第13話 四本腕の晩ごはん
お腹の音は、狭い廊下によく響いた。
前を歩いていたビットが声を出さずに笑った。後ろのソナは、俺の右手首にある白い測定シールを確認した。表示は緑のままだった。
『隔離室へ戻る前に、食事にしましょう』
「いいんですか?」
『訓練の時間は終わりました。食事も治療の一部なので、船長から監視付きで食堂へ連れていく許可を得ています』
『俺も監視するぞ』
『あなたは食べたいだけでしょう?』
『監視しながら食べるんだよ』
ビットは迷わず次の角を右へ曲がった。二人は隔離室へ戻らず、別の区画へ向かっている。
俺には壁の表示が読めないため、後をついていくしかなかった。
「ルミ。測定値に変化は?」
「ありません。レンの空腹を示す音は、5分前から二回確認しています」
「そこまで記録しなくていい」
『二回目は俺にも聞こえたぞ』
「忘れてくれ」
『あんな分かりやすいの無理だろ?』
ビットが開けた扉の向こうには、六人ほどで囲める金属の机があった。床へ固定された椅子は片側に三脚ずつ並び、奥には流し台と加熱器がある。赤茶色の壁には棚が直接取りつけられ、深い皿と銀色の器具が留め具に収まっていた。
加熱器の前に、大柄な男性が立っていた。
肌は緑がかった灰色で、短く刈った黒髪の下に太い首が続いている。厚手の作業着には袖が四本あり、肩の下からもう一対の腕が伸びていた。
上の二本で鍋と蓋を持ち、下の右手で火力を調整しながら、左手で皿を机へ並べている。どの手も迷わず動いていた。
俺は入口で立ち止まった。
『座れ』
大柄な男性は俺を一度見ただけで、空いている椅子を下の左手で引いた。
『砲手兼積荷担当のドラン・バスク。ついでにラグナで一番まともな飯を作る奴』
『ついでは余計だ』
太く低い声だった。ドランは鍋を加熱器へ戻し、四本の腕を使って俺たち三人分の皿と水の入った金属のコップを並べた。
「神代蓮です」
『聞いている』
椅子へ座りながら、もう一度腕へ目が向いた。ドランと視線が合い、慌てて顔を上げる。
「すみません。四本の腕を持つ人を見るのは初めてで」
『派生人類を見るのも初めてか?』
「はい。その言葉も、今初めて聞きました」
『なら仕方ない。飯は熱いうちに食べてくれ』
「はい」
ドランは向かいの椅子へ座ると、上の右手で自分の皿を引き寄せ、下の左手で棚から布を取った。椅子の背は低く、下側の腕を動かしても当たらない形になっていた。
皿には、薄茶色の汁と角切りの根菜、焼き目のついた肉が入っていた。隣には丸く平たいパンが一枚ある。湯気と一緒に、炒めた玉ねぎに似た匂いが上がってきた。
「俺が食べても大丈夫ですか?」
『レンさん用の材料は、医療端末で確認しています。初めて口にする物なので、量は少なめです。
具合が悪くなったらすぐに言ってください』
ソナは俺の隣へ座り、測定用の器具を机の端に置いた。彼女の前にも同じ料理があった。
「これの料理名は?」
料理を指してドランへ尋ねた。
『煮込みだ』
「それは見れば分かるだろ?」
『ドランに料理名を聞くだけ無駄だ。肉を焼けば焼いた肉、煮れば煮込みで終わる』
『食えば同じだ』
ビットは向かいへ座り、すぐにパンへ手を伸ばした。ドランの下側の右手が、その手首を止める。
『手を洗え』
『さっき洗った』
『訓練装置を触る前だ』
『見てたのか?』
『触った手で食おうとしてるな?』
『だめなのかよ?』
『だめだ』
ビットは不満そうに立ち上がり、流し台へ向かった。ドランは何事もなかったようにその手を戻し、別の二本で自分のパンをちぎっている。
俺は右手でスプーンを持った。指の震えで柄が皿の縁へ当たり、小さな音が鳴る。
ドランの下側の左手が伸びてきた。俺のスプーンを取り、棚から出した別の物と交換する。
新しいスプーンは柄が太く、手を通す輪がついていた。
『荷役用だ。船が動いても身体が振り回されないように固定できる』
「助かります」
『礼は食ってから言ってくれ』
輪へ右手を通すと、強く握らなくてもスプーンを支えられた。それでも震えは消えない。左手で柄を持ち、右手は皿が動かないよう軽く添えた。
一口目は、見た目より塩気が弱かった。柔らかい根菜には芋に似た甘さがあり、肉は鶏肉より少し硬い。空腹だったこともあり、飲み込んだ後すぐに次を口へ運びたくなった。
『どうだ?』
「うまいです」
ドランは一度うなずき、自分の皿へ戻った。
流し台から戻ったビットが座る。今度は堂々とパンを取り、半分を煮込みへ浸した。
『三回も失敗した後の飯はうまいだろ?』
「食事中まで言うのか?」
『何を失敗した?』
『姿勢保持。三回やって三回とも回り続けた』
「ビット」
『記録を残せって言ったのはあんただろ?』
「船中に広めていいとは言ってない」
ドランは俺の右手首に貼られた測定シールと、輪つきのスプーンを順に見た。
『怪我のせいか?』
「震えの影響はあります。でも、主な原因は俺が三方向を同時に見られなかったことです」
『なら、次は?』
「最初から三方向を見ます。動きが止まる前に逆向きへ噴かせる」
『悪くない』
短い返事だった。
『それ、俺が先に教えたんだけど』
『お前は教え方が悪い』
『同じことを言っただろ?』
『意味合いが違う』
ドランはそう言いながら、上の左手でビットの空いた皿へ煮込みを足した。同時に、下の右手でビットが取ろうとした二枚目のパンを押さえる。
『そっちはくれないのか?』
『煮込みを食ってからだ』
『腕が四本あるの、こういう時だけずるいだろ?』
『お前の手癖が二本分しかない』
ビットは反対の手でパンを取ろうとした。ドランは別の手で先に籠を持ち上げる。
上の右手では自分の食事を続けたままだった。
我慢できず、声を出して笑った。
二人が同時にこちらを見る。止めようとしても笑いは収まらず、首の痛みで肩を押さえた。
『レンさん、首は?』
「大丈夫です。笑った時に首が痛んだだけで、悪化した感じはありません」
『測定値にも変化はありません。ゆっくり呼吸してください』
「レン。心拍数が上昇しています」
「笑っただけだよ」
「ソナ医師、危険はありませんか?」
『今の数値ならありません』
ソナが答えると、ルミは「確認しました」と返した。
目を覚ましてから、冗談を言ったことは何度もある。少し笑ったこともあった。
それでも、何も考えずに声が出たのは初めてだった。
緑灰色の肌も四本の腕も、地球では見たことがない。壁の文字は読めず、皿の料理にも名前らしい名前がない。それでも、腹が減れば同じ鍋の料理を食べる。そういう食卓は、地球にいた頃と変わらなかった。
『そんなに笑うことか?』
「パンを取るのに二回とも失敗したから」
『俺はまだパンを取ってない。取ろうとしただけだ』
「二回とも止められてるだろ?」
『姿勢保持を三回やって、一回も成功しなかった奴に言われたくない』
「それとこれは別だろ」
ガレスの言い方をまねると、ビットが顔をしかめた。
ドランは残っていたパンを半分に割り、一つをビットの皿へ置く。
『煮込みは食ったな。次はパンだ』
『最初からくれよ』
『煮込みを食えば、ちゃんと出す』
ビットは文句を言いながら、その半分をすぐ口へ入れた。ソナも止めずに食事を続けている。
「ドランさんは、砲手なんですよね?」
『砲手と積荷だ』
「料理も」
『腹が減るから作る』
「機体の姿勢制御も分かりますか?」
『機体には乗らん。だが、動き出した荷を止めることはある』
ドランは四本のうち二本を机へ置いた。
『重い荷は、動いてから止めようとしても遅い。動き出す前の状態と、どの位置から止め始めるかを見る』
「シミュレータと同じですね?」
『荷も機体も、急には止まらん』
「次回試します」
『どこで失敗したか覚えてるなら、悪くない』
「ルミ。今のも記録しておいてくれ」
「助言として保存します」
ドランが俺の胸元へ顔を向けた。
『そっちがルミか?』
「はい。一緒に輸送艇を助けて、ここまで来ました」
『声は聞いてる。飯は食わないんだな?』
「私は食事を必要としません」
『飯代はかからんな』
『その分、俺の量を増やしてくれ』
『お前の分は増えんぞ』
ビットの返事が早すぎて、また笑いそうになった。今度は声を出さずに笑った。
皿が空になる頃には、空腹は収まっていた。右手の震えは残っているが、輪つきの匙を使えば最後までこぼさずに食べられた。
「ごちそうさまでした。今度は片づけます」
皿を持とうとすると、ドランの下側の両手が先に重ねて持ち上げた。上の右手は鍋を片づけ、左手は流し台の水を出している。
『お前は患者だ』
「もう歩けます」
『皿を割らない証明にはならん』
『訓練生の記録ならあるぞ。三回失敗』
「ビット。次の訓練は覚えてろよ」
『記録は消えないからな』
ソナが測定用の器具をしまい、立ち上がった。
『食後の数値も問題ありません。今度こそ隔離室へ戻ります』
「分かりました」
席を立ち、ドランへ頭を下げる。四本の腕はもう食器を洗い、拭き、棚へ戻す作業に分かれていた。
「また食べに来てもいいですか?」
『船長と医者が許せばな』
「次は訓練も一回くらい成功してから来ます」
『飯は成功報酬じゃない。腹が減ったら来い』
ドランは俺を見ず、洗った皿を棚へ留めた。
隔離室へ戻る廊下で、内ポケットにある腕時計の重さを確かめた。地球へ帰る道はまだない。
《アンノウン》へ乗る許可もなく、三方向の回転を止めることさえできない。
「レン。先ほどの発声を、笑いとして記録してもいいですか?」
「もう音は記録してるんだろ?」
「はい。音声記録ではなく、意味の分類を尋ねています」
「じゃあ、楽しかったって残してくれ」
「記録します」
白い測定シールが緑のままなのを確認して、俺はビットとソナの間を歩いた。




