第17話 石垣の防壁と新農地の水路
北西の樹海から吹き下ろす風にはまだ冷たさが残っていたが、空の青さは日増しに深くなっていた。
西境界の土手脇にある作業台には、数日前に組み上げた試作クロスボウの骨組みが麻布を被せられて置かれていた。
樫の銃床に大鬼の肋骨を渡した荒削りな姿だ。回転爪の噛み合わせや弓幹のしなりの慣らしといった仕上げの調整が残っており、まだ試射には至っていない。
その作業台のすぐ先から、威勢のいい掛け声とともに乾いた土煙が上がっていた。
「よいしょ、もう一段だ!」
「隙間に小石を噛ませろ、揺らすなよ!」
かつて樹海狼に食い破られた丸太柵の跡地に、分厚い土塁が人の背丈ほどの高さまでそびえ立っていた。
土を突き固める木槌の重い音が、規則正しく地面を震わせている。
初老の農民が、打ち直されたクワの背で土手の表面を叩き均していた。
額に汗を浮かべながら、手際よく若い男たちに指示を飛ばしている。
土塁の外面には、南の山から運び出した石が段状に積み上げられていた。
大きな平石を下に据え、上にいくほど奥へ傾斜をつけて噛み合わせている。魔獣が取り付こうとしても爪が引っかからない角度だ。
「領主代行様、傾斜はこのくらいでよろしいですかね」
老農民が息を整えながら、叩き固めた斜面を指差した。
「ああ、綺麗に角が出ている。これなら大雨でも崩れない」
叩き固められた土の表面を踏みしめ、硬さを確かめた。
基底の安定感は十分だ。
土塁の脇では、ボルドが大鬼の皮を細長く裂いた革紐を手に、丸太の控え木を固定していた。
「行商人が来るまでは、釘一本叩く鉄もねえからな。だがこの大鬼の皮はいい。乾燥すると木に食い込んで、麻縄より遥かに締まるわい」
「骨の楔も効いているな」
「おうよ。大腿骨の端材を削って打ち込んである。雨を吸っても腐らんし、木組みの継ぎ手をがっちり押さえとるぞ」
ボルドが太い腕で白髭を撫で、満足そうに鼻を鳴らした。
「西は順調だな。次は南を見てくる」
「行ってらっしゃい。あっちはシェリーが朝から張り切っとるぞ」
ボルドの声に見送られ、俺は村の南側へと足を向けた。
南側の丘陵地帯に入ると、視界が一気に開けた。
樹海からの冷気を背後の山が遮り、柔らかな日差しが斜面を温めている。
そこには、数日前までの荒れ果てた雑木林の面影はなかった。
伐採された木々は綺麗に運び出され、頑固な根も掘り起こされていた。
地面に転がっていた無数の石は境界線沿いに積み上げられ、耕された赤黒い土が規則正しい畝となって広がっている。
草木灰や枯れ葉を鋤き込んだ土は、ふかふかとした弾力を取り戻していた。
「みんな、あともう一息だよ! そっちの溝は少し深めに掘って!」
丘の斜面の中央で、澄んだ声が響いた。
シェリーだ。
亜麻色の髪をサイドテールに揺らし、袖をまくり上げて指示を出している。
エプロンドレスの裾を泥で汚しながら、手にした人員の木札と作業の進み具合を見比べていた。
「シェリー、調子はどうだ」
声をかけると、シェリーがぱっと顔を上げて振り返った。
ヘーゼル色の瞳を輝かせ、小走りで駆け寄ってくる。
「クラウス! 見に来てくれたんだね」
シェリーは作業用の革手袋を外し、汗を浮かべた額を腕で拭った。
「新農地の区画、予定していた広さまで全部耕し終えたよ。土の具合もすごくいいの」
「ああ、見事な畝だな。土が柔らかく息をしているのが分かる」
「ふふ、みんなが頑張ってくれたからね。それにね、一番大事な工事もここまで届いたよ」
シェリーが誇らしげに指差したのは、畑の北東側の斜面だった。
そこには、裏山の湧水池から掘り進められてきた一本の水路が伸びていた。
幅は五十センチほど。
底と側面には小石が敷き詰められ、水流で土が削られないよう丁寧に組まれている。
水路の先端は、新農地の一番高い場所にある導水溝の直前で、分厚い土の塊によって塞がれていた。
「裏山の池から畑の端まで、全部繋がったよ。勾配もクラウスが教えてくれた通り、緩やかに傾斜をつけてあるの。あの最後の土止めを切り崩せば、すぐに水が引き込める状態だよ」
「水路の底石もしっかり敷いてあるな。これなら途中で水が地面に吸い取られることもない」
水路の傾斜と、畑へ張り巡らされた配水溝の配置を目で追った。
高低差を利用して自然に水が各区画へ行き渡る計算だ。設計通りに掘られている。
「どうかな、クラウス。今から通水させても大丈夫?」
シェリーが真剣な瞳で見つめてきた。
「問題ない。準備は完璧だ。今すぐ土止めを切ろう」
「うん!」
シェリーが嬉しそうに頷き、水路の脇で待機していた若者たちへ声を張り上げた。
「ダンさん、準備できたよ! 土止めを切り開いて!」
「おうっ、任せろ!」
水路の端に控えていたダンが、打ち直された平らなスキを構えて駆け寄ってきた。
他の若者たちもクワを手に集まってくる。
「領主代行様、最後の仕上げ、一緒にやってくれますかい」
ダンが白い歯を見せて笑った。
「もちろん受けて立つよ」
俺も水路脇に置かれていたクワを手に取り、ダンと並んで土止めの前に立った。
水路の向こう側からは、すでに冷たい湧き水が満ちてきており、土止めの壁を押して水音を立てていた。
裏山の奥深くから湧き出る、清らかな山水だ。
「よし、いくぞ!」
ダンの号令に合わせ、俺たちは同時に刃を振り下ろした。
打ち直された鉄の刃先が、湿った土の塊を深々と断ち割る。
重い手応えとともに、土の壁が一気に崩れ落ちた。
低い水音が響いた。
せき止められていた裏山の湧き水が、崩れた隙間から勢いよく溢れ出す。
透明な水流が白い泡を巻き上げながら、掘削された水路の底を滑るように駆け下りてきた。
小石を噛み合わせた水路を、水が心地よいせせらぎの音を立てて進んでいく。
土の匂いを含んだ冷気が、新農地全体へと広がっていった。
水流は分岐路を通り、整然と並ぶ畝の間へと吸い込まれていく。
乾いていた赤黒い土が水を吸い、濃い黒褐色へと染まりながら潤っていった。
「流れた……!」
誰かが歓声を上げた。
畑を取り囲んでいた村人たちから、わっと大きな拍手と歓声が沸き起こった。
「水が来たぞ! 畑の端まで届いてる!」
「すげえ、本当に裏山から水が引けた!」
農民たちが互いの肩を叩き合い、顔を見合わせて笑っている。
腰をかがめて水路の水に手を浸し、その冷たさに歓喜の声を上げる者もいた。
隣に立つシェリーが、両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
潤んでいく畑の土を、愛おしそうに見つめている。
「クラウス、見て……。水が、畑中を回ってるよ」
「ああ。これで畑が干上がる心配はなくなったな」
「うん……! これで、本当に作物が育てられる。冬を越すための野菜が作れるよ……!」
シェリーの声が微かに震えていた。
ヘーゼル色の瞳に水面のきらめきを映し、こぼれんばかりの笑みを浮かべている。
掘削された水路に、裏山の冷たい湧き水が勢いよく流れ込んでいく。
心地よいせせらぎを響かせながら、透明な水流は乾いた新農地を隅々まで潤していった。




