第13話 赤き魔石と銀杯の嘲笑
冷たい夜風が広場を吹き抜けていく。
俺は胸元で泣きじゃくっていたシェリーの背中から、そっと手を離した。
華奢な肩を両手で支え、ゆっくりと体を起こさせる。
シェリーは涙を袖で乱暴に拭うと、赤くなった瞳で俺をキッと睨みつけてきた。
「……まだ許したわけじゃないからね」
鼻をすすり、怒りを込めて告げてくる。
「無茶はしないって約束を破ったんだから。怪我しなかったからって、絶対に許さないんだからね」
怒りを燻らせ、シェリーは唇を尖らせてそっぽを向いた。
張り詰めた糸が切れて泣き崩れたものの、無謀な行動への怒りは消えていない。
「すまない。あとでいくらでも小言は聞くよ」
俺が苦笑すると、シェリーはフンと鼻を鳴らした。
視線を正面へ戻す。
泥の上に片膝をつき、深く頭を垂れる老鍛冶師ボルドがいる。
「ボルドさん、立ってくれ」
俺は進み出て、ボルドの分厚い腕に手を添えて引き起こした。
ボルドは重い足音を立てて立ち上がり、禿頭を掻いた。
「……若造だのおもちゃの剣だの、悪態をついて悪かったな。ワシの目が曇っとったわい」
だみ声には、確かな後悔が滲んでいた。
「口先だけなら何とでも言えるなんぞと酒をあおっていたが、あんたは身一つで大鬼を仕留めてみせた。結果を出して村の命を守り抜いたんだ。文句のつけようもねえ」
ボルドは太い腕を組み、真剣な眼光で俺を見据えた。
「このボルド、これからは職人としてあんたに力を貸す。道具の打ち直しでも仕掛けの工作でも、村を守るためなら何でも言ってくれ」
臣従を誓う仰々しさはない。
だが、職人としての誇りを込めた、確かな協力の申し出だった。
「助かるよ、ボルドさん。これからの村には、あなたの腕が必要だ」
頷くと、ボルドは煤けた革エプロンのポケットに手を触れた。
昼間に道具の刃先を均した際に切り落とされた、あの鉄片を意識しているのだろう。
「……それと、あんたが持ってきた鉄の破片だがな」
ボルドは低く声を落とし、眉間に深い皺を刻んだ。
「断面には混じりもんがまるでなかった。鉱石から叩き出した鉄じゃあり得ねえ。王都の宮廷工房でも見たことのない異様な純度じゃ。どこから手に入れたのか、頭の中は疑問だらけだわい」
鋭い眼光が、鉄の特異性を捉えて離していない。
疑念は消えていない。
だが、ボルドは頭を横に振った。
「だが、詮索はしねえ。出所が何だろうと、あんたがこの村と領民を守るために使った鉄だ。今はそれで十分だわい」
ボルドは大鬼の巨躯へ顎をしゃくった。
「詮索より目の前の仕事だ。領主代行様、皮も骨も上等な資材だが、何より胸の魔石と肉だ。冷え切る前に解体しねえとな」
「そうだな。すぐ取りかかろう」
俺たちは広場の中央へ動いた。
ダンや若者たちを呼び集め、薪を積んで火を大きく燃え上がらせる。
夜の闇を払うように、赤い炎が高く舞い上がった。
全高三メートルを超える大鬼の巨躯を取り囲む。
首元と膝裏からは血が抜け、冷気の中でかすかに湯気が立ち上っていた。
「ダン、広場に残った道具を集めてこい!」
ボルドの怒号が響いた。
若者たちが集めてきたのは、昼間にボルドが打ち直した道具たちだ。
鋭利な刃を取り戻した薪割り斧が二本、土を掘り返すための平らなスキが二本、そしてダンたちが手にする木槍の鉄穂先が四本。
鋼が焚き火の光を浴びて鈍く輝いている。
「大鬼の皮は硬えぞ! 関節の隙間と筋を狙って刃を入れろ!」
指示に従い、男たちが一斉に作業を始めた。
ダンと若者二人が鉄の穂先で硬い皮膚を引っ張り、隙間の筋へボルドが斧を振り下ろす。
分厚い皮膚が断ち割られ、鮮やかな赤身肉が露わになった。
俺もスキを受け取り、肉と皮を骨から剥ぎ取る作業に加わった。
薄く鋭いスキの刃先が、骨の表面に沿って肉を滑り落としていく。
前世の構造設計の知識を活かし、関節の隙間に刃を滑り込ませて筋肉の結合部を切り離していく。
「坊主、いや領主代行様、解体の手際まで鮮やかじゃねえか」
「骨組みの弱いところを見極めているだけだよ」
胸部の筋肉を切り開き、太い肋骨を斧の背で叩き折る。
胸の奥に、鈍い赤い光を放つ大きな塊が見えた。
「あったぞ! 魔石だ!」
ダンの声が響く。
ボルドが太い指先を差し入れ、筋膜を穂先で切り離しながら塊を引き抜いた。
現れたのは、大人の男の拳ほどもある巨大な魔石だった。
内部で赤い光の渦がゆっくりと脈打っている。
掌に乗せると、ほんのりとした温もりが伝わってきた。
「すげえ……こんなでけえ魔石、初めて見たぞ」
集会所の木戸の前にいたシェリーが駆け寄ってきた。
まだ怒りを崩していないが、視線は魔石に釘付けになっている。
「赤き魔石……樹海の奥に棲む魔獣が宿す結晶だよ」
シェリーが膝をつき、瞳を輝かせた。
「不純物が少なくて色も深い。行商人に持ち込めば、間違いなく相当な額になるよ」
「本家からの要求額は、金貨五十枚だったな」
「うん。この魔石ひとつで金貨五十枚すべてを賄うのは無理でも、銀貨数十枚……下手をすれば金貨何枚分にもなる。村の食料を全部売っても金貨二枚に届かなかったことを思えば、途方もない大金だよ」
シェリーの声に熱がこもる。
「秋の終わりまでに税を納められなければ、村は取り潰されるはずだった。でも、この魔石があれば本家と交渉する余地ができる。村を守れる希望の光だよ」
シェリーは熱を込めて語り、布を広げて魔石を大事そうに包み込んだ。
俺への怒りは引きずりつつも、その手つきと視線には村長代行としての責任感が満ちている。
取り囲む村人たちからも安堵の息が漏れた。
絶望の重税に対し、確かな風穴が開いた瞬間だった。
魔石をシェリーへ預け、肉の切り分けへと移った。
大鬼の巨躯から、山のような赤身肉が切り出されていく。
湯気を上げる肉塊が、ムシロの上に次々と積まれていく。
痩せた畑と底をつきかけた食料庫を抱える村にとって、奇跡のような光景だった。
シェリーが衣服の泥を払い、的確に差配を始めた。
俺から視線を逸らしたままだが、指示に迷いはない。
「ダンさん、青年たちと一緒に大きめの塊を食料庫へ運んで! 塩漬けと燻製にする準備をして!」
「分かった!」
「残りの肉は今夜ここでみんなに配るよ! 大鍋を出して煮込みを作ろう!」
作業の指示を終えると、シェリーはくるりと俺を振り返った。
瞳にはまだ不満げな色が残っている。
「……あなたも突っ立ってないで、集会所から一番大きい鉄鍋を運ぶのを手伝ってよ」
冷たい口調で言いつけてきた。
「了解だ、村長代行」
素直に応じると、シェリーは唇を尖らせて集会所へ向かった。
感情を引きずりながらも公務をこなす切り替えの早さは頼もしかった。
広場の中央に巨大な鉄鍋が据えられた。
手桶の水、刻んだ野草、わずかな塩、そして一口大の肉が放り込まれる。
グツグツと湯気が立ち上り、力強い脂の香りが広がった。
焚き火の周囲では、鉄の穂先や木の枝に刺した肉塊が直火で炙られ、香ばしい匂いが夜気を満たす。
「みんな、器を持って並んで!」
シェリーが声を張り上げると、集会所の木戸から出てきた村人たちが列を作った。
子供を連れた母親、腰の曲がった老人、泥まみれの農民たち。
木椀へ肉とスープが注がれていく。
初老の農民が、震える手で木椀を口元へ運んだ。
柔らかい肉を口に含んだ瞬間、男の目から涙が溢れ落ちた。
「うめえ……。こんなうまい肉、生まれて初めて食った……」
男は喉を詰まらせ、しゃくり上げた。
「腹一杯肉が食えるなんて……夢じゃねえのか……」
隣では、助け出されたトミーが無邪気に炙り肉を頬張っていた。
母親が涙を拭い、俺の前へ進み出て深く頭を下げた。
「領主代行様……本当に、ありがとうございました。子供の命を助けていただいて、温かい肉まで恵んでくださって……」
「礼ならボルドさんやダン、シェリーにも言ってくれ。俺一人じゃ解体も煮込みもできなかった」
「いいえ、領主代行様が戦ってくださらなければ、私たちは化け物に食われていました」
温かい肉を頬張る領民たちの目には、村を守り抜いた領主代行への感謝が宿っていた。
到着時の冷たい拒絶は消え去っている。
だが、これで完全な信頼を得たわけではない。
窮地を凌ぎ、肉を分かち合った熱気によるものだ。
本当にこの地に根を張るには、まだ積み重ねが必要だった。
夜が更け、宴の熱気は落ち着いていった。
村人たちは残った肉を抱えて小屋へと戻っていく。
大鬼の巨躯は骨と皮を残すのみとなり、西の境界には食い破られた丸太柵と粉砕された逆茂木の残骸が夜闇に沈んでいる。
誘引路の落とし穴には、まだ狼の死骸が沈んだままだ。
「さて、明日は忙しくなるな」
焚き火の残り火を見つめながら呟いた。
魔石の保管と換金の段取り、残された骨や皮の活用、粉砕された西の設備の復旧。
やるべき課題は山積していた。
冷たい風が頬をかすめたが、寒さは感じなかった。
この寒村で生きていく足がかりは、確かに築かれつつある。
◇
領都アイゼンベルク、ベルンシュタイン伯爵家の本邸サロン。
長男ジュリアンは暖炉の前で銀杯を傾けていた。
注がれた南方の高級ワインが深紅に揺れている。
「――それで、あの出来損ないは北西の寒村へ着いたのか?」
ジュリアンが退屈そうに問うと、控える家臣が恭しく頭を垂れた。
「はっ。定期便の荷馬車でコルト村へ向かい、すでに到着している頃合いかと」
「フン、あの樹海の境にある掃き溜めか」
ジュリアンは薄い唇を歪めて鼻を鳴らした。
成人の儀で剣聖の加護を授かった自分と、錆びたナイフしか出せなかった無能の三男。
身一つで追放してやったのだ。
「魔力ゼロの女がいる死に損ないの寒村だ。武器も持たぬあいつが、生き残れるはずもない」
ジュリアンはワインを一息に煽り、冷酷に笑った。
「せいぜい魔物の腹の足しになった頃合いだろう」




