第11話 患者は黙ってください
机に置いた右手は、力を抜いても震えていた。
赤い枠の中では、さっき覚えた「中止」の表示が点滅している。
『そのまま動かすなよ?医療警報が船医に飛んでるから』
「もう止まってるぞ?」
『手じゃなくて、身体の話だ』
言い返す前に、隔離室の扉が開いた。
入ってきたのは、濃紺の短い髪をした女性だった。こめかみから首へ、細い白線の刺青が続いている。
片手に薄い板状の器具を持ち、俺より先に机の赤い表示を見た。
女性が入ると、扉はすぐに閉じた。
『カミシロ・レンさんですね?』
「はい」
『初めまして、船医のソナ・ナーンです。診察に来るのが遅くなってすみません。輸送艇の怪我人を先に診ていたもので。今からあなたの身体を診察してもいいですか?』
話し方は穏やかで、こちらを急かすような様子もない。少しだけ緊張が和らいだ。
「はい、お願いします」
『右手はいつから震えていますか?』
「目が覚めて、機体を動かした後からです」
『最初から同じような震えでしたか?それとも悪化していますか?』
「さっき字を書いた時にひどくなりました」
ソナは短く頷き、ビットへ顔を向けた。
『端末が異常を検出するまでの間に、レンさんに何をさせましたか?』
『名前を一文字書かせただけだって』
『だけかどうかは私が決めます。ビットはそこにいてください』
『逃げないってば!』
『通気口へ戻った場合も診療記録に残しますよ?』
ビットは開きかけた口を閉じ、机の端から降りた。
ソナが俺の前へ器具をかざす。青白い線が額から胸、両腕へ順に走った。
熱も痛みもない。線が右手を通った時だけ、器具の端に黄色い点が光った。
『首と肩も痛みますか?』
「動かすと痛いです」
『立ちあがった際に、視界が暗くなったことは?』
「あります。膝にも力が入りにくいです」
『吐き気や頭痛、言葉の出にくさなどはありますか?』
「最初に加速した後は吐きそうでした。今はありません。頭痛もないです」
『記憶が抜けたところはありますか?』
「こっちに来る前の倉庫にいたところまでは覚えています。その後、機体で目を覚ますまでのことは思い出せません」
ソナの指が止まった。
『それは船内に収容される前ですね?』
「はい」
『今回の症状とは分けて記録します。次に、両腕を前へ出してください。目を閉じて、そのまま十秒動かさないでください』
言われた通りにした。左腕は止めることができたが、右腕だけが少しずつ下がり、指先が細かく震えている。
『利き手はどちらですか?』
「右です」
『目は閉じたまま、触れた指を答えてください』
左手の人差し指に、冷たい先端が触れた。次は小指に。どちらもすぐに分かった。
右手に移ると、どの指に触れられたのか分からなくなり、迷って、中指と答えた。
「違いましたか?」
『触れた箇所は薬指です。もう一度します』
二度目は分かったが、触れられてから答えるまでに少し時間がかかった。やはり右手だけ感覚が鈍かった。
『今まで気づいていましたか?』
「手が震えてるということは分かっていました。非常時だったので感覚までは」
『小さい異常は、強い痛みの中に隠れてしまうものです。気が付かなくても仕方がないことです。次に、私の指を目だけで追ってください。顔は動かさずに』
白い指先が左右へ動く。右端まで追ったところで、視界の外側が暗くなった。
『視界が暗くなりましたか?』
「はい」
『そこで止めてください』
「まだできます」
『できるかどうかを試す検査ではありません。異常が出る場所を確認する検査です』
『次は、ルミさん。私の声が聞こえますか?』
「聞こえています」
『ルミさんにお聞きしますが、レンさんが機体を動かしていた間、意識消失はありましたか?』
「完全な意識消失は確認していません。急加速時に視野狭窄、呼吸の乱れ、右手指部の振戦を観測しました」
『運動補助は、身体の反応に合わせて調整されていましたか?』
「姿勢制御と推力配分は調整しました。ただし、レンとの神経接続がいつ始まったか、接続前の基準値は記録にありません」
『接続前の値がないのに、接続後の補正を続けたんですか?』
「はい。直撃回避と搭乗者の生存を優先しました」
ソナはルミを責めなかった。器具に触れ、今度は俺の右手と両膝の表示を画面に並べた。
『緊急時の判断としては理解します。ただ、身体は簡単には治りませんよ?』
「俺の身体に何が起きてるんですか?」
『首と肩は急加速による筋肉の損傷です。骨に異常は見つかりませんが、問題は右手と両脚ですね』
黄色い点が線でつながり、首の後ろから右腕と両脚へ伸びた。
『神経接続による微細な損傷です。接続を使った操縦者に見られる反応が出ています』
「脳をいじられたってことですか?」
『違います。機体が脳を書き換えた所見はありません。身体を動かす命令が通る経路に、小さな損傷が残っています』
「でも、俺はレバーとペダルで動かしただけですよ?」
『物理操作があっても、機体が操縦者の意図を神経信号から補う場合があります。あなたの身体には、その接続を使った痕跡があります』
「神経の損傷って、治るんですか?」
『しばらく休めば治る可能性が高いです。ただし、今の状態で再接続すれば悪化します。震えや立ちくらみで済まなくなるかもしれません』
「どこまで悪くなるんですか?」
『右手を思うように動かせなくなるかもしれないですし、立てなくなるかもしれない。もしかすると、意識を失うかもしれません。どの症状が出るかは私にも分かりません』
そこまで言われて、ただの疲労ではないことが分かった。
『今から、機体への再搭乗を禁止します』
「待ってください。あの機体は、俺以外には動かせないかもしれないんですよ?」
『だから乗る、と言うつもりですか?』
「外では、あの機体を買おうとしてる奴がいます。もし追ってきたら、動かせない方が危ないです」
『今のあなたが乗れば、安全に動かせるんですか?』
「それは……やってみないと分かりません」
『分からないまま接続すれば、身体が悪化するかもしれません。あなたが倒れたら、機体も止まりますよ?』
「でも、乗らなかったら、追ってきても何もできないですよ!」
声が大きくなった。右手の震えも強くなり、ソナの器具が短い警告音を出した。
『患者は黙ってください!』
「今のは質問への答えです」
『あなたの気持ちは分かりました。ですが、医師の判断を聞いてください』
俺はそれ以上、言い返せなかった。
『身体への負担を避けるため、しばらく再搭乗は禁止です。機体を取り上げるわけではありません』
「俺が乗れない間に、誰かが持っていったら?」
『それを止めるのは船長と整備士の仕事です。あなたが神経を壊してまで見張る仕事ではありません』
正しいと思う。だが、公的な身分もない今、あの機体まで無くなったら何が残るのか分からなかった。ルミの声も、機体の中枢が止まれば消えるかもしれない。
「ルミはどう思う?」
「質問の対象を特定してください」
「俺が乗らなくても、今の接続は保てるのか?」
「現在の機体出力と船内距離が維持される場合、スーツへの局所音声接続は継続できます」
「もし追手が来たら、俺が機体に乗った方が生存率は上がるんじゃないか?」
「現在のレンの身体状態を含めた比較はできません。再接続時の悪化範囲を算出できないためです」
ソナがルミの返答を待ってから尋ねた。
『ルミさん。今の状態で再搭乗を勧めますか?』
「勧めません。レンの生存を優先する場合、ソナ医師の判断に同意します」
「ルミまでそっちなのか?」
「はい」
「俺が乗らなければ、ルミも機体を動かせないだろ?」
「はい。それでも同意します」
俺は右手を左手で押さえた。止めようと力を入れるほど、指先は細かく揺れた。
「搭乗はいつまで禁止ですか?」
『再搭乗できるかどうかは、時間の経過だけでは判断しません。右手の震え、膝の安定、視界の異常、神経反応。この四つを再検査した結果とします』
「最短なら?」
『一度きちんと眠った後です。ただし、それだけで解除できると約束はできません』
「解除されるまでは、操縦席へ入るのも駄目ですか?」
『接続を切ったままでも、未知の機体なので安全を保証できないので、駄目です』
「......分かりました」
納得したわけではない。だが、内容が分からないまま同意しないと決めたばかりだ。それなのに、危険性も分からないまま乗ると言えば、やっていることは同じだった。
ソナは俺の首の後ろと右手首に、小さな白い測定用シールを貼った。
『このシールは治療ではなく、経過を確認するためのものです。身体の状態が悪化した場合は、私に自動で通知が届きます。勝手に外さないでください』
「風呂は入っていいですか?」
『入れる状態になってから質問してください』
ビットが横で笑い、すぐに口を押さえた。
ソナは机の端末へ指を滑らせた。赤い枠の表示が切り替わり、見覚えのない文字列が二行並ぶ。
「ビット。今の表示は何て書いてある?」
『上が神経接続禁止。下が再検査待ち』
「さっきの四つより長いな」
『一日で全部覚えようとするなよ』
俺は二つの表示を見直したが、やはり全く分からない。
『他に質問はありますか?』
「一つだけあります。乗れない間に身体を治す以外、部屋で何をしていいですか?」
『それは船長に聞いてください。あなたが今からしていいことは、眠ることだけです』
ソナは器具を片づけ、扉へ向かった。ビットも端末を抱えて後を追う。
『起きたら、船長に聞くんだろ?』
「ああ。身体を治す間に何かできることがあるかを聞くつもりだ」
『それなら大丈夫だな』
扉が閉じ、机の表示も暗くなった。右手首の測定用シールが、一定の間隔で緑に光っている。
「ルミ。起きた時もいるか?」
「現在の接続条件が維持される限り、応答します」
「なら、もう寝る」
「了解しました、レン」
寝台に横になると、右手はまだ震えていた。俺は左手で毛布を引き上げ、眠りについた。




