第5話 錆びたナタと巨大な足跡
「シェリー、お前はここで村人の避難誘導を頼む。集会所へ全員を入れて戸締まりをさせろ」
俺は広場で叫ぶシェリーの肩を叩き、鋭く告げた。
「クラウス、でも」
「大丈夫だ。無茶はしない」
手元へ意識を集中させ、意識の奥からずしりとした冷たい重みを引きずり出した。
手のひらに現れたのは、錆びたナタだ。
刃渡り三十センチ、赤茶けた刀身には無数の刃こぼれがある。
柄に巻かれた擦り切れ気味の革紐を強く握り直した。
俺は息を荒らげて立ち尽くすダンへ視線を向けた。
「ダン、西の木柵へ案内しろ。走るぞ」
「は、はいっ!」
シェリーが心配そうに胸の前で両手を握りしめる。
その視線を背中に受けながら、俺はダンとともに西の境界へと駆け出した。
足元の泥土を蹴り飛ばして前進する。
冷たい秋風が、式典用の薄い服を容赦なく吹き抜けていく。
西側の痩せた畑を抜けると、傾いた丸太柵が見えてきた。
太い丸太が牙と爪で荒々しく食い破られ、大きな裂け目ができていた。
裂け目の内側に、灰褐色の獣の影が三つ蠢いている。
樹海狼だ。
体長は一メートル半を超えている。
濡れたような褐色の剛毛を逆立て、口元からは粘つく涎が滴っていた。
その足元に、自警団の青年が倒れ込んでいた。
太ももを爪で裂かれたのか、ズボンを赤く染めている。
折れかけた木槍を構え、必死に牽制していた。
「くそっ、来るな、あっちへ行け!」
青年の声は震えていた。
樹海狼たちは獲物をいたぶるように喉を低く鳴らし、徐々に距離を詰めている。
先頭の大きな狼が、泥を蹴って跳躍した。
鋭い牙が、青年の喉笛めがけて一直線に迫る。
「うわあああっ!」
青年が固く目を閉じた。
逃げ場のない直線的な突進だった。
だが、速度と質量が乗った突進ほど、空中で軌道を変えることはできない。
前世で力学と構造計算を叩き込まれた技術者の感覚が、放物線の着地点を瞬時に割り出す。
恐れはなかった。
俺は一歩踏み込み、倒れた青年の前へ割り込んだ。
右手のナタを構え、突進の軸から半歩だけ左へ体を開いた。
生温かい獣の息が頭上をかすめた。
紙一重で牙を躱す。
敵の自重と前進速度が最大になった瞬間、俺はナタを垂直に振り下ろした。
狙うのは、頭骨と背骨をつなぐ首の付け根だ。
ナタの重みと相手の推進力が真っ向から衝突した。
硬い毛皮を裂き、肉の奥深くまで刃がめり込む。
骨を断ち割る鈍い衝撃が、俺の両腕を駆け抜けた。
短い悲鳴とともに、樹海狼の巨体が泥土へと叩きつけられた。
首から勢いよく血を噴き出し、二度と動かなくなった。即死だった。
「なっ」
背後で青年が息を呑んだ。
だが、余韻に浸る暇はない。
仲間の即死を目の当たりにし、残る二頭が怒りに目を血走らせた。
左右から挟み込むように、同時に飛びかかってくる。
「ダン、右の奴を牽制しろ! 木槍を構えて退路を塞ぐだけでいい!」
「お、おうっ!」
ダンが木槍を強く握り直して突き出し、右の狼の視界を遮った。
突如突き出された穂先に、右の狼が一瞬怯んで足を止める。
その隙を見逃さず、俺は左から迫る二頭目へと低く踏み込んだ。
ナタを大きく振るう空間はない。
俺は左手を突き出し、意識の奥から瞬時に手繰り寄せた。
手のひらに現れたのは、あの刃こぼれだらけの錆びたナイフだ。
身を沈め、飛びかかってきた狼の懐へ滑り込む。
空中で牙をむく狼の喉元へ、下からナイフを深々と突き上げた。
欠けた刃が肉を裂き、気管を貫く。
熱い血が俺の手首を濡らした。
そのまま泥の上を転がって身を起こすと、二頭目は痙攣しながら地面に突っ伏した。
残るは最後の一頭だ。
ダンが突き出す槍先を嫌がり、後退しようと身を竦ませている。
仲間を二頭瞬時に屠られたことで、獰猛な瞳に明白な怯えが浮かんでいた。
最後の一頭が背を向けて木柵の裂け目から逃げ出そうとした瞬間、俺はナタを握り直して間合いを詰めた。
泥土を強く蹴り、逃げ腰の後頭部へナタを振り下ろす。
硬い頭骨を砕く鈍い音が響き、最後の一頭が泥の中に崩れ落ちた。
あたりから物音が消え、静けさが戻った。
荒い息を吐きながら、俺は手元のナタとナイフを意識で消去した。
消費した魔力はごくわずかだ。めまいも息切れもない。
「す、すげえ」
ダンが木槍を構えたまま、目を見開いて立ち尽くしていた。
倒れ込んでいた青年も、信じられないものを見る目で俺を見上げている。
「あ、あんた、いや、領主代行様。俺を助けてくれたのか」
「怪我を見せてみろ。立てるか」
俺は青年のそばに膝をつき、太ももの傷を確かめた。
爪で浅く裂かれているが、傷は深くない。骨も無事だ。
「ダン、肩を貸してやれ。命に別状はないが、傷口の手当てが必要だ」
「は、はいっ! すぐに運びます!」
ダンが駆け寄り、青年の体を慎重に抱き起こした。
「クラウス! 無事なの!?」
背後から駆け寄る足音が響いた。
振り返ると、シェリーが息を切らして走ってくるところだった。
亜麻色の髪を乱し、必死な顔で俺の元へ駆け込んでくる。
「シェリー。広場の避難は終わったのか」
「うん、全員を集会所へ入れたよ。悲鳴が聞こえたから心配で」
シェリーは転がる三頭の死骸と血だまりを見て息を呑んだ。
それから俺の体に怪我がないことを確かめると、深く息を吐いて胸を撫で下ろした。
「よかった、本当に無事だったんだね」
「かすり傷一つない。それより、この青年の足を診てやってくれ」
「分かった、すぐ手当てするね。集会所へ運ぼう」
シェリーは手早く青年の傷口に清潔な布を巻き、ダンとともに歩き始めた。
領民を守るために迷いなく動くその背中は、実に頼もしかった。
二人が去ったあと、俺は一人で食い破られた木柵の裂け目へと歩み寄った。
冷たい風が、樹海の奥から湿った匂いを運んでくる。
足元の地面に視線を落とした瞬間、奇妙な違和感を覚えた。
食い破られた丸太の周囲を観察する。
土の上には、木柵へ殺到した樹海狼たちの足跡が無数に残されていた。
だが、その狼たちの足跡を踏みつぶすように穿たれた、巨大な窪みがあった。
「これは」
俺はしゃがみ込み、泥土に残された跡を凝視した。
形は人間の足に酷似している。
だが、大きさが桁外れだった。
大人の男の足の倍以上、全長にして五十センチをゆうに超えている。
深く沈み込んだ五本の指先には、太く鋭い鉤爪の痕がくっきりと刻まれていた。
樹海狼たちが木柵を食い破ってまで村へ侵入してきたのは、飢えだけが理由ではないのかもしれない。
森の奥から現れた何かに追われ、追いつめられて村へ雪崩れ込んできたのだ。
並大抵の魔獣ではない。
高位の魔獣が、このすぐ近くまで迫っている。
俺は立ち上がり、樹海の木立をじっと見据えた。




