ぶちっと
「……そろそろ頭は冷えたかい?」
回廊のすぐ傍、四阿を囲む灌木の向こうから聞こえたのは、とても優しい声でした。
「俺だって、なにも事を荒立てたいわけじゃない。できればきみの家とは良好な関係でいたいからね」
甘く、ゆったりとした落ち着いた声。
「きみさえ反省して、おとなしくしてくれるなら……条件次第では、今回のことに目を瞑ってあげてもいいと思ってるんだよ……?」
甘い、甘い―――毒の潜む……それは、キッぺリング様の声でした。
「っ!」
かっと頬を染めたハンコック様を、素早くリディア様が制します。
人差し指を唇の前に立て、そっと隠れていた柱を回り込み、茂みに近寄るリディア様。乗り込みたい気持ちを抑えて、わたくしたちも後に続きました。密集した木々に阻まれ、向こう側はよく見えませんが、向こう側からもわたくしたちの姿は見えないはず。こんな人目につかない場所で、今度はいったいどなたを誑かそうとしているのかしら!
苛立ちながらもリディア様に倣って植え込みに身を寄せた、そのとき。
「……いまさら何の話をしているの?」
穏やかな、それでいて張り詰めたような声が耳を打ちました。
「今回のこと……?わたくしはなにもしていないわ。恥ずべき真似をした挙句、ラストダンスはほかのかたと踊ると宣言したのはあなたの方でしょう?」
―――ハンナ様!?
思わずわたくしたち3人は顔を見合わせてしまいました。
いけ好かないとはいえ、ハンナ様とキッペリング様は婚約者同士の間柄。もし、キッペリング様がご自分の非道を反省して謝ろうとなさっているのなら、ここに留まるのは野暮というものでしょう。
でも、もしキッペリング様が先週末の愚行の上塗りをなさるとしたら?これ以上、ハンナ様を辱めるとしたら……?
「ああ、ハンナ、ハンナ」
毅然としたハンナ様の対応に、植え込みの向こうでキッペリング様は苦笑したようでした。
「そういうところだよ、ハンナ……どうしてきみはそう頑ななんだい?ただ俺はきみにもっと優しくしてほしいだけなのに」
少しだけ遠ざかる声、小さな靴音、微かに何かを動かす音。
「ねえ、ハンナ……いい加減意地を張るのはやめないかい?そりゃあ、俺の周りにはいろいろなご令嬢が集まる。でも、俺の婚約者はきみなんだよ?きみは婚約者らしく悠然としていればいい。そして、余計なことは言わず、俺を立ててくれればいい。……わかるだろう……?」
「……それがあなたの言う、『条件』ということ?わたくしに、すべてに目をつぶれと?」
おそらくハンナ様の傍に座っただろうキッペリング様はなおも甘く囁きます。
「目をつぶれ、とは人聞きの悪い。ただ俺は、きみに味方でいてくれってお願いしてるんだよ。俺の不利になるようなことを言ったり、蛇姫の肩を持ったり、最近のきみは少し意地悪だからね」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと!!
あまりの身勝手さに、わたくしは震える手を握りしめました。
目の前の枝に縋りたいのはやまやまですが、今握ったら確実に折ります!ええ、間違いなく!
隣ではリディア様が俯いてぶるぶると肩を震わせ、ハンコック様がおろおろと宥めようとしています。
「それに……少し困っているんだよ。俺のことを想って、余計なことをしでかした方々がいてね……」
植え込みの陰で怒りを抑えるのに必死なわたくしたちに気付く様子もなく、キッペリング様はため息をつきました。
「おかげでバスター教授から呼び出しを食ってしまった。……ねえ、ハンナ。助けてくれないか?リキエシタ最終日のことは、きみのアドバイスだったって言ってくれないか」
「「「!!」」」
「馬鹿を言わないで!!」
あんまりなお願いに、ハンナ様が立ち上がったのでしょう。がたん!という大きな音にわたくしたちが息を飲んだ音はかき消されたようでした。
「あの場にはアリアドネ様やハンコック様以外にもたくさん人がいたのよ!?そんな嘘が通じるものですか!」
「そんなことは判っているよ。そうじゃない、俺が頼んでいるのは白カードの方さ」
いつになく声を荒げるハンナ様を宥めるようなキッペリング様。
「白カードが多すぎるのも問題にされそうなんだ。だから、あれはきみのアドバイスだったと言ってほしい。逆リキエシタが殺到して困っていた俺を見かねて、きみが白カードで受けることを提案した、って」
……なんて……なんて恥知らずな……!!
怒りのあまり、わたくしは目が回りそうでした。
この厚顔無恥な顔だけ男は、少しでも罪を逃れるために、こともあろうにハンナ様に悪行の片棒を担がせようとしているのです!!
「なあ、頼むよ。ハンナ……そうしたら、前言も撤回しよう。最初の予定通り、ラストダンスはきみと踊ってあげる。……きみだって、公衆の面前で恥はかきたくないだろう?」
ぶちっと。
わたくしは自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞きました。
でも、それよりも早く。
「ジュリアン・キッペリング!!」
目にもとまらぬ速さで護り刀を抜いたハンコック様が目の前の植え込みを斬り分け、四阿へ乱入したのです!!
「なっ……」
「ハンコック様!!?」
そうして、驚いて立ち上がるキッペリング様に護り刀を突き付けて。
「貴様だけは許せん!!ジュリアン・キッペリング、貴様に決闘を申し込む!!」
ハンコック様はそう宣言なさったのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「け……決闘……?」
真剣な目で護り刀を構えるハンコック様を見て、キッペリング様は引きつったような笑みを浮かべました。
「な……にをいきなり……なんだ、おまえは!失礼だろう!断りもなく個人的な空間に割り込んで!」
「失礼なのは貴様の方だ!この恥知らずが!!」
「まあ!アリアドネ様!リディア様!!」
分断された植え込みを乗り越えるリディア様に続くと、ハンナ様が驚いて腰を浮かせました。
「ごめんなさいね、ハンナ様。通りかかってすべて聞こえてしまいましたの」
謝りつつ、わたくしはちらりと哀れな植え込みに目をやりました。
……凄いわ。さすが騎士候補生。
達人は武器を選ばず、と言いますが、騎士ともなるとあんな短い護り刀で植え込みを伐採できますのね………じゃなくて!
「オスカー、剣を収めよ。気持ちはわかるが、お前は騎士候補生だ。一般生徒に剣を向けてはならぬ」
ついわたくしが現実逃避した間にも、リディア様はハンコック様を厳しく諫めます。
「………はい」
一瞬食って掛かりそうになり……それでもハンコック様は唇を噛みしめて護り刀を収めました。
「そ……そうだ!騎士候補生のくせに!丸腰の生徒に剣を向けて威嚇するなんて!これは由々しきことだぞ!すぐにでも教授会に……」
「この卑劣な男にお前の剣はもったいない、と言っているんだ」
ハンコック様が剣を収めたのを見て勢いづいたように喚くキッペリング様を遮り、リディア様は悔しそうなハンコック様の肩を叩きました。
「それに、こんな腰抜けに決闘など申し込んだら弱い者いじめになってしまうじゃないか。見ろ、護り刀を突き付けられたくらいで足が震えてる」
「なっ……」
あからさまな侮辱に見る間に真っ赤になるキッペリング様を無視して、リディア様はハンナ様に向き直ります。
「ハンナ先輩、ご無礼をお許しください。聞くともなしに会話が聞こえてしまって……どうにも我慢がなりませんでした」
そう言って騎士の礼を取り、それから殺気のこもった目でキッペリング様を見据えました。
「……オスカーに感謝するんだな。こいつが飛び込むのが一歩遅かったら、私がお前をぶん殴ってた」
「……っ…」
その迫力に何も言えなかったのでしょう。キッペリング様は唇を噛み、それからぱっとわたくしに向き直りました。
「アリアドネ様!これはどういうことですか!」
目を潤ませ、いかにも被害者然とした顔でわたくしに訴えます。
「婚約者との語らいを曲解してこんな……いくら僕のリキエシタがきっかけてハドリー先生に言い掛かりを付けられたからって……あんまりではありませんか!」
「……曲解……?」
「ええ!そうです!僕は少しだけハンナに優しくしてほしかっただけなんです!それに、ハドリー先生のことだって……僕は一言たりともアリアドネ様を悪く言ったりしていません!いくら締め切り間際で焦っていたとはいえ、その、人のリキエシタを邪魔してしまったのは悪かったと、今なら思いますし……アリアドネ様にも、最初から締めくくりをお願いしますと一言告げておけば、あなたを不快にさせることもなかったと、自分の配慮不足を悔やむばかりで……」
「……不快……?」
ええ、今まさに不快になっていますとも!!
本当に、このかた、わたくしを不快にさせるのが天才的にお上手ですわ!!
イラっとして首を傾げたわたくしをどうとったのでしょう。キッペリング様は我が意を得たりとばかりに目を輝かせました。
「そうです!……不安にさせたのでしょう?僕が真っ先にあなたにリキエシタのお願いをしなかったから!でもあの時も申し上げたように、僕はあなたにリキエシタの最後を飾っていただきたかったんです!それなのに、何も言わなかったから……さぞご不快だったでしょう?僕がほかのご令嬢を優先したようで!でもあれは……」
「え、ちょ、ちょっとお待ちになって?」
何を言ってるんですの?このかた。
……そういえば、先生方もなにやらそのようなことをおっしゃっていましたわね。わたくしがプライドを傷つけられたとかなんとか。
「わたくしが……なんですって?何故不快になったと……?」
「ですから。僕が一番にあなたに申し込まず、ほかの令嬢を先に誘ったから、拗ねてしまわれたんでしょう?申し訳ありませんでした。あなたのプライドを傷つけるとは思わなかったんです。いつも毅然としたあなたに、そんな可愛らしい一面があるとは知らなくて」
「……はぁ?」
うっとりとそう言って、唖然とするわたくしの手を取ってキスするキッペリング様。
わたくしは思わずその手を払いのけてしまいました!
「アリアドネ様?どうなさいましたか?」
「あ……あなた……あなた、まさか本気でおっしゃってますの?わたくしが……あなたに優先されなかったから……リキエシタをお断りしたと…?」
恐る恐るそう尋ねれば、返るのは輝かんばかりの笑顔!!
ああ!なんてこと!!
このかた、わたくしが自分に好意を持っていると……だから、ハンコック様のリキエシタを妨害したことを口実に優先されなかった意趣返しをしたのだと、本気で思っていらっしゃるのですわ!!
わたくしは天を仰ぎたくなりました。
ここ、カリュートス王国ですわよね?わたくし、公用語話してますわよね??それなのに、こんなに話の通じない方がいらっしゃるなんて………!!!
みなさま!こんな幻の珍獣のような方、どう対応したらよろしいの!?
「アリアドネ様」
「おやめになって!」
困惑を通り越し、なんだか怖くなってしまって、わたくしは再度手を取ろうとしたキッペリング様を拒絶しました。
「おやめなさい!ジュリアン!アリアドネ様は嫌がっておいでだわ!」
「ハンナ、少し黙っておいで。僕はアリアドネ様と話しているんだ」
咄嗟にわたくしを庇おうとしたハンナ様の言葉をも、キッペリング様は聞こうともしません。
もう、わたくしは腹を括りました。
どうあっても話が通じないのですもの。もう、ずばっと申し上げるしかありませんわよね!
「勘違いをなさっているようね、キッペリング様」
相手の目を見据え、わたくしは背筋を伸ばしました。
「わたくし、あなたに優先されなくてもこれっぽっちも意に介しませんわ。それどころか、リキエシタを受けて驚いたくらい。だって、最初からあなたなど眼中にありませんもの。よろしくて?わたくしが0点を付けたのはあの時申し上げた通り。あなたが。ハンコック様の。リキエシタを邪魔したから。それ以外の理由なんてありませんわ!」
理由のあたりをゆっくりと。言い聞かせるように申し上げると、キッペリング様はきょとんと妙に幼い顔をされました。
まるで、何を言われたのかわからないというように。
「……え……で…でも………」
「でもも何もありませんわ。それだけが事実です。わたくしのプライドも関係ありません。あなたがマナー違反をなさった。だから落第点を差し上げた。それだけですわ」
「……っ!!」
再度念を押すように申し上げると、ようやく理解なさったのでしょう。キッペリング様は真っ青になり、それから真っ赤になりました。
「そんな馬鹿な!どうして……っ」
「馬鹿な、と言いたいのはこちらですわ。逆に伺いますけれど、どうして女性はみんなご自分に好意があると思い込めるんですの?あなたの軽薄さに辟易している方もいらっしゃるでしょうに」
「そうだな。私なんかもその一人だ」
歯に衣着せずに申し上げると、リディア様もうんうんと頷きます。
「そんなにその顔が自慢なのか?だけど、お前より顔のいい男なんかたくさんいるだろう?ランス先輩とか、両殿下とか、ジーク様とか。中身が伴ってる分、お前なんぞ足元にも及ばないくらい魅力的だが」
「う……うるさいっ!!」
リディア様の素直な言葉が痛いところをついたのでしょうか。キッペリング様は普段の優雅さをかなぐり捨てて怒鳴りました。
「お前のようながさつな男女に何がわかる!!女だてらに剣を振り回すくらいしか能がないくせに!」
「やめて!ジュリアン!」
「うるさい!」
「ハンナ様!!」
思わずわたくしは悲鳴を上げました。
リディア様への暴言を止めようと縋りついたハンナ様をキッペリング様が振り払ったのです!!大きな音を立ててハンナ様はテーブルセットの方へ倒れこみました。
「ハンナ様!!」
「だ……大丈夫……」
慌てて駆け寄ったハンコック様がハンナ様を抱き起します。
なんてこと!
倒れた拍子にぶつけたのでしょう、ハンナ様の眼鏡は割れ、藤色の瞳のすぐ横が切れて血が流れているではありませんか!!
―――ぶちっと。
わたくしは、自己再生したらしき堪忍袋の緒が切れる音を聞きました。(2度目)
「………ハンナ様………?」
どくどくと耳許で脈打つ音がうるさい中、自分でも驚くぐらい低い自分の声が聞こえます。
「さんざん身勝手なことを言って……ハンナ様に恥をかかせた挙句……怪我まで負わせて……こんな……こんな男、要りまして……?」
「ア……アリアドネ……さま……?」
「ですから!!こんな男と婚約している必要、ありまして!?こんな不実な恥知らず、ハンナ様には相応しくありませんわ!!」
「なっ……」
ハンナ様の血を見てちょっと気まずそうにしていた(罪悪感くらいは持ち合わせていらっしゃったのね)キッペリング様は、わたくしの言葉にかっと目を怒らせます。
「何を!身勝手なのはそっちだろう!!他家の婚約に口を挟むなど!いくら侯爵家とは言え、度が過ぎるぞ!」
「あら!ラストダンスを盾にとって婚約者を辱めようとしていた方の言葉とは思えませんわね!!」
売り言葉に買い言葉、わたくしも激情を抑えられなくなっておりました。
「そ……それ、は……」
「ラストダンスを踊ってやる代わりに言うことを聞け?偽証をしろ?そんなことを要求する方との婚約を続行する必要がどこにありますの!!その暴言だけでも十分、婚約解消の理由になりますわ!!」
「……っ……」
言葉に詰まったキッペリング様はほっといて、わたくしは茫然と座り込むハンナ様に向き直りました。
「ハンナ様、これ以上我慢なさることありませんわ!結婚なんてなさったら、ずっとあの横暴を押し付けられることになりますのよ?!今のうちに婚約なんか解消してしまうべきですわ!」
「……アリアドネ様……」
揺れるその瞳を覗き込み、ぎゅっと冷たい手を握ります。
「わ……わたくし……は……」
「誑かされるな!ハンナ!」
わたくしの背後では、往生際悪くキッペリング様が叫びました。
「キッペリングの財力がなくなったら、きみの家はどうなる!ビベカ伯爵家はどうしてもうちの援助が必要だろう!?」
「まあ!そうやってハンナ様を縛り付けていらっしゃったの?」
なんて卑劣な男!それが本音というわけですか。キッペリング子爵家もたかがが知れていますわね!
わたくしは肩越しに鼻でせせら笑ってやりました。
「そんなもの!いくらでもわたくしが肩代わりしますわ!侯爵家を甘く見ないでいただけます?」
「っ……そんなに簡単に婚約が解消できるものか!!」
―――わたくしは。
何度も申しますが、わたくし、怒り狂っていたのです。
我を忘れていたと言ってもいいでしょう。
ですから、わたくしは。
「あら!思いのほか簡単ですのよ?婚約解消なんて!王太子との婚約だってその気になれば解消できましたもの!」
負け犬の遠吠えのようなキッペリング様が許せなくて。ハンナ様の呪縛を断ち切りたくて。
「ですから、ハンナ様。わたくしと一緒に婚約解消、なさいません?」
ついうっかり、つるっと内緒のはずの婚約解消をバラしてしまったのです……!!
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