第32話 竈の火と穏やかな冬
本格的な冬に入り、北西のガルム樹海から冷たい風が吹き下りてきた。
朝起きると、コルト村の屋根や土塁は一面の白い雪に覆われていた。
かつてなら、降り積もる雪は凍死と飢えを宣告する絶望の合図だったはずだ。
だが、今の村に漂う空気は以前とまったく違っていた。
俺は厚手の外套を羽織り、雪を踏みしめて中央広場へ向かった。
冷たい外気が頬を刺すが、不思議と体の芯は温かい。
広場の奥にある共同食料庫へ足を運んだ。
太い丸太で組まれた引き戸を開けると、ひんやりとした冷気の中に、乾燥した藁と塩の匂いが立ち込めていた。
薄暗い庫内に目を凝らす。
棚には、ロバートから追加調達した塩樽がいくつも並んでいた。
その隣には、乾燥穀物がぎっしり詰まった麻袋が積み上がっている。
さらに奥には、南の新農地から収穫されたカブや芋などの冬根菜が、籠からあふれんばかりに積まれていた。
天井の梁を見上げれば、仕留めた大鬼や魔獣の肉を村人たちと加工した燻製が、何本も吊るされている。
これだけあれば、冬の間に飢える心配はない。
村の各小屋へ配るための薪も、広場の軒下にうず高く積み上げられていた。
吹雪で峠が閉ざされようと、誰もが凍えず冬を越せるだけの蓄えだった。
共同食料庫の引き戸を閉めると、広場の中央から白い湯気が立ち上っているのが見えた。
中央広場に設けられた共同炊事場だ。
大きな鉄鍋の下で、乾燥した薪が赤々と火を噴いていた。
鍋の周りでは、村の女たちが忙しそうに木べらを動かしている。
刻んだ冬根菜と燻製肉、追加調達した乾燥穀物を塩でじっくり煮込んだスープだった。
立ち上る湯気とともに、香ばしい肉の脂と野菜の甘い匂いが、冷たい朝の空気に広がっていく。
「領主代行様、おはようございます!」
弾んだ声とともに、小さな足音が雪を踏み鳴らして近づいてきた。
木椀を両手で持ったトミーだった。
その後ろから、トミーの母親や他の子供たちも笑顔で歩いてくる。
子供たちの手にある木椀からは、ほかほかとした湯気が上がっていた。
「おはよう、トミー。寒くないか」
俺が声をかけると、トミーは白い息を吐きながら胸を張った。
「全然寒くないよ! 朝からあったかいスープをいっぱい飲んだんだ。お肉もいっぱい入ってた!」
「そうか。しっかり食べて、風邪を引かないようにな」
俺が頭を撫でると、トミーは嬉しそうに笑って母親のもとへ駆け戻っていった。
炊事場の脇に置かれた丸太の腰掛けでは、初老の農民たちが湯気をすする姿があった。
雪が降る中で食事をしているというのに、誰の顔にも暗い影はない。
「本当に、夢のようじゃな」
白髪の老人が、木椀を大事そうに両手で包み込みながら呟いた。
「冬の始まりに、こんなに温かいスープを腹いっぱい飲めるなんて、何年ぶりじゃろうか」
「ああ。去年までは、雪を見るたびに誰が春まで生き残れるか怯えていたというのに……」
老人たちの刻まれた皺の奥に、心からの安堵が滲んでいた。
誰も飢えていない。寒さに震えながら冷えた泥水をすする冬は、もう過去のものだった。
西の防壁の方向から、足音が近づいてきた。
自警団のダンが、交代の青年たちを引き連れて広場へ戻ってきたところだった。
全員が革の胸当てを身につけ、背中にはクロスボウを背負っている。
吐く息は白いが、足取りに重さはない。
「ダン、見回りはご苦労だったな」
「領主代行様! 異常ありません」
ダンは立ち止まり、背筋を伸ばして報告した。
「積もった雪のおかげで、樹海の魔獣どもも動きが鈍っています。足跡の気配も遠いままです」
「そうか。朝の交代が終わったら、炊事場でしっかり温まれ」
「はい、ありがとうございます! 交代の連中と熱いスープをいただいてきます」
ダンは白い歯を見せて笑い、青年たちと一緒に鍋の方へと向かっていった。
過酷な見回り任務でありながら、隊員たちの士気は高い。
温かい食事と確かな装備、そして守るべき村が安定していることが、彼らの表情に自信を与えていた。
広場の端にある鍛冶場からは、小気味よい音が響いていた。
入り口から中を覗くと、赤々と燃え盛る炉火の前で、ボルドが大きな木椀を片手に座っていた。
「よう、坊主。外はすっかり雪景色じゃな」
「寒くないか、ボルドさん」
「馬鹿を言え。この頑丈な炉に薪が山ほどあるんじゃ。凍える暇なんてありゃせんわい」
ボルドは髭についたスープの雫を手甲で拭い、豪快に笑った。
「熱い飯と十分な薪、それに叩くべき鉄がある。職人にとっちゃ最高の冬じゃわい」
かつて酒に溺れて冷え切っていた鍛冶屋の目は、いまや力強い光に満ちていた。
金床に置かれた手入れ済みの農具が、炉の明かりを鈍く跳ね返している。
夕刻になり、空が薄暗い藍色に染まり始めた。
風が一段と冷たさを増し、細かい雪が静かに降り積もっていく。
俺は見回りを終えて、広場の奥にある丸太小屋へ戻った。
厚手の木戸を開けると、温かい空気がふわりと体を包み込んだ。
部屋の奥に据えられた石造りの竈の中で、割られた薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜていた。
赤茶色の炎が揺らめき、板壁に柔らかい光と影を落としている。
「おかえり、クラウス」
机に向かっていたシェリーが立ち上がり、微笑みかけてきた。
いつものエプロンドレス姿だが、頬は竈の熱でほんのりと赤みを帯びている。
シェリーは竈の小鍋へ向かい、乾いた野草を煮出した茶を木椀に注いで持ってきてくれた。
「ありがとう。外はかなり冷えてきた」
「うん、風の音が強くなってきたね。でも、小屋の中はすごく温かいよ」
シェリーが木椀を机の上に置いた。
机の上には、ロバートから追加調達した春蒔き用の種袋が、傷まないよう油紙に包まれて大切に並べられている。
その隣には、羊皮紙の帳簿が開かれていた。
冬を越すために必要な塩や乾燥穀物、干し肉の残量が、几帳面な文字で過不足なく記録されている。
「帳簿の計算も完璧だな。食料の配分に狂いはないか」
「うん。何度も見直したから大丈夫。全員が毎日しっかり食べても、春まで余裕で保つよ」
シェリーは嬉しそうに頷いた。
「南の新農地から採れた冬根菜も、すごく評判がいいの。みんな、甘くて美味しいって喜んでくれたよ」
「シェリーが荒れ地を開墾して、土作りから収穫まで粘り強く見てくれたおかげだな」
俺が言うと、シェリーは少し照れくさそうに視線を落とした。
「ううん、私は言われた通りに体を動かしただけだよ。……でも、私の育てた野菜がみんなを助けてるんだって思ったら、すごく嬉しかった」
三年前に魔力ゼロと蔑まれて追放され、誰の役にも立てないと怯えていた頃の面影は、そこにはなかった。
自分の手で耕し、育てた実りが、村の人々の命を支えている。
その実感が、シェリーの口元にやわらかな笑みを浮かばせていた。
「さ、座って。お茶が冷めちゃうよ」
シェリーに促され、俺たちは並んで竈の前に腰を下ろした。
木椀を両手で包み、温かい野草茶を口に含む。
香ばしい草の香りとほのかな苦味が、冷えた体にじわりと染み渡っていく。
パチパチと、薪が爆ぜる音だけが静かな部屋に響いていた。
防壁を築き、魔獣を押し返し、納税の期日に追われながら走り続けてきた。
だが今、俺たちの目の前には温かい火があり、穏やかな時間が流れている。
飢えに脅かされることもなく、凍える寒さに震えることもない。
この村へ来てから初めて味わう、本物の平穏だった。
「……なんだか、不思議な気分だね」
シェリーが竈の赤い炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「何がだ?」
「去年の今頃は、この村の掘立小屋の片隅で、冬が来るのが怖くてたまらなかったの。寒くて、何もできなくて、誰の役にも立てないまま春を待つしかなくて……。でも今は、こんなに温かい部屋で、クラウスと一緒にお茶を飲んでる」
シェリーは膝の上で両手を重ね、小さく微笑んだ。
「本当に、誰も飢えずに冬を越せるんだね」
「ああ。食料も薪も、計算上も現実も十分に足りている。誰一人として凍えさせないし、飢えさせもしない」
俺は部屋の隅の棚に目を向けた。
そこには、厳重に布で包まれた頑丈な木箱が置かれている。
中に入っているのは、防壁前で手に入れた装甲魔獣の青き魔石だ。
「残債を清算できれば、あの魔石からかなりの余剰金が残るはずだ」
「金貨が残るなんて、ここ数年じゃ考えられなかったことだよ」
シェリーが驚きと期待の混ざった瞳を向けた。
「その金があれば、来年の開拓はもっと大きく進められる。春になったら、ロバートから買った新しい種袋を南の農地に蒔いて、畑の面積を一気に広げよう。西の防壁も、さらに強固なものに作り直せる」
「うん! 暖かくなったら、やりたいことがたくさんあるね」
シェリーの声が弾んだ。
「そういえば、」
ふと思い出したように、シェリーが視線を上げた。
「行商人たちの口から、峠の向こうへコルト村の噂が少しずつ漏れ聞こえているらしいよ。魔獣の大群を押し返したとか、滅びかけの寒村が飢えずに冬を越しているとか」
「なるほどな」
商人の足を通じて、真実が外へ伝わり始めているのだろう。
外でどんな噂が広がろうと、やるべきことは変わらない。
この冬を全員で平穏に越えて、春に向けた力を蓄えるだけだ。
「クラウス」
シェリーが静かに俺の名を呼んだ。
ヘーゼル色の瞳が、竈の炎を映して温かく輝いている。
「私ね、クラウスがこの村へ来てくれて、本当によかったと思ってるよ」
「俺の方こそ、お前がいてくれたからここまで来られたんだ」
俺が答えると、シェリーは嬉しそうに目を細め、小さく頷いた。
誰にも奪われない居場所を、俺たちは自分たちの手で確かに築きつつあった。
パチ、と薪が静かに爆ぜた。
竈の赤い炎が、隣に座るシェリーの横顔を温かく照らし出していた。




