第25話 防壁の斉射と樹海の地鳴り
初雪から半月ほどが過ぎ、北西のガルム樹海から吹き下ろしてくる風は日ごとに鋭利さを増していた。
コルト村の屋根や土塁の頂部には、解け残った雪が白く固まっている。
西境界の土塁石垣の内側には、組み上げられた大型投石器が堂々とそびえ立っていた。
先日の試射で粉砕した標的の大石の周囲には、砕け散った破片が今も散乱している。
見張り櫓の上では、自警団の青年たちが交代で監視を続けていた。
村長代行のシェリーには、広場奥の集会所で矢の予備管理や住民の冬支度を任せてある。
俺は西境界の防壁の上に立ち、土塁の上を歩いて足元の締まり具合や射線を点検していた。
人の背丈ほどに盛られた土塁に石垣が段状に噛み合わされ、鉄金具で補強された丸太枠はびくとも動かない。
これなら、通常の魔獣が体当たりを仕掛けてこようと揺るがない。
その時だった。
見張り櫓の床板に立つダンが身を低くし、防壁の上の俺へ向けて激しく手を振った。
鐘は鳴らさない。
敵の目前で鐘を乱打すれば、こちらの配置や動向を知らせるだけだ。
ダンは身を乗り出し、押し殺した声で鋭く告げてきた。
「領主代行様! 木立の奥です!」
俺は身を沈め、見張り櫓の横から五十歩先の木立へ視線を凝らした。
冷たい風が雪を巻き上げ、木々の間を吹き抜けていく。
黒々とした原生林の陰に、灰褐色の獣毛が幾重にも蠢いていた。
先日の投石器の試射で、凄まじい破砕音と突風に怯えて奥へ身を引いていたはずの魔獣たちだ。
だが、日ごとに寒気は厳しさを極め、雪に閉ざされ始めた樹海では獲物が底をつきかけている。
飢えが極限に達したのか、あるいは奥の何かに追い立てられたのか。
雪を被った木立の隙間から、双頭狼の群れが次々と姿を現した。
左右に二つの頭部を並べた異形の獣たちだ。
七頭、八頭、十頭近く。
牙を剥き出しにし、散開しながら木立の縁へと這い出てくる。
「領主代行様、投石器を使いますかい!」
土塁の根元に控えていた若者が、息を詰まらせて尋ねてきた。
大型投石器の巻き上げ機には、すでに麻縄が通されている。
だが、俺は静かに首を横に振った。
「投石器は使わない」
「えっ、使わないんですか?」
「投石器は巨岩を一発放つ兵器だ。雪原を散開して走る十頭前後の獣相手では、直撃を狙うのは難しい」
何より、南の山から苦労して運び込んだ石材には限りがある。
貴重な巨石を、散開した小型の先遣隊に空振りさせるわけにはいかない。
「石は奥に控える本隊や巨獣用に残す。防壁の上からクロスボウで迎え撃つぞ」
俺の指示を受け、ダン率いる自警団青年十名が土塁石垣の防壁上へ展開した。
かつて樹海狼に木柵を破られたときは、村全体が恐慌に陥って逃げ惑うばかりだった。初めて双頭狼やオークの姿を目にした際も、青年たちの指先には動揺が残っていた。
だが今、訓練を重ねて扱い慣れたクロスボウを握り、先日の投石器の威力を目の当たりにした彼らの目に、あの時の怯えはない。
青年たちは防壁の上に片膝をつき、銃床を肩に当てて構えを固めた。
俺自身も意識を集中させ、内なる武器庫へ手を伸ばした。
手元に現れたのは、黒光りする連動式クロスボウだ。
ずしりとした冷たい鋼の重みが掌に落ちる。
カシャリと微かな音が響き、溝へと鋼鉄ボルトが瞬時に自動装填された。
味方を守るためなら、手札を惜しむ気はない。
「木立の縁から雪原へ躍り出た瞬間を狙う。五十歩の距離だ」
俺は銃床を構え、低く告げた。
「焦って撃つな。防壁の射程まで十分に引きつけろ」
「はいっ!」
ダンが引き金に指をかけ、鋭く頷いた。
グルルルッ!
木立の縁で、双頭狼の群れが一斉に喉を鳴らした。
二つの頭部から太い牙を剥き出しにし、凍りつくような呼気を吐き出す。
次の瞬間、群れ全体が雪原へと飛び出した。
十頭前後の双頭狼が、扇状に散開しながら猛烈な速度で直進してくる。
泥雪を跳ね上げ、鋭い爪で凍土を力強く蹴り抜いていく。
初速は凄まじい。
だが、直線的に突進してくる標的ほど、放物線と射線の計算は容易だ。
防壁まで五十歩。
木立の縁を完全に抜け、開けた雪原の中央へ躍り出た。
「撃て!」
俺の号令が凍てつく空気を切り裂いた。
バババツンッ!
乾いた破裂音が重なり合い、防壁の上から十数本のボルトが一斉に放たれた。
俺の引いた引き金からも、鋼鉄ボルトが甲高い弦音とともに撃ち出される。
唸りを上げて雪原を走る矢筋。
だが、高速で身をくねらせて疾走する獣に対し、十本の矢すべてが都合よく急所に吸い込まれるわけではない。
二本のボルトはわずかに軌道が逸れ、雪煙を上げて地面を抉った。
別の矢は、側面の肩や後ろ脚の肉を浅く掠めるに留まる。
しかし、密集して中央を突進していた先頭集団を、矢の束が正確に捉えた。
ダンたちの放った鋭いボルトが、先頭の狼の胸板を深々と貫く。
さらに俺が放った鋼鉄ボルトが、並走する二頭目の喉元を狂いなく撃ち抜いた。
ギャウンッ!
短い悲鳴とともに、先頭の二頭がもんどり打って雪の上を激しく転がった。
勢いのまま地面を滑り、動かなくなる。
先頭をへし折られたことで、後続の群れの足並みが一瞬乱れた。
突進の速度が目に見えて鈍る。
「次弾装填!」
俺が鋭く叫んだ。
青年たちは前方の敵を見据えたまま、銃床下部の木製レバーを素早く前へ倒し、手元へ引き戻した。
カチリ、カチリと小気味よい音が連続して響く。
腰の矢筒から実体ボルトを引き抜き、溝へ滑り込ませる。
反復した訓練の通り、流れるような動作で弦が引かれ、矢が装填されていく。
俺の手元でも、カシャリと微かな金属音が鳴り、連動式クロスボウに次弾が装填されていた。
速度を落としながらも、残る狼たちは牙を剥いて前進を続けていた。
距離は三十歩前後。
先日、大石が粉砕されたあの場所の手前だ。
「放て!」
二度目の斉射が炸裂した。
三十歩という至近距離での射撃は、初撃を遥かに凌ぐ命中精度を発揮した。
正面から飛び込んできた二頭の胴体へ、複数のボルトが無慈悲に突き刺さる。
ドスッ、ドスッと鈍い打撃音が響き、勢いを失った巨体が泥雪の中へ突っ伏した。
さらに俺の放った鋼鉄ボルトが、横へ回り込もうとした一頭の頭骨を粉砕した。
土塁石垣の傾斜に取り付くことすらできず、先遣隊の突進は完全に瓦解した。
雪原に倒れ伏したのは六頭。
生き残った三、四頭は、防壁の威容と、間髪を入れずに降り注いだ矢の連続打撃に完全に足を止めていた。
二つの頭部を激しく左右へ振り、喉から引きつった唸り声を漏らす。
突撃の勢いは完全に途切れ、残余の狼たちは雪を蹴って反転し、脱兎の勢いで樹海の木立へと敗走していった。
静まり返った雪原に、倒れた狼たちの流す赤黒い血が広がっていく。
防壁の上に立つ俺たちには、かすり傷一つなかった。
「や、やった……!」
隣でクロスボウを握り直した青年が、声を震わせた。
「俺たちの矢で……双頭狼を追い払ったぞ!」
「防壁まで一歩も寄せ付けなかった!」
防壁の上に、若者たちの安堵と歓声が沸き起こりかけた。
だが、俺は手すりに手を添えたまま、前方の樹海から視線を外さなかった。
ダンも試作クロスボウを抱えたまま、険しい表情で木立の奥を見据えている。
二人のただならぬ気配を察したのか、歓声を上げかけた青年たちも息を呑み、静かに口を閉ざした。
敗走した狼たちの足音が、木立の闇の中へと消えていく。
その直後だった。
ゴオオオオオオオ。
大気をびりびりと震わせる、重く低い地鳴りが風に乗って届いた。
先日、投石器の試射で木立が揺れたときのものとは、規模がまるで違っていた。
地面そのものが底から唸りを上げているかのような、無数の足音の重なりだ。
防壁から遠く離れた樹海の深部で、巨木たちの梢が一斉に大きくざわめいた。
雪を被った枝が激しく揺れ、鳥の群れが悲鳴のような鳴き声を上げて南の空へ逃げ散っていく。
バキリ、ボキリと大木をへし折る鈍い破砕音が、冷たい風に乗って途切れることなく響いてくる。
先遣隊の背後。
樹海の奥深くに潜む、巨大な魔獣本隊だ。
オークの大群、あるいはそれ以上の質量を持つ巨獣たちが、村を取り囲むように本格的な進軍を開始していた。
冷たい北風が防壁を吹き抜けていく。
手すりの木肌を強く握りしめながら、俺は北西の暗い木立を冷徹に見据えていた。




