第5話 名前以外、証明できない
名前以外に、自分を証明できるもの。
透明板の向こうで待つガレスを見ながら、俺は空になった頭の中を探した。出てきたのは、何度も名乗った自分の情報だけだった。
「神代蓮。二十三歳。日本の愛知県に住んでました」
『その日本は、どの星系にある?』
「太陽系第三惑星の地球です。太陽っていう恒星の周りを回ってる、三番目の惑星で」
『門標名は?』
「聞いたことないです。知りません」
『最寄りの折路は?』
「それもです」
質問が増えるたび、答えは短くなった。ガレスの金属に囲まれた片目は光るだけで、呆れた様子も怒った様子も見せない。
『所属は?』
「軍にも国の組織にも入ってません。物流倉庫で働いてました」
『身分証や所属証、通行記録は?』
「持ってません」
『使っていた通貨は?』
「円です」
『発行主体は?』
「日本銀行……で合ってたと思います」
『思います、か』
「銀行の正式な説明を求められる仕事じゃなかったので」
『最後に覚えている日付は?』
「二〇二六年、三月四日です」
『何を基点にした暦だ?』
「そこまで説明しろって言われると、自信がないです。世界中で使ってる暦で、日本でも普通に」
『ここでは、その普通を照合できんな』
ガレスの聞き方に、俺を責めるような感じはなかった。
分かっていることと、分からないことを一つずつ確認しているだけだった。
言い訳を重ねるほど、かえって自分の話が嘘っぽく聞こえてくる。
地球にいた頃なら、住所も勤務先も端末一つで確認できた。だが今の俺には、端末も財布も社員証もない。身元を証明できるものは何一つなかった。
あるのは、見覚えのない服と、名前のない黒い機体だけだ。
膝に力が入りきらず、身体が少しふらついた。
作業台の黄色い手すりをつかんだが、右手の震えは止まらなかった。
ガレスはそれを見て、透明板の脇へ顎を向けた。問い詰める前に倒れられる方が困るらしい。
『話の続きは座ってやるぞ。右の扉へ入ってくれ』
「海賊用の牢屋ですか」
『警戒隔離室だ。救難者の保護と、身元不明者の見張りを一つの部屋で済ませる。便利だろ?』
「そうですね」
『歩けるうちに歩け、レン』
反論しても、身元を証明するものが増えるわけではない。俺は手すりを頼りに作業台を降りた。
首から肩へ痛みが走り、床は動いていないのに、身体の感覚だけがまだ操縦席の揺れを覚えていた。
右の扉の先は、寝台と壁へ固定された机があるだけの狭い部屋だった。入口の半分は透明で、外から中を見渡せる。扉に鍵穴はなく、俺には読めない細い文字が、枠の上で青く流れていた。
出口を探す癖で、天井の通気口と壁の継ぎ目まで目で追った。消火設備らしい赤い筒はある。
非常口らしい印もあった。形は分かっても、横の文字はやはり読めない。逃げようとしているわけではないが、それでも、どこにも出られない部屋に自分から入るならば、出口の場所を知っておきたかった。
『中に入る前に所持品を確認する。両手を開け』
ガレスは別の通話器から話していた。言われた通り手のひらを見せると、扉の左右から淡い光が走った。頭から足まで一往復し、左脇腹の前で止まる。
『そこに何がある』
「何も――」
言いかけて、指先に細い継ぎ目が触れた。押すと、布地の内側に指一本分の隙間が開く。
こんな場所にポケットがあったのか。外からは縫い目にしか見えない部分へ指を差し込むと、薄い布の袋が引っかかった。覚えのない重みだった。
『ゆっくり出せ』
「俺も今、初めて見つけたんですけど......」
『それを信用するのは、中身を見てからだ』
袋を引き出し、机の上へ置く。傾けると、黒いベルトの腕時計が滑り出た。
白い文字盤。細い銀色の針。赤い秒針。表面には、買った時の透明な保護膜がまだ貼られている。
知っている物だった。
「なんで、これが?」
持ち上げた瞬間、倉庫の蛍光灯より先に、妹の結衣の顔が浮かんだ。声までもすぐ近くにいたように聞こえてくる。
「合格祝いなら、秒針が見やすいのがいいかな。実習で使えるやつがいい」
救急救命士の養成課程に受かった妹は、欲しい物を聞かれて飾り気のない条件を並べた。
祝いだと言っても、実習で使えない物はいらないらしい。
「蓮兄に見た目で選ばせると危険だから」
失礼な言い方に文句を返して、それでも仕事帰りに何軒か見て回った。白い文字盤と赤い秒針なら暗い場所でも読み違えにくい。黒い樹脂のベルトなら、汚れても手入れしやすい。
六つ下の結衣は、試験前の二か月間だけ家の居間を勉強場所に変えていた。合格の連絡は仕事中に届いた。短い文の最後に、見慣れないほど大きな笑顔の印がついていた。
その日の夜勤が終わったら、実家へ帰って渡すつもりだった。だから職場まで持っていった。
その先の記憶はない。贈り物だけが箱もないまま、知らないスーツの内側へ移されていた。
赤い秒針は一目盛りの手前で止まり、竜頭を確かめても動かなかった。
『知っている物か?』
「妹に渡すはずだった新品の腕時計です。」
『お前の身分を示す情報は?』
文字盤の下には、地球でなら読める小さなアルファベットがある。裏蓋にも数字と英字が刻まれていた。だが、そのどれもガレスには読めない。俺が読めると主張しても、正しさを確かめる相手がいない。
「ありません。俺の名前も入ってない」
『妹の名前は?』
「結衣。神代結衣です」
『その名を照合できる記録は持っているか?』
「ないです」
地球から来た物を手にしたのに、地球から来た証明にはならなかった。
ガレスは透明板の下にある受け皿を開いた。時計を置くと、皿は壁の向こうへ引き込まれる。
金属の目ではない小さな検査器が、表と裏を順に照らした。
『通信反応なし。発熱なし。動力反応も拾えん。少なくとも、今すぐ爆発する物には見えんな』
「物騒ですね」
『船長になると、贈り物も実用性で見てしまってな』
受け皿がこちらへ戻ってきた。ベルトを自分の手首へ回しかけて、やめた。これは俺の時計ではない。動かなくても、渡せなくても、結衣のために選んだ物だった。袋へ戻し、スーツの見つけたばかりのポケットへ収める。
『話を戻すが、地球という星を、ほかにどう説明する?』
「海が多くて、月が一つあって、たくさんの人が住んでます。日本はその中の国で」
『お前の星に人が住んでいるのは分かった。座標は?』
「分かりません」
『近隣星系は?』
「名前なら少し。でも、ここからの場所は」
『政府へ連絡する方法は?』
「ここからだとわかりません」
青い地球、島国、愛知県、夜勤の倉庫。知っているものを順番に話しているはずなのに、口から出すたび、作り話のように変わっていく。
太陽の周りを回る三番目の星から、理由も分からず戦場の機体へ移された。声しか聞こえない謎の知性に助けられ、知らない船を連れて戦場から0.08光年先へ跳んだ。
俺がガレスの側なら、まず信じない。
「すみません。説明すればするほど、嘘みたいですね」
『嘘かどうかはまだ決めない、がな』
「信じてくれるんですか?」
『信じることと、船内を自由に歩かせることを混ぜるな。俺が今決められるのは、お前を宇宙へ戻さないことと、この扉を内側からは開けさせないことだけだ』
輸送艇の証言を採用した時と同じだった。
『映像記録の確認、身体の検査、機体の点検を順にやる。それまではここにいろ。拘束はせん。扉へ細工をしたら話は別だが』
「しません。工具も持ってないので」
『今のところはな』
「そういえば、輸送艇の人たちは?」
『外部救難架で生命維持をつないでる。怪我人から先に船内へ移している最中だ。』
「そうですか、分かりました」
それなら、今すぐこの扉を開けさせる理由はなかった。
俺は机から手を離し、初めて寝台の端へ体重を預けた。
ガレスが通話器から指を離しかけた時、首もとの素材が二度、小さく震えた。操縦席で聞いたのと同じ間隔だった。
「搭乗者。応答を確認してください」
平坦な声だった。
「ルミ?」
「最低限の予備出力を確保。統合支援知性の処理を再開しました。機体の駆動、姿勢制御、外部表示は停止状態を継続しています」
もう返事はないかもしれないと思っていた声が戻り、少しだけ安心した。
『今のが、機体にいた声か?』
「はい。ルミ、こちら、ガレス船長だ。俺たちを回収してくれたんだ」
「音声記録と一致。救難行動への謝意を表明します」
『礼は後でいい。お前ならレンの身元を証明できるか?』
「できません。私の観測記録は搭乗者の覚醒後から始まっています。覚醒以前の所属、移動経路、身分情報は保持していません」
予想していた答えなのに、最後の一本まで切られた気がした。ルミは俺の証人ではなく、覚醒してからを一緒に見た相手にすぎない。
ガレスは続けて聞いた。金属の目が、隔離室の向こうにある黒い機体へ向く。
『黒い機体は、どこで誰が造った?』
「機体種別、製造主体、製造地点はいずれも照合不能です」
『なら、お前は?』
一拍だけ間があった。首もとの振動も、その間だけ止まった。
「私自身にも製造記録がありません。起動以前の履歴も保持していません」
「ルミも?」
「はい。機体の種別を照合できないこととは異なります。私の記録内には、参照できる製造記録そのものが存在しません」
少なくとも、ルミ自身の記録にはない。俺が地球までの道を説明できないのと同じように、ルミにも自分がどこから来たのかを示すものがなかった。
『名前しか分からない人間。呼び名しかない知性体。それに、まだ正式な名前もない機体か』
ガレスは赤茶の髭を指で押さえ、しばらく俺たちを見た。
『よし。記録がないなら、次は現物だ。機体の故障を見抜ける奴に《アンノウン》を診せる』
扉が閉まり、外側の表示が青から橙へ変わった。色の意味は読めなくても、ロックされたことは開閉音で分かった。
俺は寝台へ腰を下ろし、内ポケット越しに腕時計へ触れた。首もとにはルミの気配があった。
それでも、俺たちがどこから来たのか証明できるものは一つもなかった。




