第10話 異星の文字
ビットが差し出した画面は、俺の名前を入力する場所さえ見分けられなかった。
細い線で区切られた枠が七つ。上には形の違う記号が二十ほど並び、下の端で青い光が点滅している。入力を待っている表示らしいが、それが確認なのか取消なのか分からない。
「これ、間違えて押したらどうなる?」
『練習用だから、今は何も起きないが、もし本物だったなら、記録に残るぞ』
「先に聞いといてよかった」
隔離室の机が短く鳴った。外部網から切られているはずの端末へ映像が来た時とは違う、聞き慣れた船内通話の音だった。
『ビット、聞こえるか?』
ガレスの低い声に、机の上の少年が肩をすくめる。
『報告は見た。王女の公報には、これ以上手を出すな。受信した記録は複製して、元のデータもそのまま残しておけ』
『もう既にやってるよ』
『隔離室へ勝手に入った件は後でな。そこにいるなら、今はレンの文字の訓練を手伝え。ただし、署名や外部への送信はさせるな』
『分かってるって』
通話が切れた。
『侵入した奴に教師をやらせる船長がいるかよ』
「役に立ってから怒られるんだな」
『あんたも笑ってる場合じゃない。追っ手は文字の授業が終わるまで待ってくれないぞ』
地球へ帰る方法が分からないことも、黒い機体の居場所を探している者がいることも変わらない。
それでも、今すぐできることが文字を覚えることなら、まずはそこから始めればいい。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
「何から覚えればいい?」
『文字を全部覚えるのは後でいい。まずは、知らないと困る単語を四つだけ覚えろ』
ビットが画面を操作すると、長い文章が消え、四つの文字だけが残った。
『同意、拒否、氏名、中止』
ルミの翻訳で、それぞれの意味は分かった。
けれど、画面に並ぶ文字はどれも見たことがない。どの文字が「同意」で、どれが「拒否」なのかも分からなかった。
「もう一度」
『同意』
ビットが左端を指す。
『拒否』
二番目。氏名が三番目で、中止が右端だった。
「ルミ。今の言葉、元の音で聞くことはできるか?」
「現在の接続では、発話から抽出した意味をレンの言語認識へ伝達しています。変換前の音列を正確に分離して再出力できる記録はありません」
「意味は分かっても、読み方は分からない?」
「肯定。表示形状との対応も自動では形成されません」
服を脱いだ時、ビットたちの言葉は意味の分からない音になった。スーツは音声の意味だけを変換し、文字の形や読み方までは変換しないらしい。
『だから、まずは形で覚えろ。俺が言葉を言うからあんたは文字を押してくれ。間違えたら最初からだからな』
「四つくらいなら覚えられそうだ」
『中止』
右端を押す。青く光った。
『氏名』
三番目。
『拒否』
二番目。
『同意』
左端へ指を置く。全部当たった。
「簡単だな」
『そう思うだろ?』
ビットが指を鳴らすと、四つの表示が位置を入れ替えた。
『拒否』
反射的に二番目を押した。赤い光が走る。
『今のは氏名。あんた、文字じゃなくて配置で覚えたな』
「最初からって、そういう意味か?」
『じゃなきゃ意味ないだろ?』
「あの言い方だと、問題を出し直すだけにも聞こえる」
『負け惜しみは文字を覚えてから言え』
「一つの形で、一つの意味なのか?」
『そうとは限らない。今見せてるのは、登録画面で一つの単語として表示される文字だ。中の線を勝手に区切って、別々に覚えるなよ』
「どこまでが一つの単語なのかも教えてくれないのか?」
『今のあんたにはな。話し言葉なら、ルミの翻訳で意味まで分かる。でも文字は違う。どこからどこまでが一つの単語なのか、自分で見分けないといけない』
「同意」と「拒否」の文字を見比べた。似ている部分があるように見えるが、本当に同じ文字なのか、それともただ似て見えるだけなのか、今の俺には判断できなかった。
学校で知らない英単語を見た時より、手がかりが少なかった。アルファベットなら、少なくともどこで文字が区切れるかくらいは分かる。
『今日は細かく分けて覚えなくていい。その四つを、荷札みたいに一つの形として覚えろ』
「俺が倉庫にいたって、誰から聞いた?」
『あんたが最初に話した内容が船内に残ってる。身元が確認できてなくても、本人が申告した経歴は記録されてる』
ビットは四つの文字から色と枠を消し、大きさもそろえた。今度は一列に並べず、机の四隅へ散らす。
右手を伸ばすと肩が痛んだので、椅子ごと少し机へ近づいた。
四つの形を見直した。左から何番目ではなく、線の曲がり方で文字を一つずつ覚えていく。
同意と拒否は似ている。上側に短い線がある方が拒否で、下に閉じた輪がある方が同意。
氏名は細い線が二本向かい合い、中止は途中で切れた輪の中央に点がある。
似た形でも、違いを見落とさないよう一つずつ覚えるしかなかった。
『中止』
中央に点のある形を押す。青。
『同意』
閉じた輪。青。
『氏名』
二本の線。青。
『拒否』
最後も青くなった。
『二周目で四つとも正解。まあ、悪くはない』
「褒めるなら普通に褒めろよ」
『あんたは十七歳に褒められたいのか?』
「今は俺の教師なんだろ?」
ビットは答えず、元の登録画面を開いた。覚えた四つが長い文章の中に混じっている。
俺は氏名の表示を一つ見つけた。隣の空欄には、現地の文字で俺の名前らしきものが入っている。
その先は何も読めない。同意の表示だけは下の端にあった。
分かるようにはなったが、その上に何が書いてあるのか分からなかった。
ビットが四つの文字を並べ直した。
『じゃあ確認するぞ』
一つの文字だけが大きく表示される。
『これは?』
「拒否」
『正解。次』
別の文字に切り替わった。
「氏名」
『それも正解』
ビットは残りの二つも順番に表示した。
「同意」
『正解だ』
「中止」
『それも正解』
四つの文字がもう一度、画面に並んだ。
『覚えるの早いな』
「四つだけだからな」
『……まあ、それはそうか』
「全部読めるようになるまで、登録はできないのか?」
『全部の文字を覚えるのを待ってたら、追っ手の方が先に来る。船長かトウマに内容を一行ずつ読んでもらって、確認しながら進めればいい』
「自分で全部読めなくても大丈夫なのか?」
『分からないところを勝手に進めなければな。必要なら途中で止めて、もう一度説明してもらえばいい』
「それなら何とかなりそうだな」
『だから今は、登録する時に最低限必要になる四つだけを覚えろ』
今すぐ、すべての文字を読めるようになる必要はない。まずは、身元登録で必要になる四つの単語を覚えればいい。
ビットは四つの文字を消し、代わりに白い入力欄を表示した。
『次は文字を読むんじゃない。ここに、あんたの名前を書いてくれ』
「神代蓮って、全部?」
『まずは普段呼ばれてる名前だけでいい。「レン」の現地表記は、発音からもう作ってある。今度は、あんたが元いた場所で使ってた文字も残しておきたい』
「向こうの文字で書けばいいのか?」
『そう。こっちで文字として認識できなくても、そのまま画像として保存できる』
「これも身元登録に使うのか?」
『今日は船内に保存するだけだ。外へ送信する時は、文字を読める奴と一緒に内容を確認してから。船長からもそう言われただろ?』
「それならいい」
ビットから細い棒を受け取り、白い入力欄に先端を当てた。
書き始めると、右手が震えた。最初の線がわずかに曲がる。
「レン。右手指部の振戦が、直前の安静時より増加しています」
「名前を書くだけだ」
「継続は推奨しません」
『左手で書けば?』
「まともに書けない」
右手首を左手で支え、もう一度書き始めた。
スマホが普及してから、文字を手で書く機会はずいぶん減った。
震える右手を支えながら、ゆっくり一画ずつ書いていく。最後の線が少し伸びた。
白い入力欄に、「蓮」の文字が残った。
『線、多くないか?』
「こういう字なんだよ」
『文字の意味は?』
「花の名前だ。泥の中に根を張って咲く」
『今のあんたに似合いすぎて、作った話みたいだな』
「俺が付けた名前じゃないぞ」
画面の端に、小さな印が現れた。ビットが表示を確認する。
『こっちの文字とは一致しないな。「蓮」は画像のまま保存して、読み方を「レン」で登録しておく』
「ルミにも見えるか?」
「現在、この端末の画面は確認できません」
「そうだったな」
俺が書いた「蓮」の字は、今のルミには見えない。
「いつか見せる。今は、花の名前だって覚えておいてくれ」
「了解しました。レンの故郷で使われていた名前の表記であり、花の名前でもあると記録します。画像そのものは未確認です」
その時、端末から短い警告音が鳴った。
「蓮」の隣に赤い枠が現れ、その中に見覚えのある文字が表示される。
さっき覚えた四つのうちの一つだった。
「中止」
『正解』
ビットが画面に表示された警告を確認し、表情を変えた。
『書いてる時の手の震えを検出したみたいだ。医療確認が終わるまで、文字を書く練習は中止だってさ』
「せっかく四つ覚えたばかりなのに」
『だったら、その画面に書いてある「中止」に従えよ』
右手を見る。棒を握った指は、まだ細かく震えていた。
画面には、俺が書いた「蓮」と、「中止」の文字が並んでいる。
画面に表示された「中止」の文字をもう一度見て、俺は棒を机に置いた。




