第2話 荒野の果てと傾いた木柵
領都アイゼンベルクを出てから三日が過ぎていた。
荷馬車の車輪は、乾いた荒野を北西へと進み続ける。
周囲の景色は、見渡す限りの赤茶けた土と小石ばかりだった。
時折、枯れ草が風に吹かれて転がっていく。
領都を囲んでいた灰色の大城壁は、すでにはるか彼方へ霞んでいた。
日を追うごとに、道は険しさを増していった。
なだらかな平地が終わり、岩肌の剥き出しになった山道へと荷馬車が差し掛かる。
風の冷たさが一段と増した。
まだ秋に入ったばかりだというのに、北西の空から吹き下りてくる風は冬の気配を含んでいる。
俺は麻袋の隙間に身を縮め、式典用の薄い上着をかき合わせた。
吐く息が白く染まり始める。
過酷な土地へ向かっているのだと、肌に刺さる冷気が嫌でも教えてくれた。
日暮れとともに馬車を止め、街道脇の岩陰で野営となった。
パチパチと音を立てて爆ぜる焚き火の前に、老御者が乾いた小枝を放り込む。
湯を沸かした小鍋から、乾燥肉の塩辛い匂いが漂っていた。
「ほらよ、坊ちゃん。冷めないうちに腹に入れときな」
手渡された木の椀には、固い黒パンの切れ端と薄い塩スープが入っていた。
俺は礼を言って受け取り、冷え切った胃袋へ流し込んだ。
塩気と熱が体に染み渡る。
「……それにしても、とんでもねえ寒さだな」
老御者が革袋から安酒をあおり、焚き火の火を見つめながら口を開いた。
「この辺りはもう、ガルム樹海の息がかかる場所だ。年中、森から吹きつける冷気に晒されてる」
「樹海が近いと、魔物も多いんですか」
「多いどころの騒ぎじゃねえよ」
老御者は顔をしかめ、焚き火の灰を靴先で払った。
「昔は良質な木材と鉄鉱石が採れて、それなりに人もいたんだがな。ここ数年で森の魔物がどんどん凶暴化してきやがった。村の周りにもウロウロ出没する始末だ」
「鉄鉱石が採れたんですか」
「採れたってのは昔の話さ。坑道は魔物に塞がれ、鍛冶屋も道具を直すための鉄がありゃしねえ。作物を育てようにも土地は痩せてる。見切りをつけて領都や南へ逃げ出す若い奴も増える一方だ」
老御者は深く息を吐き、首を振った。
「今じゃ百数十人の老兵や農民、子供ばかりが残されちまってる。ろくな武器も道具もねえ。正直なところ、あの村が今年の冬を越せるかどうかも怪しいもんだぜ」
冬を越せるかも怪しい。
老御者の言葉が、胸の奥に重く突き刺さった。
三年前にこの村へ追放されたシェリーの姿が脳裏に浮かぶ。
幼い頃、本家で冷遇されていた俺の隣で、いつも健気に笑いかけてくれた幼馴染。
彼女は今、そんな死にかけた寒村で生きている。
どれほど過酷な日々を耐えてきたか。
俺は膝の上でそっと拳を握りしめた。
老御者が荷台の毛布に包まって寝息を立て始めた頃、俺は岩陰の暗がりへと移動した。
焚き火の残り火がかすかに揺れている。
周囲を警戒し、人がいないことを確かめてから目を閉じた。
意識を深く潜らせ、内なる武器庫へ入る。
粗末な木棚と、その背後にそびえ立つ格子付きの鋼鉄扉。
無数の鍵穴が並ぶ巨大な扉は、いまも固く閉ざされている。
手前の木棚に意識を向け、ナイフ以外の在庫を慎重に探った。
意識を集中し、棚の奥にある手応えを手繰り寄せる。
手元に現れたのは、あの錆びたナイフだけではなかった。
ずしりとした重みが手のひらに伝わる。
現れたのは、刃渡り三十センチほどのナタだった。
刀身は赤茶色に錆びつき、刃には無数の細かな欠けがある。
柄に巻かれた革紐も擦り切れていた。
だが、確実にナイフより厚みと重量がある。
消去を念じると、ナタは煙のように消えた。
さらに木棚の隅を探る。
意識の網に引っかかったのは、使い物にならなくなった刃物の残骸だった。
手元に引き寄せると、砕けた刃の破片がいくつか手のひらに転がった。
武器の形すら留めていない鉄くずだ。
呼び出せるのは、錆びたナイフとナタ、そしてこの刃物の破片。
現時点で手元に出せるものの感触と重みを、俺は冷静に頭の中へ記録した。
領都を出てから七日目の夕刻。
二頭立ての荷馬車が、最後の険しい岩山を越えた。
「おい、見えてきたぞ」
老御者が手綱を緩め、前方を顎でしゃくった。
俺は荷台から身を乗り出し、前方を見渡した。
目の前に広がっていたのは、荒涼とした盆地だった。
南側には緩やかな起伏を描く丘陵地帯が連なっている。
だが、北と西に目を向けると、視界のすべてを黒々とした原生林が覆い尽くしていた。
あれがガルム樹海だ。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、冷たく湿った風が吹き寄せてくる。
その樹海のすぐ足元に、身を寄せ合うようにして粗末な集落がへばりついていた。
コルト村だ。
村を囲む防壁など存在しない。
立っているのは、歪に傾いて隙間だらけの丸太柵だけだった。
柵の向こうには痩せた畑がわずかに広がり、枯れた茎が寒風に揺れている。
点在する掘立小屋の煙突から立ち上る煙は細く、頼りない。
グルオオオオオ。
遠く樹海の深部から、大気を震わせるような魔獣の咆哮が風に乗って届いた。
背筋が粟立つような重い響きだ。
老御者が顔を青ざめさせ、舌打ちしながら手綱を握り直した。
荒れ果てた土地、傾いた木柵、迫り来る魔物の気配。
噂以上に過酷な寒村の実景が、そこにあった。
だが、俺の心に迷いはなかった。
領都の北門を出るときに胸に誓った思いが、静かに熱を帯びる。
過酷な現実に呑まれるつもりはない。
俺は荷台の荷板を蹴って立ち上がり、これから足を踏み入れる寒村をじっと見据えた。




