第17話 死体のない幽霊船
出発前の気密室で、ソナが俺の右手首をつかんだ。
『指を一本ずつ動かしてみてください』
言われた通りに動かす。薬指だけが、ほかの指より少し遅れた。
『二時間前と変わりませんね。痛みや震えが強くなったら、すぐに報告してください。身体に悪影響が及ぶと判断した時点で任務を中止します』
「分かりました」
『返事だけでなく、実行してくださいね』
ソナは白い測定シールの表示を確認し、借り物の船外作業服を俺へ着せた。中には翻訳に必要な黒いスーツを着たままだ。硬い外殻が首と肩へ触れるたびに痛んだが、我慢できないほどではなかった。
腰の工具帯には、照明、空気検査器、記録端末、命綱がついている。武器はない。
「ルミ。聞こえるか?」
「聞こえています。レンの生体状態を継続して確認します」
「貨物船の中は見える?」
「見えません。私は《ソヴリン・ゼロ》および《ラグナ》のセンサーへ接続していません」
「確認したかっただけだ」
気密室には、ガレスとドランもいた。二人は慣れた手つきで船外作業服を着ている。ドランは上側の二本の腕に命綱を持ち、下側の二本で工具の留め具を順に確認していた。
『レン。船へ入ったら、俺かドランの指示に従え』
「勝手に奥へ行かない。何か触る前に報告する。助けが必要な人を見つけたら救助を優先する。体調がおかしくなったら作業を中断する。これで合ってますか?」
『それでいい。右手が使いにくくなったら、作業を止めて工具を俺に渡せ』
ドランが答えた後、ガレスが俺の肩を軽く叩いた。
『確認できた。それでいい。行くぞ』
外側の扉が開いた。
《ラグナ》から伸びた接舷筒の先に、小型貨物船が固定されていた。船体は灰色で、中央の貨物区画だけが太い。目立つ破損はなく、推進器も姿勢制御灯も消えている。
『対象船の登録名は《オルカ》。登録乗員は六名です』
トウマの声がヘルメット内へ届く。
『二十七時間前の定時通信を最後に応答がありません。救命艇の射出記録、船外活動記録、港への退船申請は、いずれも確認できません』
「六人が中にいるとは限らない?」
『はい。登録情報と現在の船内状況は分けて考えてください』
接舷筒の先には、《オルカ》の外扉があった。ガレスが端末を近づける。
『資格審査契約に基づく非常開放鍵を送信します。この鍵は《オルカ》の外扉に一度だけ使用でき、時刻と操作者が契約局へ記録されます』
「ほかの扉にも使えるんですか?」
『使えません。対象船、契約番号、使用時刻が一致しなければ無効です』
短い電子音の後、外扉の表示が赤から黄色へ変わった。ガレスが手動レバーを回し、ドランが下側の二本の腕で扉を支える。扉が開いても、接舷筒の圧力表示は安定していた。
『船内圧力は維持されています。空気は呼吸可能な組成ですが、乗員が応答しなくなった原因は不明です。作業服は開放しないでください』
ソナの指示に、三人で返事をした。
《オルカ》の船内は暗かった。非常灯だけが床に沿って点灯し、細い通路を照らしている。空気検査器は有害物質を検出していない。床や壁にも血はなく、争った形跡も見当たらなかった。
『応答のない船へ救助のため入った。聞こえる者がいたら返事をしろ』
ガレスが作業服の外部スピーカーで呼びかけたが返答はなかった
最初の居住区には、固定された机と六脚の椅子があった。机の上には中身の残った容器が二つあり、一つは蓋が開いたままだ。壁際の収納には船外作業服が六着、番号順に並んでいる。
『全員分あるな』
「予備かもしれませんよ?」
俺が言うと、ガレスが頷いて言った。
『そうだ。これだけで全員が船内にいたとは決められん。記録してくれ』
『居住区を映像保存しました。船外作業服六着、使用状況は未確認として記録します』
トウマの声が返る。
個室は六部屋あった。寝台の一つは掛布が乱れ、別の部屋では携帯端末が充電器につながっていた。人はいない。医務箱は未開封のままで、床に薬や包帯も落ちていなかった。
ガレスとドランは、扉を開ける前に必ず空気と温度を測った。俺は後ろから室内を照らし、見つけた物と時刻を読み上げた。
貨物区画には、箱が何列も固定されていた。登録票では浄水器の交換部品と保存食になっている。封印は切られていなかった。
『貨物には触るな。今回の目的は、船内の確認と乗員の救助だ』
「分かりました」
機関室では主機が停止し、予備電源だけが動いていた。
故障警報は残っているが、爆発や火災の記録はない。ドランが制御盤を調べ、短く報告した。
『故障は見つからない。外部から停止命令を受けて、その命令どおり停止している』
『誰が止めたかわかるか?』
『停止させた相手の記録は残っていない』
ガレスは返事をせず、その内容をトウマへ送った。
船尾まで調べても、六人の乗員は見つからなかった。もちろん遺体もない。救命艇は船体に固定されたまま、船外作業服も居住区に残っている。だが、船から出た方法がないと証明できたわけではなかった。
「現時点で確認できたのは、船内に生存者も遺体も見つからないことです。乗員が死亡したとも、全員が船の外へ出たとも判断できません」
『記録しました』
『操舵室へ行く』
ガレスが先に進み、ドランが最後尾についた。
操舵室の扉は閉まっていた。非常開放鍵は外扉にしか使えない。ガレスが手動開放部を確認している間、俺は扉の横を照らした。
「船長。ここを見てください」
壁に白い円があった。
直径は俺の掌より少し大きい。塗料で描かれたものではなく、灰色の壁材だけが白く変わっている。
線の継ぎ目も、削った跡もない。
『触るなよ』
「分かっています」
ドランが測定器を近づけた。白い円から熱、放射線、電波は検出されなかった。壁材を調べる詳しい検査は、船を回収してから専門家が行うことになった。
扉の右側には、手動の確認窓があった。ガレスが覆いを外し、細い透明板の向こうを照らした。操縦席は二つとも空いており、床にも人は倒れていないのが確認できた。ドランが確認窓へ生体検査器を当てたが、操舵室内から反応は出なかった。
「操舵室にも人はいない?」
『見える範囲と検査器の範囲にはいない。それ以上はなんとも言えん』
扉そのものを開けるには、白い円の近くにある手動機構を分解する必要があった。乗員救助のためなら開けるべきだが、生体反応はない。分解を続ければ、白い円や扉の内部に残る記録を壊す可能性があった。
『円の全体と周辺を撮影しました。寸法も記録しています』
トウマの報告が終わった直後、船内放送が入った。
『静かであれ』
短い声だった。声だけでは男性か女性か分からない。抑揚がなく、一度流れただけで止まった。
「トウマさん、今の声は記録できましたか?」
『できています。ただし、船の通常言語としては照合できません。レンさんのスーツが意味を変換した可能性があります。原音と変換後の意味を分けて保存します』
「ルミ。今の意味は?」
「レンへ伝達された意味は『静かであれ』です。発信者、発信位置、変換前の言語は確認できません」
ガレスが片手を上げ、俺たちを黙らせた。全員で周囲の音を聞く。しかし、空調と予備電源の作動音しか聞こえなかった。
『同じ信号が船内通信記録に残っています』
トウマが声を低くした。
『最初の記録時刻は、最後の定時通信から三分後です。その後、約四分ごとに同じ信号が送信されています。発信元の記録はありません』
「今まで外には出てなかったんですか?」
『はい。接舷後に初めて《ラグナ》も受信しました』
発信元の分からない信号と、作り方の分からない白い円が残っている。登録乗員六人は見つからない。だが、この三つに関係があるという証拠はなかった。
「船長。操舵室を無理に開けると、記録を壊す可能性があります」
『俺も同じ判断だ。人の反応がないことは確認した。これ以上は港の調査区画でやる方がいい』
ガレスは船内捜索を終了し、扉と白い円へ封印標を置いた。俺たちは来た通路を戻り、開けた区画を一つずつ閉じた。
《ラグナ》へ戻る前に、ドランが《オルカ》の牽引索を取り付ける場所を確認した。損傷はなく、そのまま接続できるようだ。
俺は端末に表示された手順を読み上げ、ドランが四本の腕を使って二本の牽引索を固定した。
『主索と予備索、どちらも固定できた』
「張力を確認。離脱します」
接舷筒が収納され、《ラグナ》がゆっくり動き出す。《オルカ》は二本の牽引索につながれ、同じ向きへ進み始めた。
回収先は、港の通常係留区画ではなく隔離調査区画に変更された。乗員の捜索と白い円の調査は、契約局と港警備局の立会いで続けるみたいだ。俺たちの任務は、《オルカ》を記録が残った状態でそこまで運ぶことになった。
警戒隔離室へ戻った後、ソナの再検査を受けた。症状が悪化していないことを確認してから、ガレスとトウマが同席し、壁の画面にラクスが映った。
『カミシロさん。乗員を見つけられなかったことは、審査の失敗にはなりません。確認できたことと推測を混同せず、船内の記録も残し、監督者の中止判断にも従いました』
「白い円と信号が何だったのかは、まだ分かってません」
『分からないことを、分かったように報告しなかった点も評価します』
俺の端末へ新しい文書が届いた。読み上げを開始すると、灰級仮免、発行日、有効期間四十五日という言葉が流れる。
『正式資格ではありません。依頼の種類、使用できる装備、監督者に制限があります。期限までに必要な実績と再審査を満たせなければ失効します』
「《ソヴリン・ゼロ》の封印は?」
『今までと変わりません。所有権と再搭乗の問題も、今回の合格とは別件です』
「分かりました」
全項目を最後まで聞き、トウマの画面と内容が一致していることを確認する。それから同意の表示を押した。
端末に、俺の申請者番号と灰色の印が表示された。
この世界で仕事を受けるための資格を、ようやく一つ手に入れた。仮免で、期限も制限もある。それでも、昨日までより一歩前に進んだ。
その一方で、《オルカ》に乗っていた六人が今どこにいるのかは、誰にも分からないままだった。




