第12話 一番遅い訓練生
目を開けると、右手首の白い測定シールが緑に光っていた。
首を少し動かすと肩の奥が痛む。右手を毛布の上へ出すと、指先はまだ細かく震えていた。
「ルミ。どれくらい寝た?」
「8時間12分です。船内標準時は翌日へ移行しています」
「途中で何かあったか?」
「レンに関係する警報はありません。測定片から受信した数値は、睡眠開始時より安定しています」
身体を起こし、寝台の端に腰を掛けた。昨日は立つだけで膝に力が入らなかった。
今日は両足に力を入れても、すぐにふらつくことはなかった。
「立ってもいいか?」
「ソナ医師の再検査前です。推奨しません」
「聞いてからにして正解だったな」
扉の外で短い音が鳴った。少し遅れて、ソナが入ってくる。昨日とは違い、細いケーブルのついた板状の器具を持っていた。
『おはようございます、レンさん。眠れましたか?』
「おはようございます、途中で起きた記憶はないです。」
『それでは、再検査を始めてもいいですか?』
「お願いします」
ソナは首の後ろと右手首の測定シールへケーブルをつないだ。器具に黄色い線が何本も現れる。俺には読めないため、表示ではなくソナの指示だけを見る。
『右手を開いてください。次に、親指から順に一本ずつ曲げて』
小指まで動かせた。昨日より震えは弱いが、薬指だけが少し遅れた。
『今、触れているのはどの指ですか?』
「中指」
『次は?』
「薬指」
昨日と違い、今度は間違えなかった。
『立ってください。壁へ手をつかず、十秒だけでいいです』
ゆっくり立ち上がる。膝は一度だけ揺れたが、座り込まずに済んだ。
続いてソナの指を目で追う。右端まで動いても、視界は暗くならなかった。
『どうですか?』
「昨日よりましです。これなら機体にも――」
『乗れません』
「まだ最後まで言ってません」
『言おうとしたことは分かりました。ですが、震えと感覚の遅れは残っています。神経反応も基準範囲へ戻っていません』
「じゃあ、再検査は不合格ですか?」
『実機へ乗るための検査なら不合格です。ただし、座ったままで行う非神経接続の訓練は許可できます』
ソナが扉の外へ合図すると、ビットが顔を出した。片腕で抱えている端末には、二本のレバーと座席の絵が映っている。
『船長から伝言。乗らずにできることがあるか聞きたいなら、まず自分がどれだけ動かせるか確かめろ、だってさ』
「機体には近づけないんですよね?」
『近づけません。使うのは旧式シミュレータです。神経接続はなく、座席も動きません。隔離室を出て戻るまで20分。測定シールが黄色へ変わるか、症状が強くなった時点で中止します』
「分かりました。それでお願いします」
隔離室に入ってから初めて、扉の外へ出た。ビットが先を歩き、俺の後ろをソナがついてくる。
赤茶色の廊下は二人が並べる程度の幅しかなく、床には補修した板の継ぎ目が何本も走っていた。
三つ目の曲がり角を過ぎたところで、膝に力が入りにくくなった。
ソナは俺の歩幅に合わせて速度を落とした。
室内にあったのは、灰色の座席と半円形の画面だった。肘掛けの前に短いレバーが二本あり、足元にはペダルが二枚ある。角の塗装が剥がれ、座席の背には何度も縫い直した跡があった。
「これで機体を動かすのか?」
『画面の中だけな。船で使ってた作業機の訓練装置だ。現行型とは操作の割り当てが違うけど、宇宙で姿勢を変える基本操作は同じだ』
「文字は読めないぞ」
『開始と中止、それから訓練で使う文字は俺が教える』
「すっかり先生だな」
『誰かさんが文字を読めないからな』
座席へ座ると、ソナが右手首の測定シールを確認した。首の後ろには細いケーブルをつなぐが、医療器具へ数値を送るためのものだと説明された。
『痛みや見え方に変化があれば、すぐに言ってください。続けられるかどうかは、成績ではなく身体で決めます』
「分かりました」
画面に星空と青い輪が現れた。中央には、箱形の作業機を後ろから見た映像がある。
『右のレバーは左右の回転、左は上下の回転と機体の傾き。ペダルは前後移動だ。今日は踏むな』
「左だけで二つ動かすのか?」
『倒す方向と、ひねる方向で分かれてる。どっちも中央へ戻せば噴射は止まる。ただし、機体の動きが止まるとは限らないけどな』
最後の一言で、レバーを戻しても機体の回転は続くのだと予想できた。だが、回転を止める方法までは分からなかった。
『最初の課題は姿勢保持。機体がゆっくり回って始まる。青い輪を画面の中央へ戻して、機体の姿勢を十秒止めてみろ』
「動かさないだけだろ?」
『そう思うなら、やってみろ』
開始の表示をビットが指す。
作業機が右へ回り始めた。星空は横へ流れ、画面の端ではわずかに傾いていた。俺は横の動きだけを見て、右のレバーを左へ倒す。噴射を示す白い光が機体の右側に出て、星空の流れが遅くなった。
青い輪が中央へ近づく。そこでレバーを戻した。
しかし、機体は止まらなかった。同じ向きへ回り続け、青い輪が中央を通り過ぎる。
「止まらないのか?」
『レバーを戻したのは噴射だけだ。回ってる機体まで止まると思ったか?』
反対側へ倒す。今度は逆方向の噴射が出たが、入力が遅かった。機体は大きく行き過ぎてから止まり、そのまま左へ回り始めた。
戻そうとするたびに、青い輪を挟んで左右へ振れる。さらに上下の向きまでずれ、輪は画面の端へ消えた。
『課題失敗。28秒で規定範囲外』
「最初に乗った機体より難しくないか?」
「比較対象が異なります。《アンノウン》では、私が姿勢制御と推力配分の95%を補助しました」
「どれだけルミに任せていたのか分かってなかったな」
《アンノウン》で俺が選んだのは進路だけで、姿勢制御はほとんどルミが行っていた。5%という数字を聞いていても、その差を理解できていなかった。
『二回目。今度は中央へ来る前に、反対へ噴かせ』
再び作業機が回り始める。逆向きの噴射を早めると、左右の回転は青い輪の近くで止まった。
「止まった」
『一方向だけな』
言われて画面の端を見る。作業機の頭側が少しずつ手前へ傾き、青い輪は下へ移動していた。
左右へ集中している間に、別の軸の回転を見落としていた。
上へ戻そうとして左のレバーも動かす。今度は機体全体が斜めに回り始めた。画面の中に床はない。それでも俺は、画面の上を機体の上だと思って操作していた。機体が傾けば、同じ入力でも噴射の向きが変わる。
二回目も青い輪を見失った。
「右手のせいですか?」
ソナへ尋ねると、ビットが操作記録を開いた。細かな揺れを除いた再生と、実際の入力による再生が横に並ぶ。二つの作業機はほぼ同じ場所で輪を外れた。
『震えの影響はあります。ただ、主な失敗原因ではありません。逆噴射を始める時期と、三方向の回転を確認する順番に問題があります』
『体調が万全でも、今の二回は失敗してる』
「はっきり言うな」
『身体のせいにしたままだと、治った後でも同じ失敗をするだろ?』
言い返せなかった。宇宙では自分がどちらを向いているかによって、右も上も変わる。
画面の一方向だけを追っていては、三方向の回転を止められなかった。
壁の通話器からガレスの声がした。
『救助しようとした判断まで間違いだったことにはならない。操縦が下手なのは別の話だ。そこは分けて考えろ』
「いつから見てたんですか?」
『最初からだ。俺の船で隔離中の人間を外へ出して、報告も受けんと思ったか?』
「それなら先に言ってください」
『言えば上手くなるのか?』
「ならないですね」
『残り時間は11分だ。口より先に手を動かせ』
通話が切れた。ビットが三回目を始める。
今度は青い輪だけを追わず、星の流れる向きを三か所で確認した。左右の回転を止める。
次に上下の回転へ逆噴射を当てる。その間に三つ目の傾きが増え、機体はゆっくり斜めへ回った。
十秒の姿勢保持には届かなかった。それでも、どの入力が遅れたかは二回目より分かった。
画面の横には、三方向の回転が別々の線で記録されていた。一本を中央へ戻している間に、残りの二本が外れていく。文字は読めなくても、同時に見なければならないものが三つあることは分かった。
四回目を始めようとしたところで、画面が暗くなった。
「まだ20分経ってませんよね?」
『測定片の数値は悪化していません。ただ、許可した時間には移動と説明も含みます。今日はここまでです』
「もう一回だけは?」
『駄目です』
『三回やって、姿勢を保てたのは一度もなし。今のところ、ラグナで一番進みの遅い訓練生だな』
「俺は訓練生になったのか?」
『座って三回失敗したからな。まあ、見学者よりは上だろ?』
悔しかったが、右手のせいだけではないと分かったことは無駄ではなかった。《アンノウン》が動けるようになっても、今のまま乗ればルミへ任せる部分が増える。次にルミが95%を補える保証もない。
「ソナ先生。次の再検査でも実機が駄目だった場合、この訓練はできますか?」
『今日と同じ条件を満たせば許可します。先に身体を診てからです』
「ビット。次は最初から三方向を見る。記録は残しておいてくれ」
『言われなくても残る。ラグナ最下位の記録もな』
座席を降りると、膝は支えなしで立っていられる程度には回復していた。
実機へ乗れる身体でも、宇宙で機体を止められる腕でもない。どちらも、今の俺に足りないものだった。
隔離室へ戻る途中で、お腹が大きく鳴った。
『そっちは訓練しなくても動くんだな』
「8時間も寝た後だからな」
前を歩くビットが笑った。俺は右手首の緑の光を確かめてから、その後を追った。




