第22話 初雪の境界と潜む赤き瞳
西境界の見張り櫓の上、手すりを握る手元に冷たい感触が落ちてきた。
風にあおられてちらついていた白い粒は、見る間に密度を増していく。
本格的な初雪が、コルト村に降り注いでいた。
屋根や畑がうっすらと白く染まり、吐く息が白く立ち上る。
俺は梯子を下りて広場へ向かった。
広場には、すでに村長代行のシェリーが駆け回っていた。
サイドテールにまとめた亜麻色の髪に雪を乗せ、作業用ブーツで泥雪を踏みしめている。
「みんな、急いで! 新農地の野菜に藁を被せて! 雪で凍りついちゃう前に覆うの!」
シェリーの澄んだ声が広場に響く。
南の丘陵では、初老の農民たちが収穫可能な冬根菜を急ぎ木カゴへ引き上げていた。
残る畝には乾燥させた藁や枯れ葉を敷き詰め、冷気から守る処置を手早く進めていく。
「クラウス、本当に雪になっちゃったね」
駆け寄ってきたシェリーが、白い息を吐きながら言った。
ヘーゼル色の瞳に緊張が宿っている。
「冷え込みが一段と早まったな。冬支度を急ぐぞ」
「うん。食料庫の土壁の隙間を粘土と藁で塞ぐように指示を出したよ。納屋の目張りも進めてるの。薪も各小屋へ配り直さなきゃ」
シェリーは手にした木札の帳簿を確認しながら、淀みなく指示を飛ばしていく。
現場の把握と手配の早さは実に頼もしかった。
村人たちも凍える手を擦り合わせながら、必死に作業をこなしていく。
昼を過ぎると、雪の勢いはさらに増した。
食料庫の防寒と薪の確保を終えた俺は、再び西の境界へと足を向けた。
見張り櫓の上では、自警団が交代で監視に就いていた。
俺は梯子を登り、床板へと上がった。
「領主代行様!」
手すりの脇に立っていたダンが、革の胸当てを揺らして振り返った。
肩に担いだ試作クロスボウの木肌に、うっすらと粉雪が積もっている。
腰の矢筒には、尖った鏃を取り付けた実体のボルトが隙間なく収まっていた。
「見回りは順調か」
「はいっ。交代で常に二名が櫓の上に立ってます。防壁の上にも見張りを置きました」
ダンは息を白く弾ませながら答えた。
俺は手すりに手を添え、北西に広がるガルム樹海へと視線を向けた。
雪を被った黒々とした原生林が、白く霞む空の下に果てしなく連なっている。
だが、風向きが変わった瞬間、鼻腔を突く異様な臭気が吹き寄せてきた。
湿った獣の脂と、腐肉が入り混じったような強烈な臭いだ。
ただの樹海狼の群れではない。
地鳴りのような低い唸り声が、木立の奥から重なって届いた。
「……領主代行様、あれ」
ダンが声を落とし、樹海の境界の一角を指差した。
身体を低くし、目を凝らす。
防壁から五十歩ほど先の木立の奥で、雪を被った太い枝が激しく揺れた。
バキリと木が折れる音が、冷たい大気を切り裂く。
白い雪煙を巻き上げながら、木立の隙間から異形の影が這い出してきた。
先頭に現れたのは、巨大な四足の獣だった。
体長は二メートルを超えている。
濡れた灰褐色の剛毛を逆立て、通常の樹海狼よりも一回り太い胴体を持っている。
太い首の先には、左右に並んだ二つの頭部があった。
獰猛な牙を剥き出しにし、粘つく涎を雪の上に垂らしながら低い唸り声を響かせている。
続いて、その背後から二足歩行の巨影が姿を現した。
緑褐色の分厚い皮膚に、丸太のように太い腕。
頭部は醜悪に歪み、下顎から太い牙が突き出ている。
身につけているのは粗末な獣皮の腰巻きだけだ。
手には大人の胴回りほどもある節くれ立った棍棒や、巨大な獣の骨を削り出した骨槍を握りしめている。
筋骨逞しい巨躯が雪を蹴って現れた。
「な……っ!」
ダンが息を呑み、目を見開いた。
手にしたクロスボウを握る指先が、わずかに震える。
「ダン、心当たりがあるのか」
俺が低く尋ねると、ダンは喉をひきつらせて答えた。
「そ、双頭狼だ……! それに後ろのはオークだぞ……!」
ダンが顔色を失って呻いた。
「村の猟師が命からがら逃げ帰ってきたときに話してたんだ……! 頭が二つある化け物狼と、骨槍を振り回す緑の化け物だって……! なんでこんなとこまで出てきやがったんだ!」
双頭狼に、オーク。
どちらもこの寒さで樹海の深部から獲物を求めて南下してきたのだ。
四、五頭の双頭狼が二つの頭を振り、雪の上に太い爪を立てている。
その後ろには、棍棒や骨槍を構えたオークの姿が三体。
だが、魔獣たちは木立の奥に留まったまま、それ以上踏み込んでこなかった。
敵の視線は、西境界にそびえ立つ防壁へと注がれていた。
人の背丈ほどの分厚い土塁と、隙間なく噛み合わされた石垣。
その内側に高く組み上がった見張り櫓と、防壁の上に並ぶ武装した人間たち。
双頭狼が喉の奥で低く唸り、オークが棍棒を握る太い指に力を込める。
木立の陰から防壁をじっと窺い、容易には飛び出してこない。
「撃ちますか、領主代行様!」
ダンがクロスボウを構え、照準を合わせようと身を乗り出した。
櫓の上のもう一人の青年も、緊張した面持ちで銃床を肩に当てる。
俺の意識の奥には連動式クロスボウがある。
だが、木々の枝や幹が邪魔なあの位置では、矢を放っても逸れる可能性が高い。
自警団の実体ボルトも、無駄撃ちさせるわけにはいかなかった。
「待て、撃つな」
俺は静かにダンの肩を手で制した。
「木立に隠れていて狙いが定まらない。矢を無駄にするな。防壁まで引きつけて確実に仕留める」
「は、はいっ!」
ダンが息を呑み、引き金から指を浮かせた。
木立の奥で、双頭狼たちが身を低くした。
突撃は仕掛けてこない。
先頭の個体が木立の奥へ身を引くと、群れは雪の積もった木々の陰へと滑り込んだ。
オークたちも重い足取りで木立の中へ退く。
だが、退却したわけではなかった。
雪を被った梢が、境界線に沿ってざわざわと揺れ動いた。
魔獣たちは木立の中に留まったまま、西の防壁沿いに北へと移動を始めていた。
集落を取り囲むように、木々の陰を縫って散開していく。
「ダン、防壁の上から目を離すな。絶対に深追いするなよ」
俺は手すりを叩き、矢筒を背負ったもう一人の青年へ鋭く指示を出した。
「お前は広場へ走れ。シェリーに魔獣の接近を伝えろ。外に出ている村人を全員小屋へ入れ、戸締まりを徹底させるんだ」
「は、はいっ!」
青年が頷き、梯子を駆け下りて広場へ走っていった。
粉雪が横殴りに舞い、日が沈み始めた。
周囲が薄暗い夕闇に包まれていく。
冷たい風に吹かれ、木々の擦れ合う乾いた音だけが響いていた。
「……領主代行様」
手すりの隙間から樹海を見つめていたダンが、息を詰まらせて呟いた。
その視線が、木立の奥の一点に釘付けになっている。
「あそこを見てください……」
俺はダンの指差す方角へ目を凝らした。
西境界の木立の隙間。
暗い森の奥深くに、ぽつりと小さな赤い光が灯った。
一つではない。
二つ、四つ、十、二十。
薄暗い木立の闇の中に、無数の赤い瞳が浮かび上がっていた。
飢えと狂暴さを宿した光が、冷たい雪の向こうからじっとコルト村を見据えている。
冬越えの食料を求める魔獣たちの群れが、確実に村を取り囲み始めていた。
手すりを握る俺の指先に、じわりと冷たい緊張が走った。




