星図の一点を指し、そこから細い線を伸ばした。線は別の光点へ届く。次は、何もない方角へ伸ばした。線は途中で薄れ、消えた。
『航路は二つの場所を結ぶものです。出発点だけでは引けません。この船一隻で全方位を捜索することも現実的ではありませんしね。ただ、新しい照合情報が得られれば結果は変わります』
「ということは、今は帰る道がないということですか?」
『はい。今ある情報では、恐らく、帰る方法はありません』
その答え方を、俺は知っていた。子どもの頃、実家の目覚まし時計が壊れたことがある。
父は食卓に布を敷き、小さなねじを順番に並べていた。
俺が何度「直る?」と聞いても、父は中を開くまで頷かなかった。
「まだ分からん。中を見て、原因が分かってからだ」
父はそういう人だった。分からないことを、分かったようには言わなかった。
父は物を直すと、見えない場所に修理した日付を書いていた。なぜそんなところに書くのか聞くと、
「次に開ける奴が困るだろ?」
とだけ答えた。
そんな父を思い出すと、トウマを責める気にはなれなかった。
「分かりました」
声が思ったより普通に出た。
「少し、一人にしてください」
ガレスは何も聞かなかった。
『ゆっくり休め。ただし、呼び出しには応答しろ』
トウマが深く頭を下げる。二人の姿が透明部分から消え、足音が遠ざかった。
星図も閉じ、机はただの黒い板に戻った。
扉の表示が青から橙へ変わり、ロックがかかった。
左脇腹の内ポケットから薄い袋を取り出した。中には、結衣に渡すはずだった腕時計がまだ入っている。赤い秒針はもちろん止まったままだった。
帰ったら、合格おめでとうと言って渡すつもりだった。実習で使いにくかったら替えればいい。そんな話をするはずだった。
けれど今は、帰る場所も方法も分からない。
地球が消えたと決まったわけじゃない。星図に載っていないだけかもしれない。
分かっているのに、袋を握る手が震えた。
時計を落とさないよう両手で包んだ。その上に一滴、涙が落ちた。
拭おうとした時には、もう次の涙が落ちていた。
俺は声を殺した。
ここには父も母も妹の結衣もいない。それでも、泣き声を聞かれたくなかった。
「搭乗者」
首もとで、ルミが呼んだ。返事はできなかった。
「現在の状況に適した応答を検索しています」
短い沈黙があった。
「最適と判定できる文がありません」
「……じゃあ、無理に言わなくていい」
「了解しました」
ルミは、俺が泣き止むまで一度も接続を切らなかった。




