第12話 涙の抱擁と老鍛冶師の拝礼
大鬼の首筋から、突き刺さっていたナタを引き抜く。
骨と肉を断ち割った感触が手に残り、赤黒い血がどっと溢れ出た。
念じてナタを手元から消去する。
木戸の前で子供を抱くシェリーに「そのまま木戸の中にいろ!」と短く叫び、俺は泥土を蹴って西の境界へ走り出した。
畑を突っ切って西の境界へ急ぐ。
大鬼の横薙ぎによって一撃でへし折られた逆茂木の残骸が、無残に散乱していた。
その開口部の外側に、三頭の樹海狼が身を低くして蠢いているのが見えた。
唸り声を上げ、村の内側をうかがっている。
だが、その視線は広場に倒れる大鬼の巨躯へと注がれ、風に乗って漂う生々しい血の匂いに鼻先をひくつかせていた。
森の奥から追われて雪崩れ込んできた獣たちだ。
自分たちを追い立てていた巨躯が倒れ、咆哮が途絶えたことを察したのか、狼たちの黄色い瞳に明らかな動揺が浮かんでいた。
逆茂木の残骸の陰から、ダンが打ち直されたスキを構えて身を乗り出した。
「行かせるかよ!」
ダンの鋭い怒号が響く。
足元には、吹き飛ばされて泥まみれになった若者たちが身を寄せ合っている。
ダンはスキの切っ先を狼たちへ向けたまま、後ろの若者たちを庇うように立ち塞がっていた。
俺はダンの隣へ駆け込み、左手を突き出して威嚇するように一歩踏み出した。
「グルルッ……!」
親玉ではなく追撃者だった大鬼の絶命と、村側の反撃の構え。
挟み撃ちを警戒したのか、狼たちは背筋の剛毛を逆立て、それ以上踏み込んでくることはなかった。
一頭が踵を返すと、残る二頭も追うように泥土を蹴り、樹海の暗闇へと脱兎の勢いで敗走していった。
足音が森の奥へ遠ざかり、冷たい夜風だけが吹き抜ける。
「ダン、怪我はないか」
声をかけると、ダンが肩を大きく上下させて振り返った。
「お、俺は平気です! あいつらに追いつかれないように、踏ん張ってただけで……」
ダンは安堵からか膝を震わせながら、足元に倒れている若者たちを指差した。
「こいつら、逆茂木が吹き飛んだときに叩きつけられて」
俺は地面に膝をつき、倒れていた若者たちを手早く調べた。
全身泥まみれで、腕や脚に鋭い擦り傷と打撲の痕がある。
痛みに呻いてはいるが、骨は折れておらず、意識もしっかりしていた。
見える範囲で重傷を負った者はおらず、死者も出ていない。
「骨は無事だ。息を整えれば立てる」
「よ、よかった……」
ダンが胸を撫で下ろした。
誘引路の落とし穴の底から、苦しげな獣の呻き声が響いていた。
穴を覗き込むと、先陣を切って突入した狼たちが、焼き締めの杭に貫かれて折り重なっていた。
まだ息のある個体が数頭、逃げ場のない底で身をよじらせている。
落とし穴は確実に機能を果たしていた。
「ダン、槍を持ってこい。動けない奴らを確実に仕留めて、完全に息の根を止めるんだ」
「はいっ!」
ダンが鉄の穂先をつけた木槍を手に取り、落とし穴の底へ突き下ろしていく。
数度の鈍い突刺音のあと、穴の底からも一切の呻き声が消え失せた。
西の境界の安全を確保した。
俺は若者たちに肩を貸して立たせ、ダンとともに広場へ向かって歩き出した。
広場へ戻ると、集会所の木戸がゆっくりと外側へ開かれた。
恐る恐る顔を出した村人たちが、足音を聞きつけてざわめく。
俺は広場の中央、倒れた大鬼の死骸の手前で立ち止まり、集会所へ向かって声を張った。
「魔物はすべて撃退した! 西の境界も安全だ!」
息を整えて声を張り上げると、集会所の木戸の奥からざわめきが波のように広がっていった。
村人たちが一人、また一人と木戸から外へ踏み出してくる。
誰もが息を呑み、広場の中央に横たわる赤黒い巨躯と、血まみれで立つ俺の姿を見つめていた。
集会所の木戸の前で、シェリーが抱きかかえていた子供を下ろした。
子供の母親が泣き叫びながら駆け寄ってくる。
「トミー! ああ、トミー……!」
母親は子供を泥だらけの胸に抱き締め、土の上に崩れ落ちた。
子供は母親の首筋にしがみつき、声を上げて泣き始める。
無傷だった。
母親は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、シェリーへ、そして俺へと何度も深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! ありがとうございます、領主代行様、シェリー様……!」
広場を囲む村人たちからも、押し殺したような吐息が漏れた。
大鬼の横薙ぎで逆茂木は粉砕されたが、子供は無事に救われ、見える範囲で村人で命を落とした者はいなかった。
広場に集まった人々の顔に、安堵の息が広がっていく。
焚き火跡のそばへ歩を進める。
周囲の村人たちが負傷者の手当てや子供の救護に集まる中、シェリーがふらつく足取りで俺の前まで歩み寄ってきた。
亜麻色の髪は乱れ、エプロンドレスは泥に汚れている。
ヘーゼル色の瞳が、血と泥にまみれた俺の全身を確かめるように見つめていた。
「……クラウス」
かすれた声だった。
シェリーの唇がわななき、瞳に急速に涙が溜まっていく。
「無茶はしないって……絶対に怪我なく戻るって、約束したじゃない……」
怒りと非難の混じった声だった。
小さな拳をぎゅっと握りしめ、俺の胸元を睨みつける。
「バカ……! 怪我したら絶対に許さないって言ったのに……! あんな、あんな化け物の前に一人で飛び込むなんて……!」
責め立てる言葉とは裏腹に、シェリーの足元から力が抜けていくのが見えた。
極限の恐怖と、後方を支え続けた疲労。
そして俺が生きて目の前に立っているという安堵が一気に押し寄せたのだろう。
崩れ落ちそうになったその華奢な肩を、俺は両腕でしっかりと抱きとめた。
「わっ……」
シェリーの体が俺の胸に収まる。
返り血の生臭さと、冷たい夜気の匂いが混ざり合っていた。
シェリーは俺の上着の布地を両手で強く掴み、胸元に顔を押し当てた。
「う、ううっ……うわあああん……!」
堪えきれなくなったように、シェリーが声を上げて泣きじゃくり始めた。
小さな背中が激しく震える。
子供を庇って死線をくぐり抜け、張り詰めていた糸が切れたのだろう。
俺はシェリーの背中にそっと手を添え、低く静かに告げた。
「約束を破ってすまない。怒るのも当然だ」
「……ぐすっ、バカ、大バカ……」
「だが、お前も子供も守れた。この村もな」
シェリーは顔を埋めたまま、小さく頷いた。
ぎゅっと握られた手の温もりが、冷え切った式典服越しに伝わってくる。
泣きじゃくるシェリーの背中を抱きとめる俺たちの姿を、広場の村人たちが遠巻きに見つめていた。
昨日の夕刻に到着したとき、上等な服を着た俺に向けられていたのは厄介ごとの使者を見るような冷たい視線ばかりだった。
だが今、遠巻きにこちらを見つめる村人たちの瞳に、あの時の冷ややかな拒絶はない。
まだ畏怖や戸惑いが混ざってはいるが、手にした道具を握り直す者や、泥まみれの俺の姿を凝視する目には、確かな驚きが浮かんでいた。
その時、広場の奥からざくざくと足音が響いてきた。
村人たちが自然と左右に分かれ、道を開ける。
現れたのは、煤けた革エプロンをつけた老鍛冶師ボルドだった。
右手に大きな火箸を提げ、肩で息を荒らげている。
鍛冶場から駆けつけてきたのだろう。
ボルドの濁りのない鋭い眼光が、まず泥の中に沈む大鬼の死骸を捉えた。
喉元を裂かれ、大量の血だまりの中に転がる三メートル超の巨躯。
それから、生きて抱き合う子供と母親、負傷を手当てされる若者たちへと視線を走らせる。
死闘の最中にはいなかったボルドだが、その鍛え上げられた眼力は、広場に残された爪痕と血痕から何が起きたのかを瞬時に見抜いていた。
ボルドの視線が、最後に俺へと向けられた。
その眉間には深い皺が寄り、昼間に鉄片を凝視していたときの鋭い眼光が残っている。
今朝の鍛冶場で、「口先だけなら何とでも言える」と酒をあおり、追い返そうとした相手だ。
だが、ボルドは何も問わなかった。
ボルドは火箸を足元へ置いた。
無言のまま大股で歩み寄り、俺の正面で足を止める。
そして、どっしりとした重い音を立てて、泥の上に片膝をついた。
豊かな白髭を胸元に引き、深く頭を下げる。
言葉は一つも発しなかった。
ただ深く垂れ下げられたその太い首筋に、職人の誇りと、結果を出した領主への敬意が静かに宿っていた。
冷たい夜風が広場を吹き抜けていく。
抱き合うシェリーの震えと、目の前で片膝をつく老鍛冶師の姿。
泥と血にまみれた寒村の広場で、俺たちの新しい歩みが始まろうとしていた。




