第9話 誘引路と迫る巨躯
焚き火の脇を蹴り、西の木柵へ駆け出そうとした瞬間、右腕を強く掴まれた。
振り返ると、シェリーが俺の袖を両手で必死に握りしめていた。
ヘーゼル色の大きな瞳が激しく揺れている。
「待って、クラウス! また一人で前へ出る気? 無茶は絶対に駄目!」
「シェリー」
「昼間だって一人で飛び込んだじゃない! 怪我したら絶対に許さないんだからね!」
普段の穏やかさをかなぐり捨て、シェリーは必死の表情で俺を見上げていた。
俺はシェリーの震える肩に、そっと手を置いた。
「無茶をしに行くんじゃない。落とし穴も逆茂木も、敵を誘い込むタイミングを見極めなければ機能しないんだ。前線で状況を判断して指示を出す人間がいる」
「でも……!」
「それに、広場の村人たちを統制できるのはお前だけだ。混乱して前線へ走られたら防衛線が崩れる。集会所と後方を守れるのは、村長代行のお前しかいない。頼めるか、シェリー」
シェリーは唇を強く噛みしめ、俺の目をまっすぐ見つめた。
やがて彼女は小さく息を吸い込み、握っていた手をゆっくりと離した。
「……分かった。村長代行として、後方は私が絶対に抑える。だから約束して。絶対に一人で無茶をしないで、怪我なく戻ってくるって」
「ああ、約束する」
俺が頷くと、シェリーは広場の村人たちへ向かって駆け出した。
「みんな、集会所の前に並んで! 武器を持つ人は前に! クラウスの合図があるまで絶対に勝手に動かないで!」
毅然と響くシェリーの声を確認し、俺は西の境界へと駆け出した。
冷たい夜風の中、痩せた畑を抜けて木柵へ急ぐ。
食い破られた丸太柵の左右には、昼間に組んだ頑丈な逆茂木が立ち並んでいた。
支柱の鐘を引いていたダンと、槍の穂先や斧を手にした若者たちが青ざめた顔で固まっている。
地面がドシン、ドシンと小刻みに揺れていた。
森から冷たく重い風とともに、強烈な獣の臭いが吹き寄せてくる。
「ダン、鐘を止めろ!」
駆け寄りながら声をかけた。
「りょ、領主代行様!」
「鐘を鳴らし続ければ、敵にこちらの配置を知らせるだけだ。全員、逆茂木の内側に控えろ。絶対に自分から前に出るな」
「は、はいっ!」
若者たちが頷き、左右の逆茂木の影へと身を沈めた。
俺は食い破られた丸太柵の裂け目、その手前で身構えた。
木立の隙間に、月明かりを浴びた無数の光る目が浮かび上がる。
樹海狼だ。
濡れた褐色の剛毛を逆立て、口元から白い息を吐きながら涎を垂らしている。
十頭近い群れが、闇の奥から次々と這い出してきた。
そして、その背後から木々を押し倒すようにして巨大な影が歩み出てくる。
大鬼だ。
全高は三メートルをゆうに超えている。
赤黒い分厚い皮膚に、丸太のように太い筋骨隆々の四肢。
頭部には太い一本角が突き出し、濁った黄色い両目を爛々と光らせていた。
右手には、大木を削り出した太い丸太棍棒を提げている。
グルオオオオオオオオオッ!
大鬼が重低音の咆哮を轟かせた。
大気が震え、周囲の木々が激しくざわめく。
逆茂木の影に潜む若者たちから、息を呑む音が漏れた。
咆哮を合図に、樹海狼たちが一斉に地面を蹴った。
ギャウウウッ!
十頭近い狼が、猛烈な速度で村へ突撃してくる。
泥土を跳ね上げて迫る狼たちの前に、木柵の左右に張り巡らされた逆茂木が立ちはだかった。
鋭く削り出された丸太の先端を嫌い、狼たちは左右へ展開できない。
開いているのは、昼間に食い破られた丸太柵の裂け目だけだった。
「ギャルルッ!」
先頭の狼が裂け目へと進路を絞る。
後続も左右を阻まれ、雪崩を打ってその狭い誘引路へと殺到した。
横に逃げ場のない通路に密集した狼たちは、互いに押し合いながら一列に近い塊となって駆け抜けていく。
だが、その後ろから迫る大鬼の足取りが変わった。
ドシン、ドシン。
大鬼は丸太棍棒を引きずりながら、重い足音を響かせて前進していた。
しかし、前方の誘引路は先陣の狼たちの群れで完全に埋め尽くされている。
密集して殺到する狼たちに行く手を阻まれた大鬼は、苛立たしげに荒い鼻息を吐き出すと、大股で左手へと進路を変えた。
塞がれた狭路を嫌い、逆茂木の正面へとまっすぐに迫っていく。
落とし穴のある通路には入らない。
「なっ……! 化け物が路を外れたぞ!」
ダンの焦った声が響いた。
落とし穴へ大鬼を引きずり込む算段は、先陣の狼の密集によって外れた。
だが、まずは目の前の群れを処理する。
狭い誘引路を疾走する先頭の狼が、泥土を力強く蹴り抜けた。
その足元に敷かれた細い枝と枯れ草が崩れる。
バキリ、と乾いた音が響いた。
ギャウンッ!
宙を掻いた先頭の狼が、勢いのまま穴の底へと落下していった。
深さ二メートルを超える落とし穴。
その底に林立する焼き締めの杭が、落下してきた胴体を貫く。
後続の狼たちは急停止しようとするが、後ろから押し寄せる仲間に押し出され、次々と穴の中へ転落していった。
悲鳴と呻き声が重なり、狭い通路を埋めていた先陣の突撃は完全に止まる。
「す、すげえ……落ちたぞ!」
若者たちの歓声が上がりかけた。
だが、重い地響きがその声をかき消した。
ドシン。
落とし穴のある路を外れ、左手の逆茂木側へと回った大鬼が、すぐ目前まで迫っていた。
先頭の狼たちが全滅しようと、その巨躯は歩みを一切緩めていない。
赤黒い影が月明かりを遮り、巨大な丸太棍棒を構えながら、逆茂木の内側にいる俺たちを冷酷に見下ろしていた。
先陣の勢いは止まった。
だが、大鬼の前進は止まらない。




